7
昼が近付いているというのに、院内の混雑状況は来たときと大して辺かはなかった。自動精算機の前は列が出来ているし、待合室の椅子も座れるとろはない。颯真と小折は壁に寄り掛かるようにして待ち、色羽の点滴が終わるのを待った。
「色羽君、辛そうでしたね」
小折がぽつりと言った。
「ああ、イロは、基本健康体だから、体調崩すのに慣れてないんすよ」
普段から病弱ならば自分なりの対処などもわかっているのかもしれないが、色羽にはそれがない。
「それに、あいつ、ギリギリまで具合悪いの隠すから」
これは、昔からだ。たまにしか具合が悪くならないのに、いつも直ぐに言わないのだ。遥か昔、まだ幼い頃もそうだった。熱があるというのに黙っていて、それで虫取に行き、倒れたこともある。我慢強いとかではない。言えないのだ。そしてそれは、真子が死んでから、特に顕著になった。
色羽は人に──颯真に弱さを決して見せない。
小さい頃は泣き虫で、それでも必死に泣くのを我慢していた。溢れる涙を隠し、大丈夫だもん、と強がってみせた。しかし、最終的にはいつも泣いていた。そんな色羽が、泣く姿を全く見せなくなったのは真子が死んでからだ。
真子が殺されたあの日は、さすがに大泣きしていたが、次の日からは泣かなくなった。そして、いつも、颯真の側で騒ぎ、笑っていた。いつしか、それが色羽になった。
「谷村さーん」
看護師が患者を呼ぶ声が耳に届く。颯真はそれに不意に顔を上げた。すると、診察室に入っていく女性が視界に入る。
──花屋の店員だ。
その細過ぎる姿は見覚えがあった。半袖から伸びた腕はまるで枯れ木のように細い。谷村と呼ばれた女性は覚束無い足取りをしている。やはり、摂食障害か何かなのだろうか。
「あ、僕、戻らなきゃいけないみたいです」
小折がスーツのポケットからスマホを取り出して、残念そうに眉を下げた。
「ああ、すみません。付き添ってもらっちまって」
「いえいえ。本当は家まで送り届けたいんですが」
小折は仔犬が尻尾と耳を下げる姿を連想させる表情で言った。
「大丈夫っすよ。それより、小折さんは犯人逮捕、頑張って下さい」
颯真が笑顔で言うかと、小折は、はい、と威勢のいい返事をした。しかしそれは威勢が良過ぎて、他の患者達から目を向けられた。小折はそれに、小さな声ですみません、と言い、病院を後にした。
一人残された颯真は壁に寄り掛かったまま、色羽を待った。
「ごめんね、颯ちゃん……」
点滴を終えた色羽は点滴前よりも少し顔色が良くなっていた。それでもまだ頬に赤みはない。
「いいって。それより、歩けるか?」
まだ簡易ベッドに横になったままの色羽に尋ねると、色羽はうん、と頷いた。
「家まで送るから、ちゃんと休めよ?」
颯真は色羽の背中を支えるようにして起き上がらせた。
「うち、来るの?」
颯真の言葉に色羽は驚いたような顔をした。それもそうだろう。色羽の家には何年も立ち寄っていない。色々してもらったくせに薄情だとは思うが、理由としてはそれと反対だった。恩があるからこそ、合わす顔がないからだ。しかし、色羽としては、颯真がたんに自分の親と会いたくないのだと思っているのだろう。
「おじさんとおばさんにも会いたいしな」
颯真は、に、と笑った。それに色羽が嬉しそうな顔をするのがわかる。
「ね、颯ちゃん。その前に、ちょっとお腹減ったかも」
「お、点滴の効果出てきたか」
颯真は色羽を支える力を強めた。
院内の売店で、食べやすそうなサンドイッチを買い、広く取られた談話コーナーへと移動した。昼時の為か、見舞いにきた人も多いし、医師や看護師も多くいた。
色羽は少しずつだが、サンドイッチを口に運んでいく。それに颯真は安堵した。食欲があるのはいい傾向だ。
「あら、点滴、効いてきた?」
声に顔を上げると、そこには有亜がいた。昼飯の時間らしく、売店の袋を提げている。
「はい、お陰様で」
色羽がサンドイッチを飲み込んでから答えた。
「よかったわ。でも、無理はしないでちょうだいね」
有亜は言いながら、同じテーブルについた。
「はーい」
色羽は答え、ペットボトルの水をがぶがぶと飲んだ。脱水症状を起こしていたので喉が渇いているのだろう。
「あ、谷村さん」
有亜は不意に颯真達から視線を外し、声を出した。颯真をその目線をつられるようにして追う。するとそこには、花屋の店員がいた。谷村は酷く緩慢な動きで振り向いた。有亜を捉える目はどこか虚ろだ。
「なんでもいいから、きちんと食べなさいね?」
有亜は立ち上がり、谷村に近付いて言ったが、谷村は無反応だ。視線も定まっていない。細い腕に浮き出る血管が気持ち悪い。谷村は何の返事ましないまま、有亜の側から去っていった。
「……細いっすよね」
去っていく谷村の後ろ姿を見ながら、颯真はぽつりと言った。
「ああ、谷村さんね。本来は心療内科なんでしょうけど、そちちらには行きたがらなくてね。彼女、食事を嫌がるのよ」
「摂食障害ですか?」
「うーん、それとは少し違うみたいね。決まったものしか口にしない、て決めてるみたいで、普通の食事をしないから、まめに点滴に来てもらってるのよ。あら、守秘義務、破っちゃったわ」
有亜はしまった、という表情を作る。そういえば、谷村の枯れ枝のような腕には点滴の後が幾つもあったように思う。
「大丈夫っす。誰にも言わないってか、言うこともないんで」
颯真が言うと、有亜は助かるわ、と微笑んだ。
色羽はサンドイッチを一袋食べ終え、体調もどうにか落ち着いたようだった。颯真は一応タクシーで帰ることを提案し、有亜に礼と別れを告げた。
色羽の家は颯真が住む商店街からは少し離れている。それでも色羽はしょっちゅう颯真の元へとくるのだ。やはりどう考えても疲れないわけはないのだ。
「颯ちゃん、今日はありがとね」
タクシーの中で、色羽が言う。
「別に、礼を言われることじゃねぇって」
改まって言われるとなんだか照れ臭くなり、颯真はぶっきらぼうに答えた。
「ううん、ありがと」
けれど色羽はもう一度しっかりとした声で言った。
色羽を自宅に送り届けると、色羽の両親は涙ぐみながら颯真を抱き締めてくれた。色羽から逐一報告は受けていたのだうが、こうして直に目にすることで安心したのだろう。颯真はそれにむず痒さを覚えながらも、嬉しさを抱いた。
これからは色羽の自宅にも顔を出すことを約束し、夕飯までご馳走になった。そのあと、ベッドで寝る色羽の顔を見る為に、色羽の自室へと足を運んだ。数年振りに見る色羽の部屋は、以前と何も変わっていなかった。
色羽は女装はしているものの、少女趣味というわけではなく、部屋は男の子らしく整然としている。ベッドカバーなどもブルーだし、カーテンは白だ。女装をしている色羽しか知らない者が見たら違和感を覚える部屋だろう。
けれどそこは、間違いなく颯真の知る色羽の部屋だった。漫画より小説が多くて、絵本もあって、空の写真が飾ってある。それが、色羽の部屋だった。懐かしさが込み上げる。
「早く良くなれよ」
静かに眠る色羽に小さな声で言い、颯真は色羽の部屋を後にした。
比奈子は元々口数が多くないが、色羽が隣にいないとなると余計にだ。颯真はどうしたものか悩みながら、比奈子の整った顔を見た。
一応、色羽が体調を崩していることを伝える必要があると、ユキに頼んで比奈子を呼び出してもらった。ユキは二人で出掛けきたら、と優しく微笑んでくれたが、二人で何処に行くというのか。なんとなく、散歩のように商店街を歩く。
「……色羽さん、大丈夫なんですかね」
ぽつり、と比奈子が言った。きっと、比奈子なりに何かを話さなくては、と思ったのだろう。颯真としても何か話題を振ろうかとも思っていたのが、散々考えあぐね、黙り込んでしまっていた。
──対人恐怖症。
そう考えると、無闇にべらべらと話し掛けるのも躊躇ってしまうのだ。しかし、話し掛けた方が比奈子としてもいいのかとか、色々と考えるのだが、答えが出ない。
「あー、一応、今朝連絡したら、熱も下がったし、大分いいみたいだ」
颯真が答えると、比奈子はそうですか、と安心したように息を吐いた。
「んー、あのさ」
颯真は足を止めて、比奈子の顔を見た。比奈子もつられるようにして足を止め、颯真の顔を見る。颯真は男にしては小さい方ではあるが、比奈子の身長も幾ら女子とはいえ、小さい。なのでなんだかんだで比奈子が颯真を見上げる形になっている。
「なんですか?」
比奈子は何事かと、首を傾げる。
「普通にしていいか?」
「普通……ですか?」
比奈子は颯真が何を言いたいのかわからないらしく、不思議そうな表情をした。それは小動物のようだ。
─かわ……いや、そうじゃなくて。
颯真は沸き上がる感情を己で律した。
「あのさ、お前、対人恐怖症って言ってただろ? それ気にしちまうと、どう接したらいいのか悩んじまうっていうか、あー、なんつーのかな。だからさ、俺が思う通りにしていいか、て話なんだが」
こういうとき、自分の語彙のなさというか、口下手なところが悔やまれる。上手く説明が出来ないのだ。
「はい、大丈夫です」
比奈子はそれだけきっぱりと言うと、くるりと颯真に背を向けた。長い、絹糸のような髪がはらりと舞う。
──急にそんな顔をされても……っ。
比奈子は自身の胸に手を当てた。その部分がどくどくと脈打っているのがわかる。こんな感覚は初めてだった。
今、振り返る勇気がない。多分、自分の顔は真っ赤に染まっているだろう。耳まで熱いのが自分でもわかる。
柔らかな笑みだった。普段から笑顔が少ないタイプではないが、常に笑顔というわけでもない。とはいえ、笑っている、という感じで、笑み、というものではない。なので突然、そんな笑みを見せられるとどうしたらいいものか困ってしまう。
──雛の刷り込みみたいなもの。
これで何度目かの言い聞かせになるだろうか。颯真と接する度、というほどでもないが、何度となくこの言い聞かせを自分にした。
──今まで、男の人と節してこなかったから。
だから、こんなふうに鼓動が速くなるのだ。慣れていないから。
「おーい、どした?」
背中越しに声を掛けられ、どくん、と心臓が鳴る。そろそろ顔の赤みは惹いただろうか。比奈子は自身の頬に触れ、熱がないのを確認してから振り返った。
「なんでもないです」
いつも通りの声が出たことに安堵した。比奈子の返しに、颯真は、そっか、と言い、また笑った。今度は柔らかな笑みではなく、にか、という眩しいような笑顔だ。
「あの……やたらに笑わない方がいいと思いますけど」
胸の高鳴りを隠そうとしたばかりに出た言葉。
「はっ?」
颯真がぽかんと口を開ける。
「笑ったところで、怖いです」
本心とは違う言葉を紡ぐ口は勝手に動く。
「いやいやいや、なんだよ、それ」
「そのままですが、何か?」
むしろ、こうした口調でいないと、颯真と冷静に会話が出来ないし、颯真の笑顔を見ることになる。見たくないわけではないが、見てしまうと心臓が五月蝿いのだから仕方無い。
「──本当にいい性格してんな、お前」
颯真が息を吐き出してから言う。別に、元々こういった背中越しではない──と思う。しかし、兄として接することのない狭い世界で生きてきた為、本来の自分というものがいまいちわかっていないのも現状だ。兄といるときは、兄からもそう言われるほど、素直な子だったと思う。それは、兄が穏やかな気持ちにさせてくれたからだ。
最初は、本当に最初だけ、颯真とその兄が被った。それは颯真にもかつて妹という存在がいたからかもしれない。今でも、時折颯真の優しげさ眼差しは兄のそれを彷彿とさせる。
けれど、穏やかな気持ちにはならないのだ。むしろ、胸がざわつくというか、落ち着かなくなるのだ。
「……早く行きますよ」
「いや、何処にだよ」
胸のざわつきを誤魔化すように言うと、静かに突っ込まれ、返す言葉をなくした。
「……何処に行きますか?」
いつも色羽が仲介になってくれていたのだということを、嫌というほど知り、何だか泣きたくなった。二人では、満足に会話も出来ないのだ。
「お前も具合でも悪いか?」
颯真が不意に顔を覗き込んできた。色素の薄い瞳が比奈子を捉える。
「安易に近付かない下さいっ」
若干声が裏返った。
「あー、悪かった」
比奈子の言葉に、颯真はす、と身を引き、何故か胸が微かに痛んだ。きっと、こういうのが颯真の言う、普通なのだ。でもそれを自分は拒絶してしまう。強いものではない。けれど、咄嗟に体と心が反応してしまうのだ。それは、照れや恥ずかしさからだけではない。それだけだったらよかったのに、と思う。
──対人恐怖症。
幼い頃の体験から培われた精神構造のせいだ。怖いはずなんてないのに、不意に恐怖を覚えてしまうときがある。それはきっと、颯真を傷付ける。今のようにして。
「え、あ、私こそ、すみません」
先程普通でいいと返したのは自分だ。なのに、もうこんな態度を取ってしまうなんて。
「いいっていいって。気にすんな」
颯真はそう言って笑ってくれるが、眉が僅かに下がっていた。また、胸が痛む。この人の笑顔が見たい。そんなふうに思ってしまった。それはそれで、心が落ち着かなくなるというのに。
「あ、あのっ」
比奈子はぎゅ、と拳を握った。
「ん?」
「色羽さんに……お見舞い、買っていきませんか?」
色羽と一緒にいる颯真は本当に楽しそうで、それを見ているのはいつも心が穏やかなになった。だから、と思ったのだ。自分といても、颯真を笑顔にすることは難しいかもしれない。だけど、色羽がいれば、彼を笑顔にしてくれるかもしれない、と。
「お、いいな、それ」
不意に颯真が笑った。それだけで、胸が締め付けられる。
最初、色羽の性別を勘違いしていたとき、颯真と色羽が並ぶ姿に悲しくなったときがあった。お似合いで、楽しそうで、気兼ねがなくて。そして、色羽の本来の性別を知ったとき、安堵する自分がいた。もうそのときは既に、この想いは芽生えていたのだ。
「よし、じゃあ、何買うか」
颯真は明るい表情で言い、比奈子の隣に並んだ。比奈子はそれに頬が緩むのを感じながら一歩を踏み出した。
小折からの連絡に、颯真は思わず聞き返してしまった。
「あの人が? 容疑者?」
予想だにしていなかっただとか、そういったことではない。あまりに唐突過ぎることだったのだ。
比奈子と色羽が顔を見合わせているのが視界の端に入る。比奈子と共に色羽が好きなプリンを買って見舞いに訪れた矢先だった。色羽は昨日よりも大分快復していて、顔色も普段通りだし、五月蝿さも普段通りだった。
揃って見舞いにきた颯真と比奈子に、デートのついて? と茶化すほどには元気は戻っていた。
『はい、そうなんです。神羅 有亜さんです。内科医の。被害者達と彼女は同じスポーツジムに通っていて、全員と少なからず交流があったそうです。それと、現場に落ちていた花なんですが、神羅先生が花屋で購入したものと同種でした』
言われてみれば、有亜の診察室にはミニ向日葵があり、四人目の被害者の側にも同じような花が落ちていたらしい。
「え、動機は?」
有亜のことを思い浮かべてみるが、どうしても猟奇的な殺人を犯すような人物には思えなかった。
『それが……オカルトじみてはいるのですが、若い女性の生き血を飲む為ではないか、と。神羅先生、年齢の割にはお綺麗じゃないですか』
馬鹿馬鹿しい。咄嗟に浮かんだ考えだった。小折の話によると、被害者達は皆、生きた状態で、点滴のような針とチューブから血液を抜かれ、それに因って死んだということだ。医師である有亜には、それが可能だということ。
「いやいやいや、なんか、おかしくないすか?」
どう考えてもこじつけのようにしか思えない。
『ですよね? でも、物的証拠もないので、取り敢えず任意同行で、てことになるみたいなんですが』
電話の向こうの小折は困り果てた様子だった。二度程会った人物が容疑者ということに、少なからず動揺しているのだろう。それはも同様だった。
「ちょっと待って下さい。俺も行っていいすか?」
『あ、はい。お待ちしてます』
自分が行ったところで何の意味もないことは理解している。けれどいてもたってもいられなかったのだ。有亜は、色羽の治療をしてくれた。それだけで信用に価する人物かどうかなど、わからない。それでも、颯真の直感が、有亜は犯人ではないと訴えていた。
颯真は比奈子と色羽に事情を説明し、小折のもとへ向かうことを告げた。色羽が一緒に行きたそうにしていたが、まだ体調が万全ではないことを理由に、ここにいるように、と念を押した。色羽は少々不満そうな表情を作ったが、直ぐに納得してくれ。
「あの、私、一緒に行ってもいいですか?」
色羽の部屋を出ていこうとする颯真の背に、比奈子の声が届いた。
「あ、そうだよ。比奈ちゃん、代わりに一緒に行ってきて」
颯真が答えるよりも先に、色羽が賛同する。
「いや、遊びに行くわけじゃねぇんだぞ?」
わかってはいるだろうが、本質的にはわかっていないように思えた。比奈子の傷はまだ新しいものだ。兄が殺されてまだ何ヵ月も経たないのだから。なのに、殺人事件、というものを彼女に近付けてもいいものか悩む。
「大丈夫です」
比奈子がしっかりとした表情で頷いたので、颯真は仕方無しにそれを了承した。