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2.後ろを振り向いて

 すっかり忘れかけていたことだが、昼間に遭遇した不思議なことは、そんな日常の歯車を少しずつ狂わせていた。

 どうも、そういうことらしい。



 バイトも終わり、一日のうちで最も有意義な時間帯をだらだらとテレビをザッピングしながら無意味に過ごしている最中。

 壁の薄いアパートは、隣人のいつもと違う時間の帰宅を教えてくれた。

「あら、めぐみさん随分とお早い」

 壁にかかった時計を眺めると、日が変わってまもない時間。

 そういうお店という点で言えば、まだまだ十分営業時間のはずだった。

「仕方ないか」

 軽く独り言をつぶやき、僕は居間の端に鎮座する冷蔵庫を開けた。

 扉の裏側に据え付けられている棚からミネラルウォーターを手に取り、流しからグラスを二つ。玄関のサンダルをつっかけ、隣の家へ。

 軽くノック。返事がない、ただの屍のようだ。

「めぐみさーん。善良な隣人ですよー」

「……」

 扉を挟んだ向こうに、露骨に人の気配がする。が、返事はなく。

 まあ、いつものことなので僕は諦めずに扉を軽く叩いた。

「めぐみさーん。せめて返事くらいはしてください」

「……んー、恭平くん……?」

 軋む音とともに扉が開く。

「またどんだけ飲んだんですか」

「覚えてないかも」

「はいはい、いいから立ってください」

「うーん、たてなーい」

 完全に幼児退行しているその人の腕を取り、肩を入れる。

 昼間あれだけお姉さん然していたはずの人が、アルコールが入るとこれである。

「とりあえず、これ飲んでください」

 持ってきたコップに水を注ぎ、手渡す。

「んー……」

 言われたことに割合素直に従い、めぐみさんはそれを飲み始めた。

 かなりの酔っ払いゆえに、その手元はだいぶ怪しいが。

「あー、こぼしてますよ。全く……」

 僕は誰にともなく、そう愚痴をこぼした。どうせ掃除させられるとか年上のくせになんですかこの体たらくは、とか色々思うところはあるけれど、結局のところ僕の修行が足りないことのごまかしに過ぎない。

 具体的に言うと、非常に僕の心が乱されているのである。というか、かなりエロい。

 口元から多少こぼれた水が、口元から首筋へ流れ、そしてだいぶ薄着の胸元へ。

 見慣れている光景とはいえ、もう、たまりません。

「んうう、うー」

 そう韜晦しているうちに、めぐみさんはまた玄関に倒れこもうとしていた。

 慌てて僕は、その体を支え、玄関から立ち上がる。

「はいはい、とりあえず布団まで行きますよ」

 まだ質のいい酔っぱらいと化しているめぐみさんを支え、玄関を乗り越える。

 勝手知ったる他人の家、ジャケットだけ剥ぎ取りハンガーにかけ、そしてそのままベッドの上に優しく横たえる。さすがに外行きの恰好のままは悪いとは思いつつも、それをはぎ取ることは問題外。

 役得かもしれないが、一般常識以前に僕の煩悩が持ちそうにない。

 実際に据え膳が据えられても、食べられる人間はそんなにいないのである。

「さて、と」

 とりあえずの隣人としての義務は、これにて完了。

 どうせ明日には覚えちゃいないだろうし、さっそく寝息を立て始めたこともあって、僕は早々に退散と決め込んだ。

「愚痴の聞き役くらいで済めばいいけど」

 客ともめたか、店長ともめたか、いずれにしても心地よい話は聞けなさそうだろう。

 仕事を放りだして途中で帰ってくるのは、僕の短い隣人生活でも、はや四回目だ。

 ちなみに今までの三回は三回とも、翌日に大体ひどい目にあっている。そういう事情もあって僕は軽く憂鬱な気持ちになりながら、めぐみさんの家を出た。

 鍵をかけ、その鍵は新聞受けから玄関へと流し込む。まあ、三回――これで四回か、仕事を途中ですっぽかしてクビになってないあたり、見た目通り売れっ子なんだろうなぁなんて思いながら。

 これで明日めぐみさんが死んでたら、僕が犯人なんだろうなという妄想とともに、僕は自分の巣に戻って行った。



 幸い、めぐみさんは死んでなんかいなかった。

 まあ、それは当たり前。

「恭平君、いる?」

 軽いノックの音とともに、めぐみさんの声がした。

 大学に向かう支度を始めた午前9時、僕は二重の意味で目を見張った。

 この時間にあの人が起きていること、そしてノックなんかしていること。

 この五月に、まさか雪でも降るのだろうか。

 固まった体を解凍し、僕は玄関へ向かった。

「ええ、いますよ」

 ノブを回し、扉を引く。

「どうしましたか、めぐみさん」

 昨晩の失態などなかったかのような、いつものめぐみさんがそこにはいた。

「あら、よかったわ。それでなんだけど」

「三時くらいまでならお付き合いできますよ。それからはバイトなので」

「そ、話が早くて何よりだわ。誘った私が言うのもなんだけど、授業は大丈夫? 油断してると私みたいになるわよ」

「まあ、大丈夫でしょう」

 出るはずだった講義を思い出しながら、僕はそう呟いた。

 確かに必修と書かれていたコマがあった気がするが、一年生のこの時期にサボったせいでどうにもならないのなら、こっちから願い下げだ。

「どこに行きます?」

「そうね……」

 そうして呟かれた店の名前は、僕の知る限りこの辺りで一番豪勢なイタ飯屋――イタリア料理店だった。

 ようするに、ワインリストを見ても値段と日本語が書いてないようなところだ。

 ランチですらびっくりするお値段の代わりに、雑誌やらたまにテレビでも紹介されているところを見かける。

 めぐみさんのチョイスする店の値段と、本人の機嫌の悪さが綺麗に比例することもあって、僕は軽くため息をついた。

「わかりました。でも飲みたいなら車は絶対だめですよ」

「分かってるわよ、それくらい」

 そうして廊下越しの道路を指さす。

 視線を向けると、案の定そこにはタクシーが待機しいていた。

「10分ほどお待ちください。すぐに支度しちゃうんで」

「タクシーの中で待ってるわ」

 颯爽と踵を返し、めぐみさんは階段へと消えていく。その後ろ姿を見送って僕はドアを閉めた。急いで洗面所へ向かい、歯ブラシを手に取る。

 服装はスーツまでとはいかなくとも、そこそこフォーマルなものがいいだろう。

 全額おごりかつ半分デートだという役得を差し引いても気が重い。

 その話を聞いた僕の愛すべき友は不思議そうな顔をしていたが、それはあいつが何も分かっちゃいないだけなのである。第一に店のハードルが、いち大学生には高すぎる。食前酒で出されたものに気の利いたコメントとかできる学生がいたら気持ち悪いだろう? つまりはそういうことだ。

 駆け足8分、僕はめぐみさんの待つタクシーに乗車した。

「早かったわね」

「ええ。ちょうど学校いくとこでしたから」

「そ」

 ゆったりとした加速とともに、タクシーは僕のアパートから離れていく。ちらりとめぐみさんの恰好を盗み見する。

 この季節にぴったりのさわやかな緑を基調とした膝丈のスカートに、その先に延びる黒いタイツ。上半身はストールでそのスタイルの良さを嫌味にならない程度に強調している。本人の良さときれいにフィットした余所行きの恰好を眺め、僕は軽く頭を振った。

 いやあ、ほんとに美人だなあ! 

 この先に待ち構える恐怖の時間を忘れたい一心で、僕はそんなことを考えていた。

「……っと」

 そんな時だった。尻ポケットに突っ込んだ携帯が震える。

 取り出した背面ディスプレイに表示されている差出人を見て、僕は軽く表情をゆがめた。

「随分嫌な相手からみたいね」

 めぐみさんは目線を前に向けたまま、そんなことを言い放った。

「いえ、そういうわけでもないですが」

 たかがメールだ、そう思い直した。

 折り畳み携帯を開き、ボタンを押す。

 表示されるメッセージは、予測を少しばかり上回る内容だった。

「……」

 僕は返信ボタンを押すことなく、ぱたんと画面を閉じ、再び尻ポケットの中に突っ込んだ。

 軽く息を吐き、慣性の法則が支配する車内、背もたれに体重を預ける。

 振動を体で感じながら、僕は目を閉じた。



 やれやれ。いつだってロクでもないことばっかりだ。

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