番外編「距離感」
真夏を少しだけ通り過ぎた午後。それでもまだまだ気温は高い。世にいう残暑というやつだ。
俺は冷房の風を顔に浴びる為に、エアコンの風向きを変えた。色羽の父ちゃんから譲って貰ったエアコンは性能がいいやつらしく、風が強くなり過ぎないようになっていた。しかし、陽の当たりづらいこの建物には十分で、よく冷える。
──外には出たくねぇな。
この部屋に扇風機しかないときは、涼む為に電気屋に行ったり、カフェランタンに行ったり、さいこに長居したりしていた。が、こうして部屋が冷えるようになってしまえば、わざわざ暑い外には出たくないというものだ。
けど、冷蔵庫の中は空っぽ。昼飯がない。ついでに夕飯も、ない。なんなら、おやつもない。本当の空っぽだ。
──ああ、麦茶ならあるわ。
色羽と比奈子がそれだけは切らさずに作っている。まあ、自分達が俺の部屋に来たときに飲み物がないというのが嫌なだけだ。
「買い物……行くかな」
俺は仕方無しに立ち上がる。着替えるのは面倒だし、買い物といっても商店街にあるストアーだから、いつもの作務衣のままだ。一応のスマホと必要な財布、鍵を掴んで部屋を出る。
むわ、とした残暑特有の熱気が体を包んだ。
「気持ち悪ぃ……」
ねとつく湿気はべたついて肌が気持ち悪い。取り敢えず、帰ってきたらシャワーを浴びよう。以前は事務所に使用されていたというのに有難いことにユニットバスが、俺の部屋にはついている。もしかしたら、以前の使用者は、住人も兼ねていたのかもしれない。
古びたビルの階段だからか、風通しも悪く、熱気だけが充満してやがる。まだ外に一、二歩出ただけだというのに、全身はじわりと汗ばんできた。
──やっぱり引き返そうか。
そんな考えが頭を過る。空腹を我慢出来るか。せめて、陽が沈むまで……。
腹の虫が、勢いよく鳴ったので、覚悟を決めた。
ぺた、ぺた、と雪駄を鳴らしながら階段を下りていく。なんだか、こんなふうに一人きりなのは久し振りな気がした。
実際は、そうでもない。色羽だって、さすがに毎日顔を出すわけじゃないし、比奈子も色羽に連れて来られなきゃ、一人で俺の部屋に来ることはない。まあ、それは女だから当たり前だ。
小折さんも、事件のお礼に来たりする程度。だから、実際は意外と一人の時間の方が多い。なのに、なんとなく、一人だというのが強調されている。
比奈子も小折も知りあったばかりなのに、すっかり自分の中に定着しているのだと知る。
別に、俺は人と関わることを避けてきたつもりはない。親しくなることも。けど、多分、どこかで一線は引いていたし、それを指摘されたことだってある。
──俺から会いに行ったりはしない。
それだ。
以前、色羽に対して言ったことのある言葉。たまたま会わなきゃ、会わない。それが、俺の人との付き合い方だ。色羽はそれを知っているからこそ、こまめに顔を出してくるのだ。
会いに来られるのは、嫌じゃない。でも、会いには行かない。
だったら、互いに会いに行かない同士だったら?
ふと、比奈子の顔が浮かび、俺はぶんぶんと首を横に振った。
けどまあ、確かに当てはまる。俺も、あいつに会いに行くなんて、余程の用事がなければしないし、あいつだってそうだろう。例え、目と鼻の先に住んでいたとしても。
現に、今の関係はそうだ。たまたま会うか、色羽が連れて来ない限り、あいつと会うことはない。顔を合わせないまま数日が経過することもざらだ。
「ま、別にそれでいいんだけどさ」
「何がいいんですか?」
もう少しで階段を下りきるというとき、呟いた独り言に返された。
「ぬわっ。なんだよっ」
しかもそれは、今、頭に浮かんでいた相手──比奈子だった。
「……人の顔を見るなり、変な声をあげるのは失礼だと思います」
比奈子は少しだけ、むっとした顔をしている。顔立ちはとても整っているので、そうした表情すらも可愛い。……じゃなくてだな。俺は内心で溜め息を吐いた。
「悪かったよ。けど、いきなり声がしたら驚くに決まってんだろ」
「それは失礼しました。で、なんのことですか?」
お前との関係についてだよ、なんて言えるはずもなく。俺はなんでもねぇよ、と素っ気なく返した。すると、比奈子は何かを気にしたような表情に変わる。
──傷付けたのかも。
ちくり、と胸が痛むが、気付かない振りをする。
「つか、色羽は?」
比奈子の位置はビルの中。即ち、俺の部屋へ行こうとしているということ。ならば、近くにいていいはずの色羽の姿が見えない。
「色羽さんですか?」
俺の問いに、比奈子が首を傾げる。
「あ? 一緒じゃねぇの?」
「はい。今日は、私一人ですが」
清楚な淡いブルーのワンピースを纏った美少女がそんなことを言う。
「おぉい、何の用だ」
こいつが俺の部屋に来る用事など、見当も付かない。
「用事がないと、行っては駄目なのですか?」
色羽と同じことを言って返される。完全に色羽に影響されてやがる。
「いや、駄目だろ」
「……駄目、なんですか?」
悲しそうな顔を作られ、たじろぐ。
「はぁ……。よく考えてもみろ。男の部屋だぞ。男一人の部屋。若い女が迂闊にそんなところに来んな」
対人恐怖症とやらは、大分克服されているのか、俺や色羽に対してはもうそんな素振りはほとんどない。
「……颯真さん、私に対して、そういったことを考えるんですか?」
いやいやいや。そういう話じゃねぇ、と思わず突っ込みそうになったが、口をついて出たのは違う言葉だった。
「誰がお前みたいなガキにそんな気起こすかっ」
「だったら別に、構いませんよね?」
あ、負けたわ。
一瞬にして、頭を抱え込みたくなる。
「はあぁ……」
俺は盛大に溜め息を吐いた。
「もう、勝手にしろよ」
それしか言えなかった。すると比奈子は笑顔で、はい、そうします、と答える始末。なんなんだ、一体。
「あ、何処かに行かれるところだったんですか?」
「……飯の買い物」
俺はぽつりと返す。もう、強く言う気も起きない。
「なら、私が作りますよ。何か、食べたいものはありますか?」
そう言いながら、比奈子は外に出る俺の後をついてきた。どうやら、飯を作ってくれる気満々らしい。
どうしてこうなった。色羽のせいか。つか、なんで懐いてくる。ぐるぐると頭の中を思考が回る。
「旨いもん」
「任せて下さい」
比奈子は一人でやけに嬉しそうにしている。多分、こんなこいつを見るのは初めてなように思う。
その理由がわかりそうになったところで、俺はその考えに蓋をした。気付かぬ振りをすれば、気付いていないのと一緒。後は、俺がもう少し気を付ければいいだけのことだ。
「商店街のお店、安くていいですよね」
比奈子は少し距離を開けた隣に並んできた。最初から強く拒絶をされていたわけではないが、それでも最初と比べれば拒絶は近い。物理的なものも、気持ち的なものも。
比奈子にとっては、いい傾向なのだと思う。人と関わりを持てるようになることは。
──けれど、俺にとっては?
俺は胸中複雑極まりない状態で歩みを進めた。
そういえばガキの頃、こんなふうに懐いてくる野良猫がいたことを思い出しながら────。