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「うーん、ごめん、小折さん。やっぱり俺にわかることなんてないわ」
一通り小折の話を聞き終えた颯真は素直に頭を下げた。猟奇的な事件だな、という感想以外は何もない。それは色羽も比奈子も同様そうだった。
「いえいえ、謝らないで下さい」
小折は頭を下げる颯真に慌てている。とはいえ、少し心苦しい。小折なりに捜査を進展させたくてここに来たはずだ。なのに、結果としては何もならなかった。服務規定違反を犯したに過ぎないのだ。
「何か気になったら連絡します」
颯真は一応、とそう言ってみた。言ってみたはいいものの、何か気になる気配もない。
「あ、途中まで送りますよ。夕飯の買い物してぇし」
帰り支度をする小折に声を掛け、財布を掴む。どうせ、色羽はここで夕飯を食っていくのだろう。比奈子はユキの家に帰るはずだ。ユキは比奈子と二人で夕飯を摂るのを何よりの楽しみとしているから。
「すみません」
小折は丁寧に頭を下げ、脱いでいた背広を羽織った。二人揃って部屋を出るとき、色羽が小折に対して、またねー、と声を掛けた。小折はそれに丁寧に頭を下げていた。
「スーツ、カッコイイっすよね」
ぺたぺたと雪駄で階段を降りながら小折に話し掛ける。
「そうですか? 何か、未だに着られてる気がして慣れないです」
確かに小折は初々しさが残るタイプだ。決してそれは悪い意味ではない。
「俺は一生スーツ着る仕事に就くことなんてねぇんだろうな」
颯真はぽつりと呟いた。今まで、そんなことは考えたこともなかった。スーツを着るような仕事に就きたいと思ったこともなければ、就く機会もないなどと思ったこともなかった。なのに、今、ふとそんなことを思った。
それはもしかしたら、現状を意識し始めた証なのかもしれない──。
「あの……答えにくかったからいいんですけど」
ビルを出たところで小折が控え目に口を開いた。本来ならこうした育ちのいい人と親しくなることもない。いつも礼儀正しい小折の姿を見て、そんなことも思った。
「ん? なんすか」
ぺたり、と雪駄が鳴る。夕方だというのに夏の空はまだ明るく青い。冬ならもう暗くなり始めている時刻だ。今日は普段より湿気が多く、肌がべたつく。
「颯真君て、ご家族とはどうされてるんですか?」
抽象的な質問だ。小折には、比奈子の兄が殺された事件の後、真子の事件の話を聞かせた。以前の事件のとき、かい摘まんだどころか、話の流れで真子のことを話題に挙げた。けれどそのときはきちんとした説明はしなかったのだ。なので、後から改めて真子の事件のことを小折に話した。
そのときの小折はえらく真剣か顔付きをしていて、話を聞き終えた後は、自分も警察関係者だから複雑そうな表情をしていた。それからの、この質問なのだろう。
どう見ても颯真は独り暮らしだ。しかも、ちんけなビルの一室を借りて。挙げ句、会話の端々から颯真が以前はやんちゃをしていたことも窺えるだろう。だからこそ、家族のことが気になったに違いない。
「あー、家族なー」
颯真は頭をぼりぼりと掻いた。見事な金髪に染め上げたそれは、根本の辺りだけ黒く伸びてきている。そろそろ染め直すべきなのだが、今はちょっとばかり金がない。
「あ、いいんですっ。すみません、大丈夫です」
小折が慌てふためいた様子になる。颯真の態度を見て、聞いてはいけないことだと思ったのだろう。
「え、ああ、大丈夫っすよ。ただ、何て答えようと思って」
颯真は苦笑を浮かべる。小折に家族のことを訊かれるのは嫌ではない。ただ、どうされている、と訊かれると返答に困るのだ。
「いやさ、もう家族とは何年も会っていないんで、どうしてるのかわかんないんすよね」
「何年も?」
ビルを出たところで、二人で立ち止まる。夕方の商店街らしい賑わいが微かに届いてくる。
「はい、何年も。うーん、何年になるかな。今二十歳で、家に帰らなくなったのが十四くらいだから……もう、かれこれ六年くらい?」
颯真の話に、小折は、え、と声を漏らした。小折のような人間からしたら、十四歳という年齢は間違いなく親の庇護の下で過ごすべき年齢なのだろう。いや、小折のような人間に限らず、ほとんどの人がそう思うだろう。けれど、颯真はそんな頃から実家には帰っていなかった。
「街ん中うろうろして、先輩達の部屋に泊めてもらったりを繰り返してました。まあ、警察のご厄介になったことも何度もあるんすけどね」
颯真は自嘲を浮かべる。喧嘩をしては補導され、親が来るまでは帰さないと拘留されたりもした。それでも迎えに来てくれる親はいなくて、仕方なしに先輩に引き取ってもらう形で解放されたりしていた。そんな生活を、四年間繰り返していたのだ。
「だから、親が今どこで何してるかも知らないんすよ」
「住んでるところも、ですか?」
小折は聞きにくそうに眉を下げている。
「そうっす。何処に住んでるかも知らねぇ」
以前いたグループのリーダーが、颯真の生家に足を運んでくれたことがあった。颯真の事情を知り、こんなことをしている場合ではないと颯真を諭してくれたのだ。それでも颯真は両親には会いたくないと、頑なにそれを突っ張ねた。そんなとき、そのリーダーが、颯真の両親に会いに行ったのだ。
颯真が駄目なら、両親を説得しようと思ったのだろう。しかし、彼が足を運んだ先は、売家、という看板が掛けられていたそうだ。彼からその話を聞いたとき、颯真は完全に家族に見放されたと感じた。そして、もう、期待することもない、と思ったのだ。
それまでは、心の何処かで期待していたのかもしれない。いつかまた、家族と共に暮らせる日を。真子は戻ってこずとも、三人で暮らせるのではないか、と。しかし、その期待は潰えた。二度と、そんな日など訪れないのだ。
颯真はその話を簡単に小折に話した。だから、家族のことはわからない、と。肝心な部分についてはまだ話していないが、小折が訊いてこないのに話すのは気が引ける。それは話したくないわけではなく、聞いて気分の良い話ではないからだ。
「……すみません。立ち入ったことをお聞きして」
小折が沈んだ声で謝りの言葉を述べた。
「いやいや、気にしないで下さいよ。立ち入ったことじゃないし、別に、小折さんだって興味本意で聞いたわけじゃないっすよね」
もしそうだったなら、颯真だって答えはしない。小折が、颯真の身の上を心配したうえでの質問だとわかっているから答えたのだ。
「勿論ですっ。興味本意とかじゃなくて、あの……なんていうんですか? いや、でもそれでも、失礼だったというか……」
「本人が気にすんなって言ってんだから、気にしなくていいんすよ」
颯真は笑いながら言い、小折の細い肩を叩いた。こんな細い肩をしていて刑事が務まるのか、反対に心配になってしまう。
「あ、ありがとうございます」
小折は場違いな礼をしてくる始末。
「はは。本当に小折さんてイイ人だ」
「そんなことないですよっ?」
慌てる小折の姿は仔犬がまごついているようで面白い。颯真は一頻り笑ってから、はぁ、と息を吐いた。笑い過ぎて顎と腹が痛い。
「あー、本当にイイ人だ。俺、家族を失ってから、色んな人と出逢いました。本当に、色んな人がいました。でもね、思ったんすよ。ああ、世間て、世界って、イイ人で溢れてんだなーって。本当に思ったし、思ってます。こんなしょーもない俺を拾ってくれた人もいて、励ましてくれた人もいて、叱ってくれた人もいて、好きだ、て言ってくれた人もいて、仲間だと言ってくれた人もいて──。本当に、本当に、イイ人ばかりだって。なのにね、なんでっすかね。家族だけは駄目なんです。家族だけは、違う。それは、無論俺も悪いんすよ。迷惑も沢山かけたし、困らせた。でもね、あいつらは、俺を捨てたんです。いらないって。それってさ、やっちゃいけないことだと思うんすよ。自業自得だよな、て片付けられるほど大人じゃねぇし、そんなふうに思えることはないんだと思うんすよ。だって、俺がこんなになったのは、あいつらに責任だってある。別に、責任転嫁しようってわけじゃなくて。──ああ、話さないつもりだったんすけどね」
少しずつ日が沈め始めた空は橙色に染まっている。遠くに見える高く聳えるビルの向こうに、大きな太陽が半分ほど隠れていた。そこを直視すると、嫌というほど眩しくて、目に滲みる。
「えっと、あの、嫌でなかったら、話してもらえませんか?」
小折はおずおずと颯真の顔を覗き込んできた。
「……俺、こういう話出来る人、いないんすよ」
颯真は、ぽつりと答えた。
「え、色羽君は……?」
小折の考えは当然のことだ。端から見れば、颯真と色羽は互いに言いたいことを全て打ち明けられる間柄に見えるだろう。実際、昔はそうだったし、今も言いたい放題は言える。でもそれと、全てを吐露出来る相手というのは違う。
「イロには言えないっす」
絶対に、言ってはいけないのだ。
「小折さんて、何か人を安心させんすよね。だから、余計なことまでべらべら喋っちまうわ」
はは、と漏れたのは乾いた笑いだった。
──多分、ずっと誰かに聞いて欲しかったのだ。
胸の奥に抱えた感情を、同じ目線でいる相手に。今まで、本当に色んな人と出逢い、そのなかには相談出来る相手もいる。けれど彼らは皆、颯真より上にいる人間だ。小折の立ち位置が低いというわけではない。ただ、小折は上から相手を諭すような人間ではない。だから、自然と同じ目線にいるように思えるのだ。
そしてこれは、相談ではない。聞いて欲しい、吐き出したい、という感情だ。今までずっと、颯真が抱え込んできたもの。
「僕でよかったら、話して下さいっ。全部聞きますっ」
小折は真剣な顔で、まるで交際でも申し込むかのような勢いで言ってきた。それを見ると、自然と笑みが溢れた。本当に相手を安心させる人なのだと実感する。
「小折さん、今からって、時間あります?」
「幾らでもありますっ」
ならば、と颯真はランタンに行くことを提案した。最初は酒でも飲みながら、と思ったのだが、それだと話が脱線するか異様に重苦しくなるかのどちらかだと思ったので、喫茶店を選んだ。
小折の返事を聞くなり颯真は色羽にメッセージアプリで、夕飯は勝手にどうぞ、と短い連絡を入れた。色羽からは即座に「なんでー?」という言葉と共に泣いている熊のスタンプが送られてきた。けれど颯真が返事をする前に、「比奈ちゃんとご飯にするからいーもんね」と今度は笑ったうさぎが送られてきた。
「行きますか」
颯真はスマホを握り、小折に声を掛けた。
ランタンに向かう途中、小折が花屋に寄りたいというので付き合うことにした。小折は常に自分の部屋の玄関に花を飾っているという。
──こういうの、乙女男子っていうんだっけ。
花を選ぶ小折の背中を見ながら、以前ランタンで会った有亜のことを思い出した。彼女もいつも花を買うと言っていた。もしかしたら、この花屋かもしれない。
「お決まりですか?」
不意に声を掛けられ、颯真は反射的にいや、と答えた。声を掛けてきたのは、花屋の店員らしく、黒のエプロンをつけた女性だった。長い黒髪を一本を纏め、眼鏡をしている。化粧はしていないらしく、鼻の頭の辺りにそばかすが散っているのが目立つ。先程まで有亜のことを思い出していたのも手伝い、彼女は酷く地味に見えた。
「あ、いや、連れっす」
颯真が言うと、彼女は小さな声で、そうですか、とだけ返してきた。服装も無地のTシャツにジーンズ。お洒落をする気など全くないといった様子だ。しかし、細い。颯真は彼女の細さに驚いた。
肘の骨が浮き出ている。ジーンズを履いていても脚が恐ろしく細いこともわかる。太股同士がくっつく気配は微塵もない。横から見ると、細い、というより平たい、という表現の方がしっくりくるほどだ。
首や額には痩せ過ぎている為か血管が浮き出ていて、それは腕も同様だった。摂食障害を疑いたくなるほどに病的な細さだ。
「あら、今晩は」
食い入るように彼女の細さを見ていると、また不意に声を掛けられた。
「おお、今晩は」
今度の相手は、先程思い浮かべていた有亜だった。痩せ過ぎの店員と比べ、その体はあまりに肉感的過ぎて凝視出来ない。いや、出来ないのではなくて、することを躊躇ってしまうのだ。
「君も、花が好きなの?」
有亜は目を細めて訊いてきた。見る者を魅了するかのような表情だ。やはり年齢にしては艶かしい。
「いや、付き添いっす」
颯真は花を選び終えたらしい小折の方にちらりと視線を向けた。
「そうなの。ここの花、活きが良くて素敵なのよね」
有亜はふふ、と笑って、一輪の薔薇を手にした。似合い過ぎる選択。深紅の薔薇は、有亜の唇と同じ色をしている。
「お待たせしましたー」
小さな花束を手にした小折が颯真に近寄ってきた。
「お知り合いですか?」
颯真の前にいる有亜に気付き、小折は首を傾げて訊いてきた。
「うーん、知り合い……かな」
とはいえ、会ったのはこれで二度目。正直、知り合いと言っていいのか微妙な線だ。
「ええ、知り合いよ」
有亜はにっこりと笑って肯定し、それじゃ、と薔薇を戻した。
「美しい人ですね。日本人離れしてるっていうか」
小折の言葉に、颯真はそう言われれば、と思った。有亜は女性にしては背が高いし、手足も長い。肉感的なスタイルも日本人とは何処か違う。もしかしたら、ハーフやクウォーターなのかもしれない。
「行きましょ」
颯真は細過ぎる店員と有亜の話し声を聞きながら花屋を後にした。