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朝食を終える頃には、遠くに聞こえていたパトカーの音は止んでいた。
──殺された。
その一言が、胸を抉る。
──考えないに越したことはない。
颯真はよし、と意味不明な気合いを入れたが、何をしたらいいのか、と直ぐに思い悩んだ。この部屋にはテレビもなければ、音楽プレイヤーもない。本を読むなどという習慣のない颯真の部屋に本などがあるはずもなく、要は、特に何かをするものがないのだ。
眠る、といってもまだ陽は高いどころか昼前だ。外の様子を考えると、散歩や買い物に行くというわけにもいかない。今日はアルバイトだってない。アルバイトといっても、颯真がしているのはバイク便だ。週に四日、ゆったりとしたペースで働いている。
色々な場所に、色々な物を届ける仕事は颯真にとっては楽しく、多くの人と関われることが嬉しかった。颯真は元々人好きのする性格で、とあることを卒業する前も、多くの知り合いがいて、今もその人達との交流は続いている。
この部屋を借りることを決めたのも、それが商店街の中にあるからだった。一歩外に出れば、近所の人と挨拶をする。それが颯真にとっては、何よりもの一日の楽しみになっているのだ。
とはいえ、今は一人で、何もすることがない。
──やっぱりテレビ買うべきかな。
テレビを見る習慣がないので、それがないということに困ったことはない。けれど、暇潰しにはなる。颯真はテレビを買う為の貯金を決意してから、スマホへと手を伸ばした。それでも、スマホですることはアプリゲームしかない。可愛らしいキャラクターをひたすら繋げて消すゲーム。無課金を決意しているので、それも十分と持たない。間もなく再び、暇を持て余す。
颯真はうーん、と伸びをして、取り敢えず、少し早いが昼食の準備に取り掛かろうと立ち上がった。何もしていずとも、時間は勝手に過ぎていく。暇だ暇だと思っていても、確実に時計の針は進み、気付けば十一時になろうとしていた。
まだ然程空腹は感じていないが、作ったり何だとしていればいい時間にはなるだろう。
「よし」
颯真は一人で大きな声を出した。気分が落ちたとき、嬉しいとき、悲しいとき、と颯真は必ず決まったものを作る。それは、気分にも関係なく、食べたいときにも作るし、何を食べようか迷ったときにも作る。要するに、それは颯真の大好物だというだけの話だ。
材料は常にあるので、颯真は自前のエプロンを首から掛け、腰紐は締めずに、狭いキッチンに立った。キッチンといえど、一口コンロと流し台があるだけ。元は事務所として作られた部屋。きちんとした設備などあるはずもない。凝った料理を作るには向かないが、颯真の好物を作るには十分だった。
食べるときのことを想像し、頬が緩むのを自覚しながら冷蔵庫を開いたそのとき──。
「颯ちゃーんっ」
耳をつんざくような甲高い声が、鼓膜を突いた。
「五月蝿ぇっ。殺すぞ、こらっ」
姿を見ずとも、声の主の正体はわかる。その人物が部屋に入ってくるなり、颯真は大声で返した。
「颯ちゃん、颯ちゃん」
けれど、甲高い声の人物はそれに怯むことなく、颯真の腕へと飛び付いた。
颯真より少しだけ身長の低いその人物──水城 色羽は、何度も「颯ちゃん」と颯真をひたすら呼んだ。
「何だよ、離れろっ」
颯真は腕を振るうようにして、色羽を剥がそうと試みたが、色羽は見掛けによらず力が強い為、簡単には離れてくれなかった。
長く、緩いウェーブの掛かった茶髪はウィッグなのだが、よくよく見ないとわからないほどに綺麗なものだ。細い体を包んでいるのは初夏らしい、薄緑色のワンピース。首に巻いたスカーフは淡い青だ。はっきりとした目鼻立ちに、うっすらと化粧を施していて、まるでアイドルのようだ。
「だから、何だよっ」
颯真は腕を振りながら、色羽をどうにか離れさせようとしたが、当の色羽は離れる気などさらさらないようだ。
「助けてよ、颯ちゃん」
色羽はうるうると、ぱっちりとした二重瞼の瞳で颯真を見上げてきた。綺麗にカールされた睫毛がしっとりと濡れている。
──こいつに上目遣いされても。
色羽自身、それに効果がないのは知っているようで、それはあくまで身長の低い色羽の癖であった。
「助けるって、何を」
どんなに抵抗しても色羽が離れる様子はなく、颯真は漸く観念して、そう尋ねた。
「階段のところで、女の子が倒れてるの」
色羽は動揺しているのか、ぽろりと涙を溢した。色羽は過去の経験上、人が倒れている様を見ると動揺してしまうのだ。それはかつて、助けられなかった人への後悔から来るものなのだろう。
「……っ。それを早く言えよっ」
颯真は驚いてそう答え、大急ぎで部屋の外へと出た。ばたはだと、階段を駆け降りると、ビルを入って直ぐのところで少女が倒れていた。
──こいつは。
それは、朝、颯真とぶつかった少女だった。
冷たいコンクリートの上で、横倒しになり、長い髪で顔のほとんどが隠れてしまってはいるが、その姿には見覚えがある。
「おい」
颯真は少女の横へしゃがみ込み、軽く肩に触れて声を掛ける。暗い場所だというのに、その顔色が驚くほどに青白いのがわかる。どうやら意識は僅かにあるようで、ううん、と小さく唸るような声が漏れた。
色羽は気が動転しているのか、颯真の背後で右往左往し、しきりなしに足音を立てている。
「色羽、ちょっと落ち着け」
颯真が低い声を掛けると、ぴく、と色羽の体は動きを止め、漸く冷静さを取り戻したようだ。
「こういうときは救急車か?」
颯真は言いながら、スマホは部屋に置きっぱなしだということに気付いた。
「色羽、ケータイ貸してくれ」
颯真が言うと、色羽は脂汗を書き、涙目のまま、こくんと頷き、先週買い換えたばかりだと言っていたスマホを颯真に渡してくれた。
「…………め」
ロック画面のまま、緊急通報のボタンを押し、119の1まで押したところで掠れるような声がした。
「病院……だめ……。怖い……」
その声は倒れた少女のものだった。見た目の可愛さにしては、少しばかり低い声で呟く。
「……怖い。やめて……」
少女は震える手を、颯真へと伸ばしてきて、青白い顔を僅かに振った。
「……取り敢えず、運ぶぞ」
颯真が言うと、色羽はそれにしっかりと頷き、少女の細い体を抱き起こした。そして、それをお姫様抱っこをするようにして、易々と階段を昇っていく。色羽は小柄な見た目に反して、かなりの力があり、それは颯真以上のものだった。颯真はそれを後ろから支えるようにして、一緒に自室へと向かった。
少女を部屋へと運び、ソファーへと寝かせる。少女は意識はきちんとしているのか、それとも朦朧としているのかは判断しづらい状態だった。
ソファーの上で、身を縮めるようにして颯真達から顔を隠している。ロングスカートが少しだけ捲れ、足首が覗いているが。それは細過ぎるものだった。
「おい、受け答え出来るか?」
颯真はこちらに背を向けて踞る少女に尋ねたが、返事はない。だが、意識がはっきりとしている証拠に、無反応、というわけでもなかった。少女は、少し億劫そうに──実際は辛いのだろう──顔を颯真と色羽の法へと向けた。
「ね、何か飲む?」
尋ねたのは色羽だった。色羽は心配そうに少女の顔を覗き込み、訊いた。少女はそれに小さく首を振る。どうやら、颯真より色羽の方に反応を占めずようだ。
「貧血?」
色羽もそれを察したらしく、少女へと質問を続ける。
「あ……」
少女はわなわなと震える唇で声を発した。か細い声は、なかなか音にならないようで、少女は何度も、口をぱくぱくと動かした。
「あ……兄……が、殺され……たんです」
少女は力を振り絞るように言うと、ふ、と意識を失った。真っ青な顔は、眉根が寄せられていて苦しそうだ。
「……何だ?」
颯真と色羽は互いに顔を見合わせた。
────厳重警戒態勢。
その言葉が脳裏に浮かんだ。
ざわついているどころではない会議室には、大勢の事務職員が激しく出入りを繰り返し、私服の者達は苦々しい顔付きでいる。
「ふわぁ」
天田 小折は見慣れない光景に、間抜けな声をあげた。
「天田」
「はいっ」
低い声で背後から名前を呼ばれ、背筋を伸ばす。振り返ってみれば、そこにいるのは先輩刑事である岐志 雄大だった。岐志は驚くほどに上背が高く、肩幅も広い。鍛え抜いたのが一目でわかる、まるでスポーツマンのような体格をしているが、顔付きは何処か穏やかさを感じさせる。それでいて凛とした瞳が、意志の強さをも感じさせる男だ。年の頃は三十に足を踏み入れたばかりといったところだろう。
「岐志先輩、何か、物々しいですね」
それに比べて小折は、背はさして低くないものの、線の細い、小柄とも呼べる体付きをしている。警察学校時代にそれなりに筋力トレーニングなどはしたのだが、筋力のつきづらい体質らしく、すらりとしていた。顔は整っているが童顔で、可愛らしいが、実年齢の二十六歳より五つ以上下に見られることも多い。小折は目まぐるしく乱れ入る同僚達を目で追ってみたが、どの人も何をしているのかさっぱりわからなかった。
「殺人事件は初めてか?」
岐志に訊かれ、小折は首を横に振る。
「いえ、所轄時代に何度か。でも、どれもこれも、痴情の縺れだとか、金の貸し借りが動機のようなものでした。こんなふうに、残忍なのは初めてです」
「……何故、残忍だと?」
小折の返答に、岐志が眉をぴくり、と動かした。
「え、だって、犯人、逃走してるんですよ?」
小折は綺麗な二重瞼の瞳をぱちくりと動かした。
「轢き逃げならぬ、殺し逃げなんて、残忍ですよ」
小折の答えに、今度は岐志が人見を動かした。こちらは綺麗な一重瞼だ。
「え、僕、何か変なこと言いましたか?」
その岐志の様子に小折は焦りを隠せずに訊いた。周囲は先程よりも慌ただしく且つ、騒々しくなってきている。恐らく、記者クラブの到着が近いのだろう。
「いやいや、変なことじゃないよ。その通りだ」
小折に返したのは岐志ではなかった。しゃがれかかったその声には聞き覚えがある。
「名田さんっ」
小折は声の主を確認すると、童顔過ぎる顔に緊張の色を漂わせた。
「まずね、人を殺す時点で残忍だ。そして、それを隠蔽しようとしたり、己の罪を認めずに逃げるなんて、もう、人間のすることじゃない。修羅の所業なんだ」
名田 仙次は慌ただしく動き続ける会議室内を見渡しながら言った。ほぼ白髪になりかけた髪を──それは五十半ばにしては早い──無造作に伸ばし、それでいてきちんと折り目のついた背広を身に纏っている。
「……何故、名田さんが?」
小折の記憶が確かなら、名田は既に刑事課には所属してなかったはずだ。今年の辞令で小折が警視庁刑事課へと配属された際、そこにいた名田は所轄の生活安全課へと異動になったと聞いていた。本庁から所轄へ。異例とまでは言わないが、そうそうあることでもない。
「今日から暫く戻ってくることになったんだ。まあ、宜しく頼むよ」
名田はそれだけ言うと、岐志を連れ、小折から離れていった。確かに、此度の事件は名田が所属する所轄の管轄内だ。だけれど、生活安全課。出番はないはずなのに。
小折は不思議に思いながら、名田の年齢の割には鍛え上げられた背中を見た。
──変わり者で有名、か。
小折が名田と関わったことは数度だけだ。まだ小折が所轄にいた頃に起きた殺人事件で、何度か会ったことがある。
規定を守らず、割り振り以外の聞き込みなども行う。正直、周囲からは煙たがられる存在なのだ。
──嫌いではないけど、苦手なんだよな。
小折はそっと溜め息を吐き、己の身の置き場を探した。
じゅうじゅうと、何かが焼けるような音と、ソースのいい匂いが鼻腔に届いた。そして、鰹節の匂いも。
真柴 比奈子はそれにうっすらと目を開ける。横幅の狭い場所に寝かされているのが直ぐにわかった。それは目を開けると、視界に映るのが床だったからだ。長く横になっていたのか、それともその場所が狭いからなのか、僅かに軋む身体をゆっくりと起こす。
「あ、気が付いた」
それに真っ先に反応したのは、可愛い子だった。
長い茶色の髪はウェーブが掛かっていて、目鼻立ちははっきりしている。カラーコンタクトなのか、それとも地の色なのか判断しづらい程度の栗色の瞳が比奈子を捉える。その子は今にも泣き出しそうな表情を作り、よかった、と言う。
「あ、水城 色羽。君は?」
色羽、と名乗った子は、比奈子の目の前に座り、尋ねてきた。
「おい、そんなことより、先に飯食わせてやれよ」
色羽の後方から、低めの、少し乱暴な声が聞こえてきた。比奈子はその姿を見ようと、顔を動かす。頭が重いのか、少し動かずと目眩に似たものを感じた。
「食うだろ?」
その人は、に、と笑い、皿を持ち上げてみせた。──その姿に既視感を覚えずにはいられなかった。
『食べるよね?』
満面の笑みで、美味しそうな料理を並べていく姿。いつもいつも、時間があるときは必ず、比奈子の好物をテーブルに並べてくれた人。どんなに食欲がなくても、その笑顔に、食べなきゃ、という気分になった。
比奈子はそれを思い出し、大きな瞳から、ぽろりと涙を溢した。
「お……兄……ちゃん」
不意に溢れるその呼び名。
顔を覆って泣き出す比奈子に慌てたように色羽が寄り添ってくれた。