雨の日の東屋にて
とつとつとアスファルトに雨粒が落ちだした。夕暮れ。街灯の点いた帰り道に降り始めた雨は、またたく間に土砂降りへと転じた。
塾からの帰り道を急いでいた手元に傘はない。夜まで降らないという予報を信じて、家へ置いてきてしまっていたのだ。
いや、ウソ。母親からは散々、持って行けと言われていたにも関わらず、すっかりと忘れて出かけてしまったのだ。
後悔先に立たず、である。
テキストの入ったバッグを抱え込み、ひとまずの屋根を目指し走った。
飛び込んだのは公園の東屋。休日には子ども連れで賑わうその場所も、今日はひっそりとしていた。
「っあー、さいあく」
犬のように、ずぶ濡れの頭を振って髪から落ちてくる雫を散らした。妹に口うるさく言われ伸ばし始めた前髪は、こんな時には邪魔になる。目にかかるそいつらを適当にかき上げ、バケツをひっくり返したような雨を睨みつけた。
背後から、ふいに声が掛けられる。
「そこじゃあ、濡れるでしょう」
それは、雨に溶けるような静かな声だった。静かなのに、はっきりと耳に届く。男の声に肩を揺らし背後を振り返った。
慌てて、先客を見落としたのだろうか。東屋の二脚並んだ長椅子の向こう側。黒色のゆったりとしたシャツとパンツに、これまた黒色のハットを被った男がひとり、青白い顔で椅子に腰をかけていた。
――死神……。
ふいに浮かんだ名称に、ぎゅっと口を噤んだ。滅多な事を口にするものじゃないと思ったのだ。驚いたとしても失礼すぎるだろう。
小さく真っ黒な瞳で、じっとこちらを見つめ続けている。男は、こちらの反応を待たずに語を継いだ。
「大丈夫、取って食ったりなんかしませんから。さ、もっと中へ。靴が、濡れてしまう」
きっとセイレーンに惑わされた船乗りたちはこんな気持ちだったのだろう。静かな声が脳を揺らした。後から思い返せば怪しいだけの男の台詞が、この時には何故だかすんなりと身体を動かさせていたのだ。
それでも残った警戒心が、男の斜め向かいへと腰を下ろさせる。ふるり、濡れた服に冷えた身体が震えた。
男が、紺色のハンドタオルを差し出してくる。
「タオルは、要りますか?」
あくまでも丁寧なその仕草に、少し身を引いた。
「いいえ、大丈夫です。あの……」
「はい」
「あなたは、何ですか?」
音にしてから、言葉を間違えたと思った。そもそも、直接聞くものじゃあないだろう。不躾どころか、失礼にもほどがある。おかしな質問に、けれど男は薄く口元に笑みを浮かべて答えたのだった。
「死神ですよ」
「死神、」
繰り返したところで、頭は理解出来ていない。理解は出来なかったが、心の深いところで納得はしてしまった。その心を見透かしたのだろうか。薄い唇がさらに笑む。その表情から視線を外せなくなった。
「えぇ、死神です。ご存知ありませんか? 土砂降りの中には、死神がいるものですよ」
「え……僕、死ぬんですか、」
乾いた声で尋ねる。心臓は全力で走った直後みたいにバクついていた。
「いいえ、そういうわけではありませんよ。けれど、魔が差したとは言えるかもしれませんね。死神は、美しいものが好きですから」
それが、途端に冷めた。強張っていた身体からも力が抜け、警戒も切れてしまう。向ける目線も気怠げに、うんざりした声で相槌を打った。
「美しい……」
「えぇ。よくご存知でしょう?」
なんだこいつも、そこら辺の人間と変わらないのかと思ってしまったのだ。小さな頃からさんざ言われ続けて、こちとら耳にタコなのだ。さらに纏わりつくようなあの視線や声たちを思い出せば嫌悪が先に来る。面倒。それに尽きる話題だ。
「はぁ、まぁ……そうっすね。あ、だから魔が差して。……ついうっかり、殺しに?」
「いいえ」
くつり、死神は喉を鳴らした。質問が面白かったのか、急に態度が変わったことが面白いのか。
――ちょっとムカつく。
そんな不貞腐れた態度を隠しもせず。それでも視線は、男から外せずにいた。
「殺しはしませんよ。けれど、美しいものが自ら私のテリトリーに入ってきてくれたものですから。少しの間だけでも、近くで眺めていたいと思いましてね。……もしかして、美しいと言われるのはお嫌いでしたか?」
「えぇ、とっても」
「それは、残念なことですね」
語る男の声は沈んでいた。
「美しいということは、それだけで大きな価値があるものなのに」
「俺には必要ないものです」
「そうですか。私なら、明け暮れに眺めていたいのですがね」
「そんなに気に入りました? この顔」
「顔もですが、あなたの存在が美しいのです。こうして、つい、姿を現してしまうほどに」
しかしやはり魅力的な声をしている男だ。程よく距離を取り丁寧に話すこの声に、こうも褒められればそう嫌な気持ちにもならないようだ。
つい、興味が先に立つ。
「へぇ。本当は死ぬ時にしか見えないものなんですか?」
不躾な質問に死神は律儀に答えてくれた。
「時と場合によって、でしょうか。ですが、私のような死神はほとんど姿を見せはしませんね」
「私のような死神って?」
「不意の死こそ至上とする死神のことですよ」
ひやりと一瞬心臓が冷えるような感覚が走る。一度解いてしまった警戒心がまた顔を出したのだ。こいつは危険だと本能が知らせる。
それでも、好奇心は尽きなかった。
「……棲み分けがあるってことですか?」
「棲み分けというよりも、好みの問題ですね。生を謳歌した死を好むものなら、死に際に顔を合わせるでしょうし。魔が差した瞬間を好むものは、それよりも前に姿を見せる場合があります。けれど私の場合は、不意に失われた命を好むものですから。……生が終わる時を、こうして土砂降りの中で待っているのです」
うっすらと微笑む表情がさらに本能を刺激する。逃げろと足を下げさせ、重心を前へと傾けさせたのだ。しかしそれ以上に増した好奇心が、身体を更に前のめりにさせる。
「魂を刈り取るんだ」
黒いローブに髑髏の仮面を被った死神が、大きな鎌を構えるイメージが脳裏に浮かんだ。
けれど目の前の黒いハットは首を横に振る。
「いいえ。死に際に発生する膨大なエネルギーを摂取していますね」
エネルギー。なんとも人間らしい単語だ。ちょっと笑う。
「死ぬのにエネルギーが要るの?」
「えぇ、大仕事ですよ。死ぬということは」
大きく頷く男の言い分は正直よく理解出来ていない。死ぬということがそんなにも大変だとは思えないからだ。あまりにも遠い話である。
遠いから、気軽に口にできる。
「へぇ。じゃあなんとなく死にたいなーと思ってても死ねないのか」
「積み重なれば、それこそ魔が差した瞬間に失われることもありますが……死にたいのですか?」
軽口に、死神が怪訝そうに眉をひそめた。
「えー……なんとなく、ぼんやり、思うことってあるじゃないですか。心臓が勝手に動いてるのすらめんどくさいなーと思って……じゃあ死ぬかぁ? みたいな」
「なるほど」
相槌も冷めた口調だ。なんだか、こちらの気持も冷めてきてしまう。冗談も通じないらしい。相手の態度に乗り出していた身体を引いて首を傾げた。
死神のくせに。
「死ぬ気も無いのに言うなよって感じ?」
「あぁ、いえ」
慌てて上げられた右手が否定を示した。
「私の嗜好ではないので。うん、やはりそれの何がいいのか、分かりかねるなと……」
言い終わり、閉じた口元は歪んでいた。へぇと嘆息する。
「違いがあるんだ」
感想に男は頷き肯定を示した。鼻にしわが寄っている。
「そうですね。あれは好みません。ヒトのニオイが強くって嗜好品の類に思えますね」
「雨の日の死とはどう違うんです?」
「こんな日の死は、生のニオイがしますよ。それか、何もニオイがしないかですね。私はその方が好きです」
言いながら思い出したのだろう。うっとりと黒目を溶かし、チロリと赤い舌で唇を舐めた男にドン引きした。
「へぇ、そうなんですね」
無難に返事をしておいたが、やはり理解出来るものではなかったのだ。それどころか脳内は警鐘を鳴らし男から距離を取らせようとしている。
やはり自分は今日この場で死んでしまうのだろうか。
引きつった声に何を思ったのだろう。男は静かに喉を鳴らした。
「ちなみに、生を謳歌した者からは死のニオイがしますよ」
「えぇっとそれは何でしたっけ。寿命で死ぬってことで合ってます?」
「はい。おおよそ、その認識で大丈夫かと」
「なら僕は、その死神がいいですね」
食い気味に告げる。遠回しの命乞いに、死神はふっふと静かに笑い始めた。
別に何がしたいだとか、将来に大きな目標があるわけじゃあない。無いけれど、ふつーに、爺さんになるまで生きたいじゃないか。やり残したことも……たぶんいっぱいあったはずだ。ほら、今日の夕飯だってまだ食べてないんだから――。
なんて思考を飛躍させていたのはきっと一秒にも満たない間だっただろう。
「それは、残念」
笑い続ける死神の様子に、両目はじっと言葉の真意を探っていた。
けれども、薄っすら笑った口許は言うほど残念がって無さそうだ。そう言えば始めに殺すつもりはないとも言っていた記憶もある。
なら……本当に、この死神は戯れに現れただけなのだろうか。
土砂降りの雨の中に閉じ込められた東屋の下で対峙する。静かな緊張感に息を潜めた。
その時。
抱きしめていたバッグの中から、携帯の着信音が聞こえてきた。なんとも場違いなメロディが鳴り響く。非日常を切り裂いたそいつを布越しに握りしめた。
「どうぞ」
「どうも、」
促され、取り出した画面の父の表示に指を滑らせる。電波を繋げた先もまた、あたり前のように雨の音がしていた。
『もしもし? いま、どこいるんだ? 傘忘れてるし帰っても来ないしってママ心配してるぞ』
チカチカ、ウィンカーの音も聞こえる。運転中らしい。父に聞こえるよう、少し声を張った。
「帰り道にあるちっちゃい公園で雨宿りしてる」
『あーあそこか。分かった。すぐ行くから待ってろ』
「ん、ありがと」
短く礼を告げ、ほっと息を吐く。帰れる。その実感に肩の力が抜けたのだ。
「お帰りですか?」
死神がにこやかに尋ねてくる。
「あ、はい。父が迎えに来てくれるみたいです」
「それは良かった」
柔らかに笑む男の顔にまさかと悪い予感が頭へ過った。
「もしかして、父さんのこと殺すつもりだったりする?」
けれど思いついたことを口に出せば、クスクスと笑われるだけだ。
「いいえ。殺しませんよ」
「なら、いいけど……」
だとするならば、本当にうっかりと姿を現しただけなのだろうか。尋ねようと口を開きかけたところで、再度父からの連絡が来た。言葉通りすぐ近くにいたらしい。
「じゃあ、来たみたいなんで」
携帯をカバンへ仕舞い込み、立ち上がる。こちらを引き留める素振りも見せない死神に頭を下げた。
「はい、お気を付けて」
――死神が言うんだ。
余計な言葉はやっぱり飲み込んで、公園の横へ停まっていた父の車へと走って乗り込んだ。
「ほら、タオル」
「ありがと」
安堵に口許が緩む。雨の音に囲まれた、いつもの場所。
そこから、さっきまでいた東屋の方を伺った。雨でけぶったその場所に、まだ男がいるのかは分からなかったけれど。
「気を付けて運転してね。そこに死神がいるから」
忠告に、父は首を傾げた。
「……魔王みたいなこと言うな?」
「魔王?」
「やってないか? 音楽の授業で……」
降り注ぐ雨の音に声を張りながら、もう一度振り返る。小さな公園は、もう遠く。窓に打ちつけられる、大粒の雨ばかりが視界を覆っていた。
「いやほんとヒドイ雨だな……」
「うん……」
いつもよりもゆっくりと走る父親の声も上の空。
「ほんと、ヒドイ雨だね」
車を囲む雨に、静かな男の声を思い出していた。
――ご存知ありませんか? 土砂降りの中には、死神がいるものですよ。




