消えない哀しみ1
「貴女が、貴女が目を離したりしたからよっ」
女の甲高い怒声が颯真の耳に届いた。颯真はさいこへの方向へと向けていた足を止めた。怒声が聞こえてきたのはユキの家からだ。
古い長屋のような、平屋です横長の建物。五世帯が入居していて、いずれも老夫婦やら、年配の独り暮らしだ。その中でも、颯真が一番親しくしているのは向井ユキだった。
若い頃はさぞや美しかったであろう面影を今も残した、上品な老女だ。白髪になったそれを、いつも綺麗に結い上げ、シンプルでいて洒落た服を着ている。長屋に住んでいるよりも、豪邸で暮らしていそうな佇まいの女性だ。
そして今、そのユキの家では、比奈子が一緒に暮らしている。
颯真はユキの家から聞こえてきた怒声が気になり、コンビニに行く予定だったことをすっかり忘れてしまっていた。颯真が知る限り、ユキの家に来訪者と、いうのはないように思う。とはいえ、四六時中ユキの家を見張っているわけでもないので、それは定かではない。
「貴女があの日、幸太郎から目を離さなかったら……」
叫び声に似たそれは、最後には嗚咽へと変わった。
──颯真が、真子から目を離さなければ。
不意に、かつて呟かれた台詞が蘇ってきた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。謝って済む話でないのはわかっているわ。けれど、謝るしか出来ないのよ」
続いて、ユキの悲しそうな声が聞こえてきた。長屋は木造なので、大きな声は外まで聞こえてしまうのだ。よく、この家の前を通るとき、ユキと比奈子の楽しそうな声が聞こえてくる。
「そうよっ。どんなに謝られたって、あの子は帰っては来ないのよっ」
泣き声混じりのそれは、悲痛な叫びだった。しかし、颯真はその相手を知らない。そうなると、颯真の感情はユキへと向かい、いてもたってもいられない気持ちになった。颯真はユキの玄関の引戸へと手を伸ばしたが、その瞬間、勢いよくその扉は開いた。
「おわっ」
「颯真さん……」
そこにいたのは、今にも泣き出しそうな顔をした比奈子だった。大きな漆黒の瞳は、溢れそうな涙で歪んでいる。瞬きをしたらならば、ぽとりと大粒の涙が零れそうだ。
「ちょうど……良かったです。私……」
そう言って、比奈子はぽろぽろと涙を溢し始めた。大きな透明な粒が、ぽとりぽとりと地面に落ちている。
「お、おい。どうした?」
颯真ははらはらと泣く比奈子の肩にそっと触れた。細過ぎるその肩は、あまりに頼りなく、不意にそれを自分の胸元へと引き寄せた。それでも、比奈子は肩を震わせて泣いている。
「泣いてたらわかんねぇだろ。おい、どうしたんだ? 誰が来てるんだ?」
颯真は比奈子を宥めるように、軽く背中を擦ってやりながら尋ねた。
「……ユキさんの……お嫁さん、が」
比奈子は泣いているあまり、上手く言葉を紡げずにいるようだった。
「お願いですから、もう、あの子のお墓には来ないで下さいねっ」
途端に怒声が近くなり、どたどたと、大きな足音が聞こえてきた。颯真はそれに、比奈子の頭部に向けていた視線を上げた。すると、部屋の奥から、中年の綺麗な女性が溢れた涙を拭うこともせずに大股でこちらに向かってきている。
束ねていた髪は少々乱れ、化粧も滲んでいる。
「退いてっ」
玄関先で抱き合うような形になっていた颯真と比奈子は、その女性に突き飛ばされるようにして移動させられた。
「裕子さん、待ってちょうだい」
その女性を追うようにしてユキが現れたが、女性は既に路地を抜けていて、その姿は見えなかった。
「あら、颯真ちゃん」
ユキは颯真の姿を認めるなり、恥ずかしいところを見せてしまったわね、と気丈に振る舞った。溢しただろう涙を直ぐに拭い、泣き続けている比奈子の頭を撫でるユキは、哀しみに沈んだ表情をしていた。
「ばぁちゃん、どうしたんだ?」
颯真は胸の中で今も泣く比奈子の背を撫でながら、ユキに尋ねた。
「こんなところじゃあれだから、中に入ってちょうだい。お茶、出すわね。さあ、比奈ちゃんも、中に入りましょう。貴女が泣くことはないのよ。そうね、怖かったわよね。知らない人がいきなり怒鳴って入ってきたんだものね」
ユキは嗚咽も洩らす比奈子の手をそっと引き、比奈子はそれで漸く颯真から離れた。それでもまだ比奈子は泣き続けている。
「さ、中で休みましょう。もう、怖くないわよ」
そう言うユキの口調はとても優しく、それで比奈子は少しずつ落ち着きを取り戻しているように見えた。颯真はそんな光景を眺めながら、お邪魔します、とユキの家へと入った。
「颯真ちゃんにははなしたことなかったわねぇ」
ユキは三人分のアイスティーとクッキーを用意してから静かに言った。穏やかな口調は、母方の祖母を思い出させる。颯真の母方の祖母も、こんなふうに穏やかな口調の人だった。反して父方の祖母は、年齢の割に溌剌とした人で、幾つもの習い事をしていた。
──二人とも、今はどうしているのだろうか。
比奈子は漸く涙が止まったようだが、俯いているので、気を引き締め泣かないようにしているのがわかる。
「私にはね、生きていたら、比奈子ちゃんくらいの孫がいたのよ」
ユキはそう言って、部屋にある仏壇に目を向けた。そこには、小学校中学年くらいの少年の写真が飾ってあった。無邪気な笑顔でピースサインをしている彼は、目元がユキとよく似ていた。
──生きていたら。
そう言ったユキの目は哀しみを含んでいた。先程の女性とのやり取りと、今のユキの言葉で、颯真の中で話が見えた。
ユキの孫は、亡くなっているのだろう。
「もう、十年前になるわね。幸太郎──孫はね、あの子の両親が共働きだから、いつも私が学校が終わった後の面倒を見ていたの」
ユキは当時の話をゆっくりと語った。
ユキの孫、幸太郎は小学校が終わると真っ直ぐにユキの家へと足を運んでいたらしい。素直で、絵を描くのが得意な少年で、体を動かすことも好きだったらしい。
幸太郎もユキに懐いていて、いつも「お祖母ちゃん、見て」と描いた絵を見せてくれる、優しいこども。ユキは懐かしそうに、哀しそうに、幸太郎との思い出を語っていった。
そして、とある日、ユキは学校の近くまで幸太郎を迎えに行った。そういったことはたまにあり、ユキの姿を見付けると幸太郎は嬉しそうに駆け寄ってきてくれたらしい。ランドセルを揺らし、笑顔で走り寄ってくる孫というのは、さぞかし可愛かったことだろう。
しかしその日は、幸太郎は笑顔で駆け寄ってきた後、少しだけ待ってて欲しい、とユキに向かって言ってきたという。教室に忘れ物をしてしまったから、直ぐに取ってくる、と。幸太郎は笑顔で手を振りながら、学校の方へと戻っていき、そのまま戻って来なかった──。
待たされたまま三十分が経過し、おかしいと思ったユキは、自ら学校へと向かったが、そこに幸太郎が戻ってきた形跡はどこにもなく、行方不明という扱いになった。警察にも届を出し、家族で幸太郎を探した。けれど、そのまま二日間、幸太郎の行方はわからぬままだった。そして、その翌日、近所の林の中で、冷たくなった幸太郎が警察によって発見された。
──誘拐致死だ。
颯真はユキの話を聞きながら、体温が下がっていくのを感じた。手先が氷のように冷たくなる。
似ていた。颯真がかつて経験したことと、ユキの語った話が似ていたのだ。
そっくりということではない。
真子は行方不明になって直ぐに遺体は発見された。しかも、颯真自身によって、だ。
「でも、ユキさんのせいじゃない」
比奈子は涙声で訴えるように言った。颯真はその声で我に返った。
「そ、そうだよ。なんでそれで、ばあちゃんが目を離したことになんだよ」
先程の女性の言葉を思い出す。きっと彼女は、ユキの息子の嫁で、幸太郎の母親だ。
ユキは、幸太郎から目を離したわけではない。幸太郎に言われ、その場で待っていただけだ。
──俺とは、違う。
颯真は本当に、まだ幼かった真子から目を話してしまったのだ。そしてその隙に、真子は誰かに拐われてしまった。
──貴方が目を離さなければ……。
それは、颯真が母親から言われた言葉だった。母親の悲痛な叫びだった。勿論、反論など出来なかった。それは、事実だったから。けれど、ユキは違う。それに幸太郎も、真子のように幼いこどもではない。
「いいえ。あのとき、私が学校までついていっていればよかったのよ」
ユキは哀しそうな笑顔で言った。
きっと、あの女性からずっとそうやって責められてきたのだろう。そして、彼女が責めずとも、自らを責めてきたのだろう。大事な孫が殺されてしまったのは自分のせいだ、と。
「……あのさ、犯人は?」
颯真の小さな問い掛けに、ユキは静かに首を横に振った。犯人は、捕まっていないということだ。
短時間の出来事。それでも犯人が捕まらないケースというのは確かにあるのだ。
「そっか」
返す言葉はそれしかなかった。ユキは、颯真の過去のことを知らない。颯真も、ユキの過去のことなど知らなかった。二年間、目の前に住んでいても、だ。
どんなに情緒溢れる商店街や街並みだとしても、それが現代の都会というものだ。
「ばあちゃんさ、犯人、捕まって欲しくないのか?」
もし、同じ質問を颯真がされたとしたら、どう返すのだろう。その答えは、自分でもわからなかった。
「どうしかしらね。犯人が捕まったとしても、あの子は帰ってはこないわ」
その通りだ。犯人がわかることで、怒りや憎しみや哀しみが増幅されるだけかもしれない。思わなくていいことまで思うだけかもしれない。
「でもね、ひとつだけ、知りたいわ」
ユキが本当に小さな声で言った。
「どうして、あの子だったのかしら」
ぽつりと溢されたその言葉。颯真には、ユキの気持ちが痛いほどにわかった。ユキの孫である必要があったのか。真子である必要があったのか。彼らが殺されなくてはならない何かがあったというのか。
──それとも、誰でもよかったのか。
その疑問は、犯人が捕まらない限り、答えが出ることはない。答えを知ったとして、やはり彼らが帰ってくることはないし、更に辛い思いを強いられる可能性だってある。
それでも、知りたいのだ。
颯真はずっと、その思いに蓋をしてきた。幾らそれについて考えたところで、颯真自身の手で犯人を捕まえることは決して叶わないと思っていたからだ。いつか、警察が捕まえてくれる。最初の頃はそう信じ、そしていつしかその期待は消えた。
もう、真子を殺した犯人が捕まることはないのだろう。
「……俺が探すよ」
颯真は静かな声で告げた。それに対してユキが首を小さく傾げる。
「俺が、ばあちゃんの孫を殺した犯人を探してやるよ」
「颯真さん?」
颯真の言葉に驚いたらしい比奈子は涙を浮かべたまま、颯真を見てきた。
「俺が必ず、ばあちゃんの孫を殺した奴を見付ける。だから、待っててくれ」
何故、自身の口からそんな言葉が出たのかはわからない。ただ、聞いてみたいと思ったのだ。幸太郎を殺した犯人に、何故、彼が殺されなくてはならなかったのか、聞いてみたかったのだ。
いつか、真子を殺した奴に同じ質問をする為にも──。
颯真と比奈子と色羽は、一枚の紙を眺めながら同時に唸り声をあげた。ユキの家から貰ってきたスーパーのちらしの裏には、ユキから聞いた当時の話が、比奈子の綺麗な字で書き込まれている。
──俺が探す。
そう言ったはいいが、あてなど何もない。そもそもが、十年も前の出来事なのだ。
颯真の言葉に、ユキは首を横に振った。そんなことはしなくていい、と優しい口調で言ってくれたのだが、颯真として、何もしない、という考えはなかった。
颯真と比奈子で頑なにその提案を拒否するユキをなんとか説得し、犯人を探す許可を得た。比奈子も、自分の兄を殺されたときの感情を持ち出してまで、ユキの説得に付き合ってくれたのだ。
しかし、何をすればいいのか。
自分から提案したはいいものの、最初に何をすればいいのかすらわからない状態だ。
「まず、当時を知る人に話を聞きに行く?」
色羽がちらしを眺めながら口を開いた。
「まあ、それしかないわな」
颯真は頭を掻きながら、溜め息を吐いた。
「一応、小折さんにも協力してもらえるか聞いてみるか」
警察の力を借りれるなら、それに越したことはない。颯真はメッセージアプリを使って、小折にも連絡をしておいた。小折のことだから、何かしら協力をしてくれるのは間違いないだろう。
「では、幸太郎君が通っていた小学校に行ってみましょー」
色羽が立ち上がりながら元気よく声を出した。
「でもさ、颯ちゃん、急にどうしたの?」
比奈子がユキに出掛けることを告げる為に一度家へと戻っている間、色羽に尋ねられた。
「ん?」
色羽の質問の意味がわからずに、颯真は首を傾げる。
「だって、颯ちゃん、今まで乗り気じゃなかったでしょ?」
今まで、というのは、これまでに関わってきた幾つかの事件のことを言っているのだろう。確かに、そうだ。
たまたまかかわることになり、結果的に犯人に気付いた。推理したわけじゃないし、積極的に犯人探しをしたわけではない。比奈子の件については、他よりも積極的ではあったが、推理などはしていない。
けれど、今回については、自ら犯人を見付ける、と豪語したのだ。
「……ま、なんとなく、だ」
色羽に、真子の話題を振る気にはなれなかった。色羽の女装は今日も完璧だ。ノースリーブのブラウスに、デニムのショートパンツ。喉仏を隠すように、スカーフを首もとに緩く巻いている。ウィッグはストーレートの黒髪。
「なんとなく?」
色羽は疑問を抱くような表情をし、それ以上を突っ込もうとしてきたが、そのタイミングで比奈子が戻ってきた。
「お待たせしました」
比奈子は急いでいたのか、少し乱れた髪を直しながら言った。
「じゃ、行くか」
颯真は敢えて色羽の顔を見ずに、ちらしに書かれた小学校の名前に視線を落とした。