表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/39

2

 ユキの孫である幸太郎が通っていたのは、颯真が住む街から駅三つ分離れたところで、そこは奇しくも颯真の生まれ育った街だった。この土地は、最近ではたまに訪れている。それは色羽の家に行くときだ。

 色羽の両親は長らく顔を見せなかった颯真にも、昔と変わらず接してくれ、それがむず痒く、しかし、嬉しかった。

「ねぇ、比奈ちゃん、あそこの駄菓子屋さんに、颯ちゃんとよく行ったんだよ」

 色羽は嬉しそうに比奈子に地元の案内をする。色羽が指差す先には、昔よく通っていた駄菓子屋が、以前と変わらぬ姿のまま鎮座していた。しかし、颯真はそれを素直に懐かしむことは出来なかった。

 ──この街の思い出には、真子の存在がついて回る。

 確かに、何処もかしこも色羽とよく遊んだ場所だ。

 駄菓子屋も、駐車場跡地も、公園も、坂道も。真子が一緒に遊べるようになる前は、色羽と二人で遊んでいた。色羽は幼い頃は人見知りが激しく、他の友達が加わると途端に静かになってしまった。なので、大体二人で遊ぶことが多かったのだ。

 そして、真子が少し大きくなってきてからは、いつも三人で遊んでいた。色羽も真子を可愛がっていたし、真子も色羽に懐いていた。

 三人で駄菓子屋に行き、駐車場跡地で遊び、公園でかくれんぼをし、坂道で駆けっこをした。

「あとね、あそこに、いつも黒猫がいたんだよ。颯ちゃん、猫大好きだから、見付けたら暫く動かないで猫と遊んでたんだ」

 その思い出にも、真子は、いた。真子は颯真と違って猫が怖いらしく、色羽の後ろから顔を覗かせていた。いくら、兄にである颯真が怖くないよ、と言っても、結局触れることは出来なかった。

「沢山思い出があるんですね」

 比奈子が微笑んで言うと、色羽はそうなんだ、と楽しそうに答える。

 ──早々にこの地に寄り付かなくなった自分と違い、色羽は今もこの街で暮らしているのだ。

 この間、色羽の家で夕飯を食べさせてもらった。泊まっていくようにと言われ、それにも従った。その日、色羽の父親から、色羽が風呂に入っているときに、この家で暮らさないか、と言われたのだ。

 颯真はもう誰かに庇護してもらう年齢ではないが、颯真の両親としては颯真を一人きりにしておけないと思ったのだろう。その気持ちは有り難かった。けれど、颯真はそれを丁重に断った。

 色羽の父親に、理由を訊いてもいいかと言われ頷き、それにも答えた。

 ──自分は、この街で暮らしていけるだけの強さがない。

 それが、颯真の答えだった。

 真子と何度と遊んだ場所を毎日眺め、そして、真子の遺体が発見された場所を何度も目にする。颯真には、それに耐えられる強さがなかったのだ。

 もう、何年も経過している。ずっと、この場所を遠ざけてきた。痛みも辛さも憎しみも、少しずつ風化している。それでもまだ、この場所に戻る強さはないのだ。そしてそれは、永遠に持てないものなのかもしれない。

 その話を聞いた色羽の父親は、すまないね、と優しく微笑んでくれた。彼が謝ることではない。颯真はすかさずそう言って、頭を上げるように頼んだ。

 自分が弱いのだ。

「……颯真さん?」

 柔らかな声に、意識が戻った。

「え、おお。なんだ?」

 颯真は数度、瞬きをして比奈子を見た。夏の陽射しは眩し過ぎる。

「具合、悪いですか?」

 ぼんやりと思考が飛んでいたのがそう見えたのだろう。

「いや、大丈夫だ。ちょっと喉が渇いた」

 颯真は笑って誤魔化した。自分でやると決めたのだ。自分で、この街に来たのだ。

「なら、コンビニに行きましょう。あちらに、オープンしたてのお店があるみたいです。私も、喉が渇きましたし」

 比奈子がいつもより早口で言う。恐らく、颯真が不調な理由に気付いたのだろう。だからこそ、真子との思い出がないであろう、新しい店を提案してきたのだ。

「ああ、いいな」

 颯真はまた笑顔を作る。すると、それに比奈子が一瞬、悲しそうな表情を見せたように思えたのだが、気のせいだったのか、直ぐにいつもの顔になっていた。

「色羽さん、コンビニに行きましょう」

 比奈子は颯真から少し離れて、色羽に声を掛けた。色羽はそれに、賛成、と手を挙げ、颯真の隣に並ぶ。反対側には比奈子。端から見れば、女子二人に挟まれる男。

 ──ギャルゲーか萌え系アニメか。

 異様なシチュエーションを颯真は自身で突っ込んだ。


 幸太郎が通っていた小学校は、颯真達が通っていたのと同じ小学校ではなく、別の地域のものだった。同じ市内にも、幾つも小学校はある。颯真達はコンビニで買ったお揃いのお茶を飲みながら暑い道を歩いた。

 秋が近付いてきているとはいえ、まだ昼間は暑い。朝晩は少しだけ気温が下がり、夜風は少しだけ冷たい日もある。

「お揃いだねぇ」

 色羽が嬉しそうに、星の形をしたストラップを顔の前で揺らしている。これは、コンビニで買ったお茶におまけとして付いていたものだ。色羽が三人でお揃いを持とう、などと言い出して無理矢理に三つ買ったものだ。

「そうだな」

 颯真のそれは既に無造作にジーンズのポケットに突っ込まれていた。今日の颯真の服装はいつもの作務衣に雪駄、というものでなく、Tシャツにジーンズ、そしてサンダル、というものだった。颯真としてはいつもの格好のままでも良かったのだが、色羽と比奈子に、電車に乗るのにそれはない、とあまりに強く言われたので、渋々着替えたのだ。

「えー、颯ちゃん、嬉しくないの?」

 颯真の返答に色羽が頬を膨らませて言う。

 二十歳を過ぎた男が、友人とお揃い──しかも可愛らしいストラップを嬉しがるというのは、どうなのか。颯真はポケットに入れたストラップを掴みながら内心で溜め息を吐いた。

「つか、どこに付けろってんだよ」

 颯真は言いながらまだ袋に入ったままの、薄い──星なのに──桃色のストラップを目の前にぶら下げる。陽の光に、紐と模型を結ぶ金具の部分がきらりと光った。

「スマホとか?」

「ストラップは付けない主義」

 ガラケーのときは幾つか付けたりもしていたのだが、スマホといいうのはストラップを提げるとどうしても邪魔になってしまう。颯真は最初こそ、ストラップを提げてはいたが邪魔だということに気付いてからは付けたことがなかった。

「じゃあ、お財布」

「ポケットで邪魔だろ」

「鞄」

「鞄なんて持たねぇ」

「耳」

「馬鹿か。殺すぞ、こら」

 颯真は色羽とぼんぽんとやり取りを繰り広げていく。比奈子が一歩だけ離れた距離で、それを眺めているのが視界に入った。そわな比奈子は小さな手に、そのストラップを大事そうに握っている。

「……家の鍵に付けるよ」

 颯真は観念したように言い、ストラップをまたポケットに突っ込んだ。

「私も、鍵に付けようと思ってたんです」

 颯真の言葉を聞いた比奈子が一気に距離を詰めてきた。大きな瞳がすぐ傍に迫ってくる。

「あ、じゃあ僕も鍵に付けるね」

 色羽は嬉しそうに言いながら、いそいそと鞄から自宅の鍵らしきものを取り出した。そこには意外にも何もつけられていない。

「皆でそうしましょう」

 比奈子は笑顔でストラップを細い指にかけた。ちゃらり、と星が揺れる。比奈子の嬉しそうにな笑顔は無邪気なこどものようだ。

「ほら、こんなとこで付けてたら、鍵なくすぞ。家でやれ」

 色羽と比奈子はこの場でストラップを鍵に付けようとしたいたので、颯真はそれを止め、歩みを速めた。

 ──胸の奥が痛い。

 その理由をわからないほど鈍感でなければ、経験がないわけでもない。颯真は敢えてその感情を無視しながら、幸太郎が通っていた小学校への道を進んでいった。


 まだ下校時刻にはならない通学路は人気がない。駅からここまでの道で擦れ違ったのは片手で足りる程度。元々栄えた街ではないが、颯真が知っている頃よりも住人が減ったようにも思う。

 道を選べば、もっと人はいるのだろうが、最短経路であるこの道は静かだ。真昼特有の静けさは、深夜のものとは何処か違う。

「これじゃあ、拐われても不思議はないかもね」

 色羽がぽつりと言った。

 今足を止めている場所は、ユキが幸太郎と会い、そして彼を待っていた場所だ。小学校からは徒歩で十分あるかないか。周りにあるのは住宅のみで、店と呼べるものはない。

 働きに出ている家が多いのか、ベランダなどに洗濯物を干してある家は少なかった。

「でも、下校時刻なら、こども達が大勢いますよね?」

 比奈子の返しに、色羽はそっか、と頷いた。確かに、真昼である今は人気がなく静観な住宅街でしかないが、下校時刻ともなれば話は別だろう。何せ、ここは通学路なのだ。それを証明するように、通学路を表す道路表示まであるのだ。

 ユキが幸太郎を迎えに行ったのは、下校時刻に合わせて。ならば、人は大勢いただろう。

「取り敢えず、学校に行こう」

 颯真はアスファルトを踏み締めた。


 小学校の校庭では体育の授業が行われているらしく、中学年くらいのこども達がサッカーをしていた。颯真は体育の授業が好きだった。勉強の方は良くもなく悪くもないような成績だったが、体育の成績だけはずば抜けてよく、昼休みはよくクラスメイトからドッヂボールやらサッカーやらに誘われた。

「うぇー、僕、体育は苦手だったなぁ」

 そんな颯真に反して、色羽は体を動かすことが得意ではなかった。走っても遅いし、球技も反応が鈍い。そのことにコンプレックスを持っているらしい色羽はいつも体育の授業を嫌がっていた。しかし、色羽はこれもまた颯真と反して、勉強の成績は頗る良かった。

「比奈ちゃんは?」

「私は……あまり学校に行かなかったので」

 久し振りに比奈子が声のトーンを落とした。

 ──そういえば、こいつのことはあまり詳しく知らない。

 兄がいて、対人恐怖症──少しずつ克服はしているが──だということくらいしか知らないのだ。後は、唯一人の兄を最近殺されたということ。

「学校なんて、行かなくてもいいんだよ。僕もね、行きたくないとき、何度もあったよ」

 色羽が笑顔でそんなことを言うので、颯真は驚いて色羽の顔を見た。色羽がそんなふうに思っていたことがあるなど、知らなかったからだ。

「無理して行く必要なんてないよ」

 ──知らないのは、何も比奈子のことだけじゃない。

 颯真はそう思いながら、比奈子を励ますような素振りを見せる色羽の横顔から視線を逸らした。校庭からは、楽しそうにサッカーをする声が聞こえてくる。きっと、この中にも体育の授業を楽しめていない生徒がいるのだろう。

「ほら、行くぞ」

 颯真は二人に声を掛け、裏門へと向かった。裏門は開け放たれたままで、防犯を疑いたくなったが、すんなりと入ることが出来るのは有り難かった。

「えぇと、どうしたらいいのかな?」

 色羽が勝手に来客用のスリッパを手にしながら言う。

「……俺ら、別に遺族でも警察でもないよな」

 まずは、と意気込んで小学校に来てみたはいいものの、それ以上のことは考えていなかった。取り敢えず入ったからといって、何をしようというか。そもそも、ここで何が出来るのか。

 三人揃い、途方に暮れる状態で動きを止めた。

「わ、私が、幸太郎君の幼馴染みという設定にします」

 比奈子が小さく挙手をしてそんな提案をしてきた。颯真と色羽はそれに一度顔を見合わせてから、同時に口を開いた。

「それだっ」

「それだよ」

 ──ということで、比奈子が幸太郎の幼馴染み、颯真が比奈子の兄、色羽が比奈子の友人、という設定を即興で作った。シナリオとしては、比奈子が幼馴染みである幸太郎の死を最近知った。どうしても、犯人を見付けたい──見付けられるわけはないと知りながら、というお涙頂戴的な設定を付属し──と切に願って、当時の話を聞きに来た。颯真はそんな妹を心配してついてきた兄。色羽もそんな友人を心配してついてきた。

「完璧だな」

 颯真は自分達で作り上げた設定に、うんうん、と頷いた。

「では、シナリオも出来たところで、レッツゴー」

 色羽の一言で、全員来客用のスリッパに履き替えた。裏門の辺りは授業中だからか、見事に人がいない。生徒も教師も教室にいるのだろう。しかし、行くならば職員室だろう、と三人は廊下をきょろきょろと見渡した。するとすぐに「職員室」と表示してある部屋を見付けた。

「失礼します」

 色羽がこんこん、とノックをしてから職員室の扉を開けた。これが颯真だったなら、ノックなしに開けていたかもしれない。

「はい。……えぇと、貴方達は? 誰かの御父兄?」

 職員室には二人ほど教師らしき人物がいた。颯真達の対応をしてくれたのは、まだ年端のいかない女性。新任などだろう。

「あの、俺た……僕達、十年前に在籍していた生徒さんについて、話を聞きたいのですが」

 颯真はそう言ってから、ぺこりと頭を下げた。

「十年前……とは、ちょっと難しいかもね」

 反応をしたきたのは先程の女性ではなく、三十代半ばほどの男性だ。背が高く、これといった特徴のない顔立ちをしている。

「難しい、ですか?」

 颯真は彼に聞き返した。

「そうだね。公立は定期的に人が入れ替わるから、十年前のことを知っているのは、僕と、もう一人くらいしかいないかな」

 男はすまなそうに眉を下げている。

「あ、じゃあ、貴方に話を伺っても?」

 颯真は男を見上げながら訊く。ずっとこのままでいたならば、首が痛くなりそうだ。

「僕で答えられることで良ければ」

 彼はそう答えて、穏やかな笑顔を浮かべた。人が良さそうな好青年だ。いや、青年と呼ぶには少し歳が上かもしれない。

「ここじゃ何だし、移動しようか。僕、今日はもう、授業はないんだ」

 男はまた、笑顔を作った。

「担任はないんですか?」

 もしあるならば、時間は限られる。

「僕の担当は図画工作。だから、ホームルームに行くこともないよ」

 言われてみれば、男の手には絵の具なようなものがついている。赤と青、そして黒。

「図工室に案内するよ。そこなら、ゆっくり話せるからね」

 彼はもう授業はないと言った。ならば、図工室にも生徒はいない。

「お願いします」

 颯真達は揃って頭を下げた。


 図工室は色んな匂いがした。水彩絵の具、墨、木材など。様々な匂いが混じりあっている。もう、この教室自体に染み付いた匂いなのだろう。

「適当に座ってね」

 男は四角い机達を指差して言った。木製のそれは、彫刻刀などのせいか、表面に沢山傷が付いている。

 ──懐かしいな。

 颯真はそのうちのひとつを選んで、机と同じく木製の椅子に腰を下ろした。色羽が颯真の向かい、比奈子が隣へと腰を下ろす。

「僕はさっきも言った通り、図画工作の担当だから、中学年以上の生徒は全員教えているんだ。だから、もしかしたらだけど、君達に何か話せることがあるかもしれない。とはいっても、十年も前となると、印象的な生徒さんくらいしか覚えていないかもしれないけどね」

 彼は自分は板山いたやま 祐輔ゆうすけだと名乗ってからそう言い、苦笑を浮かべた。

「僕達が聞きたいのは、向井 幸太郎君という子についてなんすけど」

 颯真が単刀直入にその名を出すと、板山の眉がぴくりと動いた。

「覚えているんですか?」

 色羽もその様子を見逃さなかったらしく、すかさず質問をする。

「まあ、それは勿論というか……あんなことがあったしね」

 板山は視線を下げて言った。

「向井君は、在学中はこれといって印象に残る子ではなかったんだけど、忘れられない生徒にはなってしまったかな」

「じゃあ、在学中に関しては特に覚えていることはないですか?」

 比奈子が身を乗り出すようにして板山に訊いた。

「うん……そうだね。特に思い出すようなことはないかな?」

 板山はそれに少し首を捻ってから答えた。

「で、どうして君達は向井君のことを?」

 颯真は板山の質問に、きた、と心の中で深呼吸をした。穏和そうな彼であれば、本当のところを話したとしても、事情を考慮して、話をしてくれそうではある。けれど、もし無関係な人に話すことは出来ない、と言われてしまったらそれまでだ。

 なので、颯真は先程三人で作り上げた設定をそのまま使うことにした。

「僕達、向井君の幼馴染み、なんです。幼い頃に引っ越してしまって、最近、その……向井君が亡くなったことを知ったんです」

 あのときは勢いで考えたが、最近知ったというのは些か無理があるだろうか、と思えてきた。しかし、幼い頃に少し遊んだことがある程度ならば、引っ越してしまえば知るきっかけもないと思ってくれるだろうか。

「そうだったんだね」

 板山は颯真の話を疑った様子はなく、親身な表情で頷いた。颯真はそれに安堵し、話を続けた。

「で、僕達、出来れば向井君を殺した犯人を見付けたいんです。十年も経ってしまっているから、難しいとは思います。でも、それでも、向井君の無念を晴らしたくて……」

 人に嘘を吐くというのは、どうしても良心が痛む。しかし、これは必要な嘘なのだ、と颯真は自身に言い聞かせた。

「どうして、そこまで思うの? 幼い頃、僅かな間友達だっただけだよね」

 まさか、そこを突っ込まれるとは。颯真は焦りが顔に出そうになるのを必死で堪えた。ここまできて、嘘でした、とは言えない。そうなってしまえば、板山は口を閉ざすだろう。

 ──こんなことなら、最初から正直に話せばよかった。

 颯真は最初の判断を誤ったことを悔やんだ。

 もしかしたら、板山であれば謝れば許してくれるかもしれない。そのうえ、ユキの話をすれば、話を聞かせてくれるかもしれない。颯真はそう思い直し、唇を噛んだ。

「初恋……だったんです」

 颯真が意を決して頭を下げようとしたそのとき、比奈子が小さく口を開いた。

「幸太郎君は、私の初恋で、いつか会いたいと、ずっと思ってきました」

 比奈子は嘘を吐くことに緊張しているのか、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「だから、今回こちらに戻ってくるとなって、会えるかも、て楽しみにしてたんです。優しい幸太郎君の笑顔が大好きだったから、あの笑顔にまた会いたいな、て」

 比奈子の言葉に、颯真は胸に異様な気配を感じた。ちくり、でもなく、なんというか、何かがつかえる感じだ。

「だから、私、幸太郎君を殺した犯人を、どうしても見付けたいんです。でないと私、幸太郎君のことをずっと忘れることが出来なそうで……」

 比奈子は話し終えると、俯いた。長い髪が顔を隠してしまっているので表情はわからない。

「そっか。それなら、僕で力になれることがあれば。といっても、何も出来ないかもしれないけどね」

 板山は比奈子の嘘を信じたらしく、優しく笑った。

「ありがとうございますっ」

 それに返事をしたのは、比奈子ではなく色羽だった。よく見れば、比奈子の両膝の上に置かれた手は小刻みに震えている。緊張からくるものだろう。

 比奈子の対人恐怖症がすっかり克服したということはない。颯真や色羽、小折相手であればすっかり普通に会話出来るが、さいこに行き、泰嗣の顔を見れば途端に静かになってしまうほどだ。そんな比奈子が、初対面の相手に嘘を吐いたのだ。それは、颯真の想像を越える緊張だっただろう。

「比奈子、少し外に行こう」

 比奈子が泣いているように思わせながら、颯真は比奈子の手を取った。今日は暑いというのに、その手はひんやりと冷たい。比奈子は何故か驚いたような顔で颯真を見てくるので、颯真は目配せだけをして、外に行くことを指示した。

「比奈ちゃん、優しいお兄ちゃんでよかったね」

 色羽が板山に対し、二人の関係を捕捉するように言うのを聞いてから、颯真は比奈子を連れて図工室を出た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ