幽霊屋敷殺人事件1
「あっつー」
小さな扇風機が緩慢な動きで首を振る。送ってくれるのは涼しい風ではなく、生温いものだ。部屋の熱気を循環させているだけの役割しか持っていないそれでも、ないよりはましだと、颯真は扇風機に顔を近付けた。
額から、首から、背中から、汗が滴る。額から流れる汗は頬を伝い、顎を伝い、ぽとりと床に落ちた。今年の夏は猛暑のようだ。少し前から暑い日は続いていたが、お盆が近付くこの頃、それは更に増した。テレビのない部屋では、スマホの天気予報を見ることしか出来ないが、週間予報の太陽の色はオレンジではなく真っ赤。これが真夏日を指しているのだと知ったのはつい先日だった。
窓を開けても、裏道にあるこの建物に風は入り込まない。窓を開けるだけ熱気を誘い込むようなものだが、閉め切ってしまうと今度は溜まった熱気が逃げ出せない。
「あちー」
颯真は本日何度目かわからない呟きを口にした。幾ら暑い暑いと呟いたところで涼しくなるわけではないのだが、口から漏れてしまうのだから仕方無い。
──金貯めてエアコン買うかな。
エアコンがない限り、毎年この苦痛は続くだろうし、冬だって寒い。それでも冬は出来るだけ着込み、電気ヒーターの前に張り付くことで凍えるのだけは回避出来る。夏よりは幾らかましではあるが、寒いことは寒い。
──テレビが先か、エアコンが先か。
悩むところだ。しかし、テレビはなくても困らないが、エアコンはそろそろ困る。この部屋に住み始めて三回目の夏。過去二回の夏がなんとか乗り越えられたのは所謂冷夏という現象のお陰だ。しかし今年は連日の猛暑日。そろそろエアコンの購入を考えるべきなのだろう。
とはいえ、こんなことをもう一週間程悩み続けている。そんなこなのうち、夏はピークを越えようとしていた。天気予報でも来週の立秋を迎える頃には暑さも和らぐ、と言っていた。となると、今年もエアコンを必要としないまま夏が終わりそうだ。
──でも。
颯真は扇風機の風を浴びながら唸った。猛暑日が過ぎるというだけで、途端に涼しくなるわけではない。暑いことは暑いのだ。それはまだ暫く続くだろう。
「あー、ローンとかって組めんのか?」
扇風機による空気の振動で颯真の声が震える。エアコンの相場すらわからないが、安値でないことは確かだろう。それともエアコンにも中古品というものがあるのだろうか。
「なになにー? なんのローン? 怪しいものでも買うの?」
突如、背後から声が届いた。扇風機に近付き過ぎていたせいで、訪問者に気付かなかったのだ。
「おー、色羽か」
とはいえ、こんなことは日常茶飯時の為、颯真は驚きもせず、訪問者の顔も見ずにその名を呼んだ。
「で、何買おうとしてるのー?」
色羽が颯真の隣に並び、同じように扇風機の風を浴びている。その際、自分に風が当たるようにと、色羽は颯真の身体を押し退けた為、颯真に当たる風は左半身のみとなった。
「いや、エアコンでも買おうかと思ってよ」
「おー、それはお高いものを。てか、買えるの?」
「んにゃ、店行って、値段と相談」
「だよねー。きっとね、颯ちゃんが思ってるよりお高いと思うよ?」
「マジか。ローン組めたとしてもきついか?」
「えー、どろだろ。家賃とか光熱費は払ってないんだよね?」
「払ってないけど、月一万は渡してる」
「あ、そうだったんだ。初めて知ったよ。あの人でしょ? 無駄にカッコいい感じの」
「なんだ、無駄にって」
二人揃って、声を震わしながら会話を続けていく。そんなうちにも、どんどん汗は流れ出してくる。
「あー、駄目だっ。あちぃっ。色羽、電気屋行くぞ」
颯真はすくりと立ち上がった。エアコンの購入を決めるかはさておき、電気屋に行けばここより涼しい思いは出来る。色羽にそれを告げると、色羽は賛成、と言って立ち上がった。
今日の色羽の服装はノースリーブのブラウスにデニムのショートパンツ。筋肉などほとんどついていない細い手足はまるで少女のようだ。
「じゃ、比奈ちゃんも誘ってくるね」
「何でだよ」
意気揚々と部屋を出ていこうとする色羽に颯真が突っ込んだ。色羽はそれに足を止め、むしろ突っ込むほうが何故、という顔をする。
「えー、三人で行こうよー。で、アイス屋さんにも行こうよー」
色羽はまるで駄々を捏ねるこどものように言う。
「暑いなか連れ出したら可哀想だろ」
外は灼熱。それなら、エアコンのある家の中にいられるならそこにいるべきだ。こんな暑いなか、連れ出すこともない。
「……颯ちゃん、優しいね」
色羽が不意に声色を変えた。いつものように甲高い声でなく、少年のような声。久々に聞く、素の色羽の声のように思えた。具合の悪いときでも決して出さなかった声色だ。
「イロ?」
そんな色羽の様子に、不安に似たものが胸を過る。
「あー、その呼び方やめてって言ってるでしょ?
しかし、色羽の声色はいつもの甲高いもへと戻った。
「はいはい、悪かったな」
気のせいか、と颯真は額に浮かんだ汗をタオルで拭きながら返した。
「まあ、たまには颯ちゃんと二人でもいいか」
今までは、ずっと二人だったというのに、何が不満なのか色羽はそんな台詞を溢した。ずっと二人だった、という言い方は少々おかしいかもしれないが、それは事実だ。
颯真には色羽の他にも友人と呼べる人物はいる。色羽にもいるのかもしれない。けれど、色羽と出掛けるときはいつも二人だった。そこに互いの友人を招いたことは一度もない。けれど最近はそこに比奈子だったり小折だったりが加わることが増えた。いや、増えたというより、色羽と二人で出掛けることのほうがなくなったのだ。
「ほら、ぶつぶつ言ってないで行くぞ。ここにいたら茹だる」
「ここにいたらって、ここ、颯ちゃんの部屋だよ?」
色羽は常に颯真の揚げ足を取らずにはいられないようで、そんなことを言う。二人でぎゃいぎゃいと言い合いながらも、颯真の部屋を後にした。
──「はー、涼しいー」
電気屋に入るなり、颯真は息を吐いた。平日の昼間だからか、電気屋の中はどこか閑散としていた。人がいないわけではないが、決して多くはない。携帯電話売場に少々密集しているだけでは、他のフロアにはちらほらとしか客がいないのを颯真はエレベーターに乗りながら感じた。そしてエアコン売場も例に洩れず、客は颯真と色羽を覗くと二人しかいなかった。
颯真と色羽は展示されたエアコンを端から眺めていく。表示には色んな機能の説明が書かれていたが、どれもこれも必要性を感じない。人がいる場所を関知してくれたり、自動でフィルターを清掃してくれたり、あれば便利なのだろうが、なくともさして困らない気もする。それで値段が上がるなら尚のこと。
「たけぇなぁ」
一通りエアコンを見た颯真の感想はそれだった。購入を決めていたわけではないが、いざ買えるような値段でないとなると落胆する。これは、今年の夏も涼しい生活は諦めるしかないようだ。
「あ、そういえば」
そんな颯真の隣で色羽が声をあげる。
「ん? どうした?」
「お父さんの書斎のエアコン買い替えるって言ってたから、言えば貰えるかもよ?」
「まじか。あー、いや、でもなぁ」
いくらいらなくなるものだとはいえ、貰うというのは気が引ける。これが、颯真がずっと色羽の家に頻繁に顔を出していたというなら話は別なのだろうが、色羽の家に再び行くようになったのは本当に最近のことだ。色羽が風邪をひいたときから。
「平気だよー。むしろ、喜んでくれるって」
それは、わかる。色羽の両親達はそういう人だ。
「颯ちゃん、気を遣い過ぎ。甘えるところは甘えていいんだよ?」
色羽は颯真の背中をそっと押した。それは、まるでそのことについて後押しをしているようだ。
「……じゃあ、お願いしてみるわ」
「そうそう。それでいいんだよ」
颯真の言葉に色羽は嬉しそうに笑顔を見せた。色羽はいつも、笑顔で颯真の隣にいる。けれどそれは、昔からそうだったわけではない。昔の、幼い頃の色羽は泣き虫で、それでも意地っ張りで、そんな色羽を颯真が笑わせてやることが多かったように思う。
転んで泣いたとき、友達とのゲームに負けたとき。いつでも、泣いたり悔しそうにしたりする色羽を、颯真がどうにかして笑わせた。色羽には笑って欲しいと思ったから。色羽が笑顔になると、颯真も笑顔になれたから。けれど、今、颯真が色羽を笑わせてやることはない。そうする前に、色羽は笑顔でいるからだ。
「よーし、じゃあ、どこかでご飯食べて、散歩して帰ろ」
色羽は言いながら、颯真の腕を引いた。周りから見たら、若い恋人同士にでも見えるだろうか。かつて、比奈子が勘違いしていたように。
──それとも、兄妹に見えるだろうか。
颯真は見た目に反して強い力で腕を引いてくる色羽の後ろ姿を見ながら思った。そう見えていたとしたら、と考える。それは、嬉しくもあり、切なくもある。
「颯ちゃん、ちゃんと足動かしてっ」
色羽は考え事をしていたせいで足が重くなっている颯真に文句を言ってきた。
「つか、散歩って、暑いだろ」
「いいの。たまには運動しないとね」
色羽は颯真の腕を強く引きながら言い、どんどんと前に進んでいく。颯真はそれに、わざと大きな溜め息を吐き、足を動かした。外に出ればまた、灼熱の太陽が颯真達を迎えてくれるのだろう。
カフェで簡単に食事を済ませ、そのあとアイス屋に行き、出来るだけ涼んでから外に出た。陽は傾き始めたというのに、まだまだ十分に暑い。
「あっつい」
颯真はぶらぶらと歩く色羽の後をつけながら、そう溢した。
「あっついねー」
色羽は言いながら、さしていた日傘を颯真の上にも被せてくれた。薄いブルーに猫の柄があしらわれた日傘。
「自動販売機見付けたら、ジュース買おうね」
まるでデートみたいな行動を繰り広げる男二人。颯真はその現状に息を吐いた。しかし、それと同時に、こんなふうに色羽と二人で長い時間を過ごすのも久し振りだと思った。何を特別な会話をするでもなく、時にはそんな会話すら途切れて、それでも沈黙すら苦痛に感じない関係。けれど、それは以前の二人の関係とは違う。何も考えることもなく、ただひたすら遊び回った頃とは確実に違うのだ。
「颯ちゃんさ、今、彼女とかいるの?」
不意に色羽に訊かれた。
「あ? 何でだ?」
色羽が恋愛関係の質問をしてくるのはこれが初めてな気がした。そういった類いの質問をしてくることもなければ、自分のそういった話をしてくることもなかった。
「うーん、なんとなく?」
何とも言えない返しをしてくる色羽。その横顔は、あまりに小さく見えた。男にしては小柄だとか、そんなことではないように思う。
「んー、今はいねぇ」
颯真は色羽の質問に正直に返した。
「今はいない、てことは、前はいたんだね」
色羽の話の意図が見えずに、颯真は眉根を少し寄せた。
「いたときも、あったな」
何故突然、こんな話をしてくるのか。
そういうお前は。そう返そうにも、返すことが出来なかった。勿論それは、聞きたくないとかではなく、聞いてはいけないように思えたからだ。
「何人くらい?」
話すことがなくてこんなことを訊いているわけではないのは明白だ。
「どうしたんだよ」
颯真は質問に答えずに、そう訊いた。
「ううん、なんとなく、ね。そういえば、颯ちゃんの女性関係って聞いたことないと思ってさ」
言ったことがないから、聞いたこともないだろう。話したくないわけではない。話す必要がなかったからだ。
「颯ちゃんは、彼女とか、大事にしそうだよね」
なんと答えたらいいかわからなくなった。色羽の求める言葉がわからないからだ。颯真は黙り込み、色羽も何を考えてか、言葉を止めていた。並んだ二人の間に妙な沈黙が降る。暑い最中だというのに、空気がどこか寒く感じられた。
「あ、ねぇねぇ颯ちゃん」
そんなまま幾らか進んだとき、色羽が甲高い声を出した。それはいつもの色羽の声で、颯真はそれに少しばかり安堵した。
「あれ、幽霊屋敷らしいよ」
色羽は眼前にある洋館を指差して言った。
「なんだよ、幽霊屋敷って」
そういえば、色羽は幼い頃から怪談の類いが大好きだった。泣き虫だというのに、怖い話だけはいつも目を輝かせ、一切泣くことをしなかった。そして、それとは反対に、颯真は怪談話が大の苦手だった。
「幽霊屋敷は幽霊屋敷だよ。幽霊が出るんだって」
「根拠は?」
「うわー、頭の悪い颯ちゃんの言葉じゃないね」
色羽が馬鹿にしたように笑う。
「幽霊が出るっていうなら、理由があんだろうよ」
颯真は自分でも気付かぬうちに、身体を洋館から離そうとしていた。なんとなしに、気味が悪い。それは、勿論、ここが幽霊屋敷だと聞いたせいであり、颯真に霊感の類いは皆無だ。
「それがねぇ、わかんないんだって」
色羽はまるで内緒話でもするかのように声を潜めた。こそり、という言い方が恐怖を煽る。
「……それってつまり、根拠がねぇってことだろ。普通、一家惨殺ー、とかそういうの、あんだろ」
幽霊屋敷だの心霊スポットだのなんだのと騒がれる場所というのは、大体が曰く付きだ。無論、そうでなくとも気味が悪い、空気が悪いというだけでそう称される場合もないわけでもないが、家屋については論外と言ってもいいだろう。幽霊が出ると言われるそういった建物は、ほとんどが例に漏れず、凄惨な事件が過去に起きている。
颯真と色羽は、過去の経験がありつつも、そういった事件の話をなんとなしにするときがある。常日頃から、過去を引き摺っているわけではない、とまでは言えないが、それを念頭に置いて生きているわけでもない。過去の出来事というのは、月日と共に、無情にも風化してしまうのだ。
「根拠がないんだからいいじゃん。入ってみようよ」
色羽がぐい、と颯真の腕を引く。
「馬鹿かっ」
それに颯真が反射的に大声を出す。
「何、颯ちゃん、幽霊怖いの? 祟られるとか思っちゃってるの?」
「お前……知ってんだろ」
颯真は強がる振りもせず──色羽に強がっても意味のないことだからだ──溜め息を吐いた。
「大丈夫だよー。何にも出ないし、祟られないって」
色羽は元来、好奇心旺盛な性格。そして、怪談話が好きなくせに、幽霊の存在は信じていない。
「興味本意が一番危ねぇんだよ」
反して、颯真はそういったものを信じている。
「もー、五月蝿いなー。いいから行くよ」
色羽は颯真の言葉など意にも介さず、ぐいぐいと見た目からは想像出来ないほどの力で颯真の腕を引いていく。
「待て。本当に待て」
言っては見たものの、腕を話される気配など微塵もなく、否が応にも体はその古びた屋敷へと近付いていく。明らかにここ十年は誰も住んでいないのがわかるそこは、遠くからでも壁が朽ちているのがわかる。
立派な門扉には伸び放題の雑草か絡み付き、それを覆い繁っている。色羽は鼻歌を奏でながら門扉に手をかけた。近付くと草が作務衣から伸びた腕を撫で、ちくちくと痛い。足も同様だ。
ぎぃぎい、と錆びた音を立てて、門が開く。普通ならば、鎖やら何やらで施錠されていてもいいものの、それは無防備に侵入者を許した。
雑草を音を立てて踏みながら庭を進む。無造作に生えた草のせいで距離感を上手く掴めていなかったのか、庭に足を踏み入れて、数歩進んだだけで屋敷は目の前に現れた。洋風の造りは古くからあるこの街に馴染んでいない。それでも、ここは大分前からあったのだろう。
元はベージュ色だったことが窺える壁は雨の染みやらでくすんでいる。そして、所々が朽ちていた。
嫌な気配が背筋を撫でる。真夏だというのに、暑さすら忘れる。
「ヤバいって。ぜってぇ、ここヤバい」
「颯ちゃん、霊感ないでしょ?」
颯真の腕を未だ離さずいる色羽が呆れたように言う。確かに、颯真に霊感らしきものは備わってはいない。けれど、空気が悪いのだけは確りとわかった。
かさかさと、色羽の背丈近くまで伸びた草を掻き分けるように進み、玄関前へと到着する。
「鍵かかってるって。入れねぇって」
颯真は色羽に掴まれた腕を振りながら訴える。入りたくない。入ってはいけない。何かが颯真の第六感に訴えかけてくるのだ。
「試すだけ試してみようよ。鍵かかってたら諦めるからさ」
色羽はそう言いながら、扉に手を伸ばす。
──どうか、施錠されてますように。
颯真は祈りながら、色羽の行動に目を向ける。しかし、颯真の祈りも虚しく、扉はかちゃり、と少しだけ鈍い音を出して開いてしまった。
──まじか……。
颯真は心の中で盛大な溜め息を吐いた。恐らく、ここを肝試しなどに使った連中が鍵部分を破壊したのだろう跡が、扉をよく見てみればくっきりと残されている。
「うわ……」
色羽が扉を開けた瞬間、異臭が鼻についた。例えるならば、大量の生ゴミが腐ったような悪臭。生臭く、颯真は息を止めた。だが、それも幾らも続かず、はあ、と口から空気を吐き出した。
「色羽、閉めろ」
颯真が言うと、色羽は直ぐにそれに従った。ばたん、と重たい扉が閉まる。それでも、鼻についた臭いは取れず、幻臭とでも言おうか、まだそこに臭いが放たれている気がした。
「何、これ。ゴミ屋敷?」
扉を閉めた色羽が眉をしかめる。
「にしたって、生臭いだろ。人が住んでないなら、生臭くはないはずだ」
そして、それとは少し違うように思えた。
──僅かに、鉄っぽい臭い。
それは悪臭の奥の方にあった臭いだ。
まさか、と思いながら、颯真は着ていた作務衣を脱いでランニング姿になる。そして脱いだそれを顔の下半分に巻き付けた。色羽も颯真に倣い、首に巻いていたストールを同じように顔の下半分に巻き付ける。
──どうか、外れていますように。
颯真は願いながら、扉に手を掛けた。