4
冷蔵庫には何故か色羽が買い込んできた焼きそばがあったはず。ついでに、もやしもやしキャベツもあった。恐らく、近々お好み焼きを皆でやろうとでも思っていたのだろう。
颯真は手早く焼きそばを作る準備をする。普段、滅多に料理はしない颯真だが、焼きそばだけは作り慣れている。それは、お好み焼きの後には焼きそば、と相場が──颯真の中では──決まっているからだ。
もやしとキャベツを洗い、キャベツは食べやすいサイズに切っていく。そして、後は炒めるだけ。小学生でも出来る簡単な料理だが、颯真なりの拘りがある。
麺に備え付けられた粉末の粉を少量にし、ウスターソースを加える。そこに、塩を少々と、多目の胡椒。それが颯真流の焼きそばの作り方だ。
本当は豚肉も入れたいところだが、そこまでは用意されていないので仕方無い。
颯真は手際よく四人前の焼きそばを作り上げた。作る前に、比奈子が手伝う素振りを見せたが、颯真は簡単だから、とそれを断った。料理をしている間、比奈子はどこか落ち着きなくしていたが、出来上がる頃には色羽や小折と談話を楽しんでいた。
「ほい、出来たぞー」
炒め上がった焼きそばを四枚の皿に均等に盛り、割り箸を添える。仕上げに青海苔を振りかければ完成だ。
「わーい、颯ちゃんの焼きそばだー」
色羽が目の前に置かれた焼きそばを見て、歓喜の声をあげる。色羽は颯真が作る焼きそばを好物と認定しているらしく、作ってやるとえらく喜ぶのだ。
比奈子が颯真が焼きそばを運ぶ間に人数分の麦茶を用意し、全員で食卓を囲む。颯真の部屋にある古いテーブルは、大きめのホットプレートが乗るように購入されたものなので、広さは十分だ。
「いっただきまーす」
色羽が一番乗りで手を合わせ、残りもそれに続く。こんなふうに、賑やかに食事をするというのは、颯真にとっても楽しいことだった。
比奈子と出会い、小折と出会い、そして色羽がいて。ここ最近はこういった賑やかな時間が多い。それが、颯真にとっては、楽しくも、複雑な気持ちになるものだった。
綺麗事を言ってしまえば、真子も喜んでいる、というものだろう。自分の死を引き摺り、いつまでも沈んだままでいる兄を真子は望まない。──そう思った時期もあった。
「颯ちゃーん、食べないの?」
色羽が不思議そうに尋ねてきたことで颯真の意識は現実へと戻った。
「おう、食うぞっ」
そう言い、箸を握る。幼い頃、何度も注意されても正しい箸の持ち方は身につかなかった。それは、両親の注意の仕方が優しかったからだろう。
四人で食卓を囲む。ひょんなことから知り合い、こんなふうにたまに食事を共にする仲になった。人生、何が起きるかわからないものだ。
事件のことではなく、互いの近況を話しながら食事を進める。比奈子が一昨日見掛けた猫の親子の話をし、小折が実家で飼っている猫の癖を話す。無類の猫好きである颯真には堪らない話で、色羽も大学の敷地内で見た仔猫の話をしてきた。
「猫飼いてぇなぁ」
焼きそばを完食してから颯真は呟いた。
「猫、お好きなんですね」
比奈子の問いに颯真は頷く。
「動物はわりと何でも好きだな。犬も、兎も。でも、やっぱり猫だよなぁ」
颯真は昔近所にいたなつっこい野良猫のことを思い出しながら語った。
「なんつーか、可愛いだろ? 毛並みもふわふわだったり、さらさらだったり、ちょっと硬かったり。んでもって、あのデカイ目だよなー。あと、細っこい尻尾な」
猫の何が、というわけではないのだが、好ましいところを挙げていけばキリがない。颯真は久しく触っていない猫の感触を想像しては、うっとりとした。
「颯ちゃん、大体構い過ぎて猫の方に嫌われるんだ。うちで昔飼ってた猫もそうだったもんね」
確かに、そんなこともあった、と颯真は小学生の頃のことを思い出した。色羽の家で飼われていた、茶とらの猫が可愛過ぎて、行く度に触りまくっていたら、そのうち手を伸ばすだけで威嚇されるようになったのだ。
──そういえば、あの猫、虎之介はこの間久し振りに色羽の家に行ったときはいなかった。
あの頃から、もう十年以上の歳月が流れている。あの頃既に仔猫ではなかった虎之介が生きていなくても不思議はない程に月日は流れているのだ。
「だって、触りたくなるんだから仕方無いだろ」
颯真は拗ねたように返す。出来ればもう一度、虎之介を撫でてみたかった、と遅い後悔をしながら。
「虎之介、颯ちゃんのこと覚えてるかなぁ? あ、今度うちに来たとき、まだ威嚇するか試してみようよ」
「え、まだ虎之介、生きてるのか?」
色羽の言葉に、しんみりとしていた気持ちが吹っ飛ぶ。
「ちょっと、勝手に虎之介のこと殺さないでよ。もうおじいちゃんだけど、まだ元気に生きてるよっ」
それを聞いて、颯真は嬉しい気持ちになった。あの、大きくて丸い瞳で、ふわふわの毛並みをした虎之介にまた会えるのだから。
「でも、この間、お前を送っていったときはいなかったぞ?」
「ん? たまたま散歩に行ってたんじゃない?」
それは盲点だった。確かに、虎之介は昔から散歩に行くのが好きだった。虎之介用に作ってもらったキッチンの小さな出入口から出掛けていくのだ。
「よし、明日にでもお前の家に行く」
久し振りに猫を愛でられると思うと、いてもたってもいられない気分になってきたのだ。
「よし、虎之介に会わせるのは、事件が解決してからね」
色羽が嫌な笑顔で言うので、颯真は思わず、何でだよ、と叫んだ。折角、大好きな猫を触れると思っていたのに、この仕打ち。叫ばずにはいられない。
隣では、比奈子が楽しそうにくすくすと笑い、小折もそれにつられるようにして笑っていた。颯真はそんな空気に不貞腐れる素振りをしながら、食べ終えた食器を片付けた。
「颯ちゃん」
比奈子と小折が帰り、途端に部屋は静けさに包まれたような気がする。そんなことを感じていると、色羽に呼ばれた。いつもの五月蝿い程の声量ではなく、囁くかのような声だった。
「ん、どした?」
商店街の隅にあるビル。この辺りは夜になると本当に静かになる。どこの店も八時には店仕舞いをしてしまうせいだろう。開いているのはスナックや小料理屋くらいだ。
「疲れてない?」
色羽の意外な問いに、颯真は首を傾げた。
「あ、何がだ?」
唐突にそんなことを訊かれても、颯真としては思い当たることは何もない。
「ううん、何でもない。疲れてないんならいいんだ」
色羽がそう言って、静かに首を横に振った。栗色のウィッグがそれに合わせて揺れる。
色羽の様子に、颯真は首を傾げた。具合も悪くないのに静かな色羽というのはどこか落ち着かない。色羽は昔から、五月蝿いほどに元気のよい性格。だというのに、こんな表情をみせるなんて。
「颯ちゃんは、今回の事件、どう思う?」
気付けば色羽はいつもの調子に戻っていた。アイラインでくっきりと縁取られた瞳はノーメイクのときよりも大きく見える。化粧が引き起こす錯覚というものは恐ろしい、と颯真は常々思っていた。
「すみません、忘れ物をしてしまいました」
颯真が色羽の問い掛けに答えようとしたところで、比奈子が周章てた様子で戻ってきた。
「忘れ物?」
「はい。スマホを忘れてしまって」
言われて見れば、テーブルの上には可愛い猫のケースに包まれたスマホが置いてあった。そのケースは確か、色羽と買いに行ったもののはず。その様子を想像し、颯真の胸の奥は、少しもやついた。
端から見れば女子同士。けれど実際は一組の男女だ。
「で、颯ちゃんは、どう思う?」
色羽が比奈子に忘れていたスマホを手渡しながらもう一度訊いてきた。
「何の話ですか?」
それに、比奈子が尋ねてくる。
「うん? 今回の事件、颯ちゃん的にはどう思ってるのかな、て」
「あ、私も聞きたいです」
比奈子はそう言うと、すとん、と椅子に腰を下ろした。時計は既に二十一時を回っている。遅いが、比奈子の住む家はこのビルの向かいだ。そこまで送っていけば危ないことはない。
「どうも何も、俺にわかるわけねぇだろうが」
颯真は言って、大きく息を吐いた。小折にしろ、色羽にしろ、一体何を期待しているというのだ。颯真の学生時代の成績は、お世辞にもいいとは言えないし、そもそも中学中退、と言えるくらいの学歴しかない。そんな自分に、殺人事件の犯人などわかるはずもないのだ。
「違う違う。そういうことを訊いてるんじゃなくて、客観的な感想だよ」
色羽がぶんぶんと首を振る。
「客観的な感想?」
そう言う色羽は颯真と対照的に、私大ではそこそこ有名なところに通っている。颯真が知る限りでは、色羽は小学生のときから頭が良かったのだ。
「客観的な感想って言われてもな……」
特に何もない、と言えば嘘になる。かといって、強く何かを思うわけでもない。例えて言うならば、ニュースで殺人事件を見た感想と似ている。
それでも、普通の人と比べれば、過去の経験から、殺人事件に対しての嫌悪感や憤りは強いとは思う。だからといって、それが心中を埋め尽くすようなこともない。
「まあ、酷いとは思う、かな?」
本当にそんな程度だ。恐らく、これが被害者が女子供であるならば違ったのだろう。今よりも、強く嫌悪感や憤り、怒りを覚えたはずだ。でも、それでも、やはりそれが心中を埋め尽くすことはないだろう。
そう、結局他人事なのだ。
そう思うのは、颯真が薄情だからではない。当人以外にはそうなのだと、経験上嫌というほどにそれを知っているからだ。しかし、比奈子はそうは思えないというのも知った。
それはまだ、比奈子の傷が新しいものだからなのか、それとも、比奈子は颯真よりも人の痛みにも心を痛める優しい人間なのか。それは颯真にはわからないことだった。
「そっか」
色羽はそれ以上質問をしてくることはなく、結局、色羽が颯真から何を聞きたいのかはわからずじまいだった。
「送るわ」
話が終わった為か、立ち上がった比奈子に、颯真はそう言った。
「いえ、目の前なんで、大丈夫です」
「その数歩の間に何があるかわかんねぇだろ」
実際、真子は颯真が目を離した僅かな間に拐われてしまったのだから。
「いいよ、颯ちゃん、僕が帰るついでに送るから」
「え?」
色羽はてっきりここに泊まっていくものだと思っていたので、颯真は間抜けな声を出してしまった。
「じゃあ、お願いします」
比奈子がそれにぺこりと頭を下げる。
「うん。じゃあねー、颯ちゃん」
そして、あっさりと二人連れ立って颯真の部屋を出ていく。あまりに早い展開に、颯真は、ああ、としか頷けないままでいるうちに、扉はばたん、と閉まった。