ヤンキー探偵誕生!?1
ラノベ風に書けたらいいな、と。
ライト感覚のミステリー擬き。
読者様が自力で推理出来るようにはなっておりませんので、悪しからず……。
────大丈夫だよ、大丈夫。お兄ちゃんが守ってあげるからね。お兄ちゃん、とっても強いし、悪い人も、悪いことも許せない性格だから。
────本当に?
────本当だよ。お兄ちゃんが、絶対に守ってあげる。もう、悲しい思いなんて、させないよ。お前は、お兄ちゃんの妹だからね。だから、安心しなさい。
────うん。ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃん、大好きだよ。
────大丈夫だ。絶対に俺が守ってやる。ずっとずっと、守ってやるからな。
────ずっと?
────そうだ。ずーっとだ。何があっても、守ってやる。だって、お前は俺の妹だからな。
────うん! ありがとう、お兄ちゃん、大好き。
朝焼けが眩しい。カーテンの隙間から零れる日差しに、朝比奈 颯真は手で目を覆った。ここで暮らす際家具などを揃えるとき、金を出すのを渋って遮光カーテンにしなかったせいではない。カーテンをきちんと閉めずに寝る、という颯真のずぼらさのせいだ。
狭くもなく、広くもない隙間から射し込む陽の光は絶妙な位置で颯真の目を直撃してくる。これがせめて、後三センチずれた場所であれば気にせず睡眠を貪るのだが、眩し過ぎる光は颯真の願いを聞き入れて移動してくれるわけもない。颯真が僅かに位置をずれれば問題は解決するように思えるのだが、それはどう考えても難しいことだった。
颯真が寝床に決めている場所は、窓際に置いた年季の入った革張りのソファーだ。それは小柄な颯真が寝るのにぴったりのサイズしかなく、しかも枕代わりなのは肘掛けの部分。なのに、身を捩ることも叶わず、大人しく日差しの攻撃を受け続けたうえで眠ることを続けるか、もしくは起きる、という究極の二択しか存在しないのだ。
そこで颯真は目を手で覆ったまま、悩むこと数分、起きることを決めた。手で目を覆ったままでは如何せん、眠るにはきついし、かといって射し込む陽の光は無視して眠るには強過ぎる。颯真は意を決して、起き上がった。もともと、早起きは苦手ではない。たた、夕べは旧友とつい、飲み過ぎてしまい、このソファーに転がったとき、時計は深夜三時を回っていたのだ。
勢いよく起き上がったせいか、意外とあっさりと眠気は去っていった。しかし、少量のアルコールは残っているようで、少しだけ頭が痛い。とはいえ、二日酔いというほどでもなく、吐き気をもよおすどころか、空腹を感じる。酒を酌み交わしながら、食べ物もそれなりに胃に収めたはずだったのだが、まだ若者と呼べる年齢、消化は恐ろしく早いようだ。
颯真は置き時計で時間を確認する。七時半。ならばもう、「さいこ」は開いている時間だ。颯真はソファーから下りると、着替えもせずに財布を片手に部屋を後にした。
颯真が居住を構えているのは古いビルの三階にある一室だった。何でも元は探偵事務所があったらしく、部屋の中にはワークデスクやら椅子やらが置きっぱなしにされていた。ビルのオーナーの話によると、その探偵事務所はどうにも流行らなかったようで開業して一年足らずで夜逃げのように姿を消したとのことだった。
そのビルのオーナーというのが、夕べ颯真と酒を酌み交わした相手であり、彼の職業はちょっと大っぴらに言えるものではなかった。それでも颯真には十代の頃からの友人で──友人というよりは兄貴分といったほうが正しいが──今でもこうして時折二人で酒を酌み交わす仲だった。彼から二年ほど前にこの一室を譲り受けたのだ。
卒業祝い。彼は珍しく笑顔でそう言って、この部屋の鍵を颯真に渡してきた。颯真はそのとき、何度も何度も頭を下げて、彼に礼を言ったのだったが、その後に彼が告げたのは衝撃的な言葉だった。
──ま、いつ取り壊すかわからんけどな。
彼はからからと笑いながらそれだけを言った。とはいえ、当座でも住む場所が見付かった──しかも無料で──というのは、当時の颯真にとってはのうえなく有難いことだった。
そのビルは颯真が住む他に、デリヘルの置き屋のような事務所と、胡散臭い占い屋があるだけで、後は全て空室となっていた。要は、ほとんどいらないビルも同然なのだ。
「あら、颯真ちゃん、おはよう」
ビルの中階段から出ると、強い朝陽と同時に、穏やかな女性の声がした。
「おお、向井のばあちゃん、はよ」
颯真は老女に挨拶を返した。その老女はビルの向かいにある古い平屋に住む向井ユキだった。颯真が越してきた翌朝から、毎日家の脇に置いてあるプランターに水をやっている。そして、颯真を見掛ける度に挨拶をしてくれるのだ。
「颯真ちゃん、また着替えないで出掛けるの?」
ユキは颯真の格好を見ながら、くすりと笑った。グレーの髪を綺麗に纏め、上品に笑う姿はこんな場所の平屋には不似合いだった。元は何処かの奥方だ、と言われても納得してしまうようなのが、ユキという老女だった。けれど、颯真はそんな詮索はせずに、ユキのことを気のいいばあさんだ、とそれだけで接している。
「さいこに行くだけだから、これでいいんだ。あ、ばあちゃん、さいこで何か買ってくるか? コンビニでもいいけどよ」
颯真は部屋着にしてる作務衣の袖を広げて見せながら返した。颯真の部屋着は群青色をした作務衣だった。それに雪駄。ぱっと見は、何処かの寺の小坊主、といったところだが、それとは違い、颯真の髪は剃髪ではなく明るい金色をしていている。
颯真が訊くと、ユキはそうねぇ、と言って、やはり上品な仕草で左手で自身の頬に触れた。朝早くでも、うっすらとではあるが、きちんと化粧をしている。
「じゃあ、いつものお願い出来る? 今、お金持ってくるわ」
「後でいいって。じゃ、ちょっくら行ってくるわ」
「はい、じゃあ、お願いしますね。気を付けて」
ユキはにっこりと笑い、颯真を送り出してくれた。
──遠くの家族より近くの他人、まさにその通りだな。いや、近くても家族のがいいなんて思うこともねぇ。
颯真は歩き出しながらそんなことを思った。
ビルのある裏道を抜けると、そこにはこじまんりとした商店街が広がっていた。そこが、颯真の暮らす土地だった。
いつも早朝は、ほとんどの店のシャッターは下りている。開いているのは豆腐屋とパン屋と喫茶店くらいなものだ。年寄りの多い商店街、店が開くのは早めであるが、閉まるのも早い。となると自然に、颯真も朝型の人間になっていくものだ。
昔は昼に起きて、一晩中遊ぶということを繰り返していた。けれど、この地に住み出して二年、基本的には早寝早起きという習慣が身に付いた。大体、七時には起きて、遅くとも日付が変わるまでには寝る。とてもではないが、二十歳の青年の行動パターンには思えないが、颯真はその生活がとても気に入っていて、健康的な生活を送ることに楽しみさえ見出だしているほどだ。
颯真が足を向けている「さいこ」は早朝から営業している商店街唯一のパン屋だ。古くからある店ではなく、店を構えてからまだ三年と経たないということを、店主の口から聞いた。古くからある商店街への新参者。そんなところが自分とよく似ている以上に、さいこのパンは格別に上手いので、越してきた当初からのお気に入りの店になっていた。
今日は、商店街の様子が少しばかりおかしかった。いつもはほとんどの店のシャッターが下りているのに、今朝は幾つかの店のシャッターが半分ほど開いていて、そして、商店街の奥の方が騒がしい。
──何だ?
颯真は首を傾げながら歩いた。
そんな商店街を歩くこと二分、さいこへと辿り着く。鮮やかなオレンジ色の看板を掲げ、辺り一帯にパンの焼けた香ばしいいい匂いを漂わせている。
ガラス張りの造りはいつも綺麗にされた店内がよく見える。ショーウィンドウのごとく並べられたパンを見ているだけで、颯真の口内には唾液が溢れた。
──今日はどのパンにするかな。
そんなことを考えながらドアを開けると、ドアの上部に取り付けられたベルがチリン、と可愛らしい音を立てる。
「いらっしゃいませ」
その音を聞き付けた店主が、厨房から顔を覗かせる。長身で逞しさのあるその風貌は、小さなパン屋には似つかわしくない。それでも、彼が柔らかな笑顔でパンの匂いを漂わせている姿を颯真は好ましく思っていた。
──この商店街は好きなことばかりで溢れている。
「おはよーございます」
颯真はトレーとトングを取りながら挨拶をした。
「おはよう、颯真君」
「今朝、何かあったんすか? 奥の方が騒がしっすよね」
「え……ああ、警察が来てるみたいだな」
「警察が?」
颯真は売り場へと出てきたさいこの店主──麦沢 泰嗣に聞き返した。
「おはようございます」
麦沢が答える前に、ちりん、という大きなドアベルの音と共に、威勢の良い挨拶が店内に響いた。その声と和やかな、パンの匂いが充満する店内とは不釣り合いで、一瞬にして颯真を異様な空間へと叩き落とした。けれど、挨拶の主の顔を見るなり、その空気は一変し、いつものさいこへと戻った。
「ああ、駐在さんか。何、朝飯でも買いに来たのか?」
さいこへと入ってきたのは、商店街の端にある派出所に勤務する警察官だった。中宮というその警察官は三十を越えたくらいの、まだ若造といった雰囲気を持つ男だった。短く刈り込んだ髪に、鍛え上げられた肉体に警察官の制服を纏い、いつも姿勢が良く、商店街の人々から好かれ、頼りにされているのだ。
颯真がこの商店街に移り住んだとき、彼は既に今の派出所にいて、颯真とも直ぐに親しくなった。個人的に会ったりなどはないが、顔を合わせれば挨拶の他に世間話をするくらいの仲だ。
「いえ、本日は聞き込みです」
中宮はぴ、と姿勢をいつも以上に正して答えた。
「キキコミ?」
颯真は聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「はい。今朝、犬の散歩中だった裁縫屋の中里さんが男性の変死体を発見、派出所に報せてきたのです」
中宮はきびきびと、まるで上司にでも説明するように告げた。いつもの温和な空気とは違い、仕事モードだというのがよくわかる。
──犬の散歩中に死体発見とかベタだな。
あまりに日常からかけ離れた話の内容のせいで、颯真は見当違いな突っ込みを心の中でした。
「変死体?」
颯真と違い、麦沢は的確な質問を中宮にした。
「はい。商店街の裏道──金物屋と靴屋の間の道で、若い男性が殺されていました」
「……あそこで」
金物屋と靴屋。どちらも開店が十一時と遅い。もし、中里さんが犬の散歩で通らなければ、発見はもっと遅かったかもしれない。颯真はそこまで考えてから、は、と妙な声を上げた。
「颯真君?」
「え、何だ、人が殺されてたのか?」
「その通りです。だから、こうして、辺り一帯の聞き込みに参りました」
颯真の問いに、中宮は殊更大きな声で答えた。
「ど、どんな人が殺されたって?」
「三十歳前後の男性です」
「殺されたって、どんなふうに?」
「詳細はまだわかっておりません」
中宮は颯真の問いひとつひとつに丁寧に答えていく。
「颯真君、その辺りににしとくか。中宮さんも、ガチガチに緊張してんだろうしさ」
二人の一問一答を麦沢がやんわりと制した。颯真はその言葉に我に返り、小さく頷いた。どうしても、黙っていることが出来なかった。人が殺されていた、ということに対して。──しかも、こんなに平和な商店街で。
「ええと、不審な人物を見てないか聞きたい、てとこでいいのか?」
「は、はいっ。深夜、不審な人物や、物音は耳にしませんでしたか」
麦沢が改めて言うと、中宮が上擦った声で返事をした。
「でも、申し訳ないんだけど、役には立てなそうだな」
麦沢が言い、颯真もそれに同意した。
「俺もだなぁ。夕べは遅くまで飲んでたけど、特に気になったことなんてねぇし」
「わかりましたっ。それでは、ありがとうございます」
中宮は上擦ったままの声で言い、さいこを後にした。まだ三十を過ぎたばかりの警察官。それに、この地域は比較的治安がいいので、こういった物騒なことに出会すのは慣れていないのだろう。そう考えると、中宮の凝り固まった姿勢や口調はよく理解出来た。颯真はそんなことを考えながら、向かいの店のシャッターを叩く中宮の背をガラス越しに眺めた。
「で、颯真君、今日は何を?」
麦沢に声を掛けられ、ここがパン屋だということを思い出した颯真は、そうだ、と間抜けな声を上げた。つい、殺人、ということに過剰反応を示してしまう。決して忘れられることではないが、捕らわれることとそれはまた別だ。
「えぇと、向井のばあちゃんはいつもの白パンで、俺は……どうすっかな」
颯真はううん、と唸りながら店内に並ぶパンを見渡した。どれもこれも整った形のパンは旨そうで、そして奥から香ってくるパンの香ばしい匂いが空腹を増加させる。
「ま、ゆっくり選んでくれ」
麦沢はそう言うと、颯真を売り場へ残し、奥へと引っ込んだ。これからまだまだ沢山のパンを焼くのだろう。客の為に。
誰かの為に何かを出来る。それはなんと素敵なことなのだろう、と颯真は少しばかり臭いことを考えながら、再びパン達に目を向けた。
ユキに頼まれた白パンと、自分の朝食にと同じく白パンとクリームパンを買い、颯真はさいこを出た。またな、と麦沢の声を背に受け、外へと出ると、パトカーの音が五月蝿かった。その音を聞くと、胸中がざわつく。
颯真は頭を振り、気にしないことを決め込んだ。元より野次馬をする気などないし、迂闊に近寄りたいものでもない。颯真はくるり、と体を方向転換し、歩き出した──その瞬間、がつん、と固いものが額に直撃した。ごぅん、と鈍い衝撃と痛みが脳内へと響く。
「んだ、こら。前見て歩けっ」
つい、強い口調が出た。何故なら、颯真の額に直撃したのは人の頭だったからだ。
「…………」
颯真は額を抑えながら、ぶつかってきた相手の姿を確認した。
──うわ、可愛い。
不意に、言葉が口から漏れそうになる。
目の前で、颯真と同じように痛みに耐えながら自分の頭を抑えているのは、所謂美少女だった。長く、絹のように滑らかで光沢のある、さらりとした黒髪。それは腰の辺りまで伸ばされているが、綺麗に手入れされているのか、少しも傷んでいない。そして、白く陶器のようにするりとした肌。柔らかそうな頬には、陽の光を浴び、桃のように産毛がきらきらとしている。顔立ち自体、とても整っているのだが、一番印象的なのは大きな黒色の瞳だ。明るい中でも漆黒とも呼べる黒さのそれは、肌の白さを際だ立たせるし、肌の白さが瞳の色も際だ立たせている。す、と小さな鼻梁に、桜色の小さな唇。薄手のカーディガンに白いブラウス、濃紺のロングスカートという服装でも体の線が細過ぎるのがよくわかる。その少女は、颯真が短い人生で一番可愛いと思える程の容姿をしていた。
「あ、えっと、悪い。俺もその、前見てなかった」
颯真は何も答えず、目も合わせようとしない少女に謝った。可愛いから謝る、というのは何とも現金な気もしたが、颯真の場合、例え相手が平凡な少女でも謝っていただろう。不意打ちをされるとつい、きつい言葉が出てしまうが、本来、根は荒くはないのが朝比奈颯真という男だ。
「…………」
しかし、少女は颯真の言葉に一言も返さず、ただ黙って頭を抑え、そして歩き始めた。謝りも、何もせずに。
「おいっ、人が謝ってんだから、何か反応しろよ。そんなことも出来ねぇのか」
細い後ろ姿に叫んでみたものの、少女は足も止めず、振り返りもせずに進んでいった。とぼとぼと、小さな足取りはまるで幽霊のようだ。
「今のはですねぇ、きっと、颯真さんが怖かったからですね」
にゅ、と隣から突如声を掛けられ、颯真はおわ、と妙な声をあげた。
「その大声は早朝の街中では失礼ですよ」
声の主は、し、と自分の唇に人差し指を押し当てて言った。
大きな瞳をカラコンで青く染めた美少年がそこにはいた。美少年といっても、颯真より身長は二十センチ近く高い。すらりとした身体はしなやかで、まるで海外モデルのようだ。実際、彼はフランス人と日本人のハーフらしく、中性的で、個性的な顔付きをしている。十八歳、という年齢よりは些か上に見えるほどに大人びてもいた。
「お前ぇが驚かせたせいだろっ。殺すぞっ」
颯真は勢いに任せ、彼──冠城 エメルに叫んだ。
「だから、颯真さん、お静かにしないと駄目ですよ。皆さん、起きてしまいます」
以前、ひょんなことから知り合ったこの少年は、何故か颯真の近くにこうして突然と姿を現すのだ。別にこの商店街に住んでいるわけでもないのに、こんなに早朝から。その理由を問い質したことがないのは、何となく聞きにくいからだ。というより、聞きたくない、というのが正しい。
「それより、あちら、何があったんですかね? 気になりませんか?」
エメルは商店街の奥を、細く長い指で示した。肌の色はさすがハーフというように、日本人のそれとは全く違う、透明感のある白だ。先程の少女も色白だったが、それとは比べ物にならないほどに白く、美しい。
「あ? 別に気になんねぇよ」
颯真は嘘を吐き、エメルから離れようとした。
「嘘、ですね」
エメルはにっこりと微笑みながら、颯真の目を真っ直ぐに見てきた。妙な青から逃げられなくなる。
「……ばぁちゃんにパン届けるから」
颯真はそれだけ言うと、無理矢理視線を逸らし、エメルから離れた。彼に目を見られると、胸がざわつく。いつも、あんなふうに容易く嘘を見抜かれるのだ。それが、堪らなく嫌いだった。
エメルは颯真を追い掛けてくるでもなく、その場にただずんだままいる。それがまた、颯真の胸をざわつかせた。謎が謎を着て歩いているようなのが、冠城 エメルという少年だった。
颯真はちらりと、一度だけエメルを振り返ってから、家路を急いだ。耳にはずっと、五月蝿いほどのパトカーの音がまとわりついてくる。それは、例え耳を塞いだとしても、鼓膜の奥にこびりついたように離れないのだろう。
かの昔、自分の家を取り囲んだ、あの音は。
「ああ、颯真ちゃん、ありがとう」
ユキはパンを受け取ると、代金と一緒に白いタッパーを颯真に渡してきた。それは、掌に乗せるとじんわり温かい。
「これね、夕べ作った筑前煮。よかったら食べて」
直ぐに食べれるように、と温めてから詰めてくれたのだろう。ユキはよく、こうして颯真に惣菜をくれた。若い男の独り暮らし。栄養が偏ってはいけないと、ユキなりの優しさなのだろう。
「おお、ありがと、ばぁちゃん」
颯真はそれを抱えるようにして、ユキに礼を述べた。ユキはそれに嬉しそうに笑う。颯真はもう一度礼を言い、自室のあるビルへと入っていった。腹の虫はそろそろ限界とばかりに鳴くので、筑前煮は有り難かった。
たんたん、と雪駄を鳴らしながら、古いコンクリートの階段を昇る。小さな窓しかない階段は夜になると真っ暗だが、今は陽の光で薄暗い程度だ。
急ぐように昇ってから、扉に手を掛ける。治安のいい商店街に、早朝ということもあり、鍵は掛けていなかった。とはいえ、颯真が部屋の鍵を掛けないのは今日に限ったことではない。いつものことだ。
颯真は部屋に入ると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、適当に積んであるコンビニの箸を取り、寝床代わりにしているソファーへと腰掛けた。このソファーは寝床でもあるが、勿論椅子としてのやくわりも担っている。
ソファーの前の小さなテーブルにパンと筑前煮、水を並べる。
「いただきます」
颯真は誰にともなく大きな声で言い、朝の食事を始めた。
こうして、いつもの朝が始まると思っていた────。