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第17話 切られる線の前で

 作戦卓の札は動いた。


 トーマ・ベルクの名は、先に切られる位置から一つ後ろへ下げられた。


 盾役の札も、荷台の影から外された。


 伝令役の札には、後ろへ抜ける線が残された。


 控えにも書かれている。


 当該配置、リオン・グランフェルト確認前に出立不可。


 だが、外の任務準備場では、荷車がすでに動いていた。


 泥を噛む車輪。


 縄を引く兵。


 積み上げられた予備箱。


 列を急かす号令。


 作戦卓で動いた札よりも早く、現場の順が動いている。


 リオンは仮設指揮所の戸口で足を止めた。


 片肩だけに流した短マントの端が、湿った風で揺れる。欠けた家章留め具が鈍く光った。


 前方では、ゲオルク配下の若手兵たちが盾を抱えて並んでいる。


 その中に、トーマがいた。


 彼は昨日より背筋を伸ばしていた。だが、顔は硬い。


 自分の札が動いたことを知っている。


 それでも、自分の足が今どこに置かれているかまでは、まだ分かっていない。


「先行列、押し出せ!」


 荷車の横で、ラザール側の実務者が声を張った。


 その男は控え板を持っている。


 紙面だけを見て、兵の顔を見ていない。


「配置札は修正済みです。出立順の細部は現場裁量で処理します」


 ゲオルクの眉がわずかに動いた。


 リゼット・アシュベルは、記録板に添えた手を止める。


 リオンは実務者を見なかった。


 見ていたのは、荷車の前輪だった。


 旧控えの順で差し込まれた荷車が、盾列の外側へ寄っている。


 その奥で、伝令の細道が荷台と土手の間に潰れかけていた。


「え、俺たち……このまま前ですか」


 トーマの声は小さかった。


 抗議ではない。


 ただ、自分の位置を確かめようとした声だ。


 誰も答えなかった。


 答えないまま、列は進む。


 荷車の車輪が、ぐしゃりと泥を潰した。


「順を乱すな! 先行列はそのまま!」


 実務者の声が飛ぶ。


 トーマは盾を抱え直した。


 隣の若手兵が、不安そうに彼を見る。


「トーマ、これ、戻れるのか」


「分からない」


 トーマは喉を鳴らした。


「でも、命令は前だ」


 その時、前方斥候が駆け戻ってきた。


「廃砦側の見張りが動きました!」


 場の音が変わった。


 荷馬が嘶く。


 盾の列が揺れる。


 伝令が後方へ走ろうとして、足を止める。


 谷口手前の整列場は狭い。


 土手、荷車列、盾列、伝令、荷馬。


 すべてが一本の泥道を奪い合っていた。


 旧順の荷車が横から入る。


 伝令の細道が、荷台と土手の間で潰れかける。


 トーマたちは前へ押され、戻るほど後ろが閉じた。


「後方確認!」


 誰かが叫んだ。


 トーマは反射的に肩越しに振り返った。


 その瞬間、盾の縁が下がった。


 ほんの少しだ。


 だが、隣の若手兵の首元が空いた。


 その兵が、自分の喉元に触れる。


 そこに風が入っていた。


 トーマの顔から血の気が引く。


「……今、俺、空けましたか」


 声が震えた。


 まだ矢は飛んでいない。


 まだ剣も届いていない。


 だが、死ぬ時の形だけが、先にできていた。


「順を乱すな!」


 ラザール側の実務者が叫んだ。


「先行列を前へ! 現場で詰まらせるな!」


 その命令で、トーマたちはさらに前へ押された。


 前へ出れば出るほど、伝令の道が消える。


 聞こうとすれば、盾が下がる。


 リオンの右手が、手袋の縫い目を軽く引いた。


 リゼットがそれを見た。


 彼女の視線が、リオンの手から泥道へ移る。


 兵ではない。


 荷車でもない。


 リオンが見ているのは、兵と荷車の間に残された細い空白だった。


「荷車、寄せろ!」


 実務者の声と同時に、前輪が細道へ食い込む。


 伝令の退路が消える。


 トーマの盾が、再び揺れた。


 リオンが踏み込んだ。


 泥が跳ねる。


 彼の足は、さっき作戦卓で指が通った線と同じ場所を踏んでいた。


 荷車の前輪が、伝令の道を潰す寸前。


 リオンは片手を前へ出した。


 青白い界線が、車輪の前に走った。


 硬く締まる音がした。


 次の瞬間、前輪だけが止まった。


 荷馬は前へ出ようとする。


 荷台は軋む。


 泥は跳ねる。


 兵の息も、盾の震えも、号令も、すべて動いている。


 だが、その前輪だけが動かない。


 戦場のルールが、一点だけ書き換わった。


「戻すな」


 リオンの声が、泥道を切った。


「盾を前に戻せ。半歩右だ」


 トーマが動いた。


 震えたまま、それでも動いた。


 盾の縁が上がる。


 隣の若手兵の首元が隠れる。


「半歩右!」


 トーマが叫んだ。


 今度は、自分のためではなかった。


 列のための声だった。


 盾列が揃う。


 伝令が、止まった前輪の横をすり抜けた。


 細道はまだ残っている。


 その一拍だけで十分だった。


「後方へ! ゲオルク様に伝えろ!」


 伝令が泥を蹴った。


 ゲオルクの指示が、ようやく盾列へ届く。


「先行列、止めろ! 盾列は外側へ寄せるな! 伝令路を空けろ!」


 命令が通る。


 場が戻るのではない。


 崩れかけた場が、別の形へ組み直される。


 リオンは前輪を止めたまま、トーマを見た。


「荷車の音が近い時は、後ろを見るな」


 トーマは息を荒げている。


 盾の内側で、指が白くなっていた。


「合図が見えない位置に置かれたら、声を出せ。黙って従うな。盾を下げるな」


「……はい」


 返事は細い。


 だが、目が逃げなかった。


 トーマは自分が死にかけたことを、今になって理解していた。


 そして、自分が守られたことも。


 リオンは恩を着せなかった。


 ただ、前輪から視線を外さずに言う。


「次は、自分で気づけ」


「はい」


 今度の返事は、少しだけ強かった。


 リオンは手を下ろした。


 界線が消える。


 止まっていた車輪が、ようやく泥を噛んだ。


 だが、その時にはもう、伝令は抜けている。


 盾列も立て直している。


 切られる線は、残らなかった。


 ゲオルクが近づいてきた。


 彼はリオンを褒めなかった。


 トーマにも、安堵の言葉はかけなかった。


 ただ、現場を見た。


 止まった車輪跡。


 盾を上げ直した若手兵。


 後方へ戻れた伝令。


 そして、旧順のまま出そうとした荷車。


「先行列を戻せ」


 ゲオルクの声は低かった。


「盾列の外側を空けろ。伝令を荷車の内側に入れるな。予備箱は二台目以降へ回せ」


「しかし、出立順の細部は現場裁量の範囲で――」


 ラザール側の実務者が口を挟む。


 ゲオルクは遮った。


「現場裁量ではない」


 実務者の口が止まる。


 彼はもう一度、何かを言おうとした。


 だが、止まった車輪跡と、伝令が抜けた泥跡が目に入る。


 言葉が続かなかった。


「配置確認の不履行だ。控えに残せ」


 書記が慌てて筆を取る。


 控え板の上で、黒い文字が増えた。


 出立順未反映。


 配置確認不履行。


 ラザール・ヘニングは、少し離れた場所でその文字を見ていた。


 白い手袋の指が、一瞬だけ止まる。


 顔は崩れない。


 だが、指だけが答えていた。


 彼が逃げに使った文言が、失点として紙面に残った。


「グランフェルト」


 ゲオルクがリオンを見る。


「次の配置確認に立て」


 周囲の兵が、わずかに息を飲んだ。


 臨時指揮権ではない。


 任務を任せる言葉でもない。


 だが、外す言葉ではもうなかった。


 リオンは短く答えた。


「必要なら」


「必要だと判断した」


 ゲオルクは即座に返した。


 その言葉で、トーマの肩が小さく揺れた。


 彼だけではない。


 同じ紋章を付けた若手兵たちが、リオンを見る。


 昨日まで、厄介者の次男騎士だった男。


 さっきまで、作戦卓に口を出すだけの男に見えていた男。


 だが今は違う。


 彼がいなければ、自分たちの列は切られていた。


 それを、盾を持つ手が知っていた。


 リゼットが一歩前へ出た。


 彼女はリオンの隣には立たない。


 ゲオルクと書記の方へ向いた。


 記録板を胸の前に抱え、泥の車輪跡を見る。


 次に、トーマの盾を見る。


 最後に、伝令が抜けた細道を見る。


「配置を直しても、現場で戻せなければ同じです」


 声は静かだった。


 だが、逃げ道を残さない声だった。


 ラザールの視線が彼女へ向く。


 リゼットは引かなかった。


「リオン卿は、紙ではなく、兵が切られる瞬間を止めました。次の確認から外せば、同じことが起きます」


 恋ではない。


 称賛でもない。


 必要だと、現場の事実で置いた。


 リオンは何も言わなかった。


 自分の名を押し込むこともしない。


 ただ、トーマたちの列が組み直されるのを見ている。


 その沈黙が、かえって場を重くした。


 参加させるかどうか。


 その争点は、もう残っていない。


 外せば、兵が切られる。


 それを皆が見てしまった。


 仮設指揮所へ戻ると、作戦卓の上は先ほどと違って見えた。


 同じ札。


 同じ地図。


 同じ控え。


 だが、泥の車輪跡を見た後では、ただの紙面ではなかった。


 書記が参加名の控えを開く。


 ゲオルクが短く命じた。


「リオン・グランフェルトの名を仮置きしろ」


 筆が走る。


 参加名欄に、リオンの名が入った。


 リゼットの目が、その横へ動く。


 ラザールも黙って見ている。


 白い手袋の指が、今度はその空欄で止まった。


 担当範囲。


 そこだけが、空いている。


「参加させるとしても」


 ラザールが穏やかに言った。


「どこまで口を出させるかは、別問題です」


 ゲオルクは答えなかった。


 リゼットは空欄を見た。


 トーマの盾に残った泥。


 止まった前輪。


 抜けた伝令。


 それらを思い出すように、記録板を握る手に力が入る。


 リオンは、その空欄を見下ろしていた。


 だが、まだ何も要求しない。


 名は残った。


 だが、その名に何を任せるかだけが、まだ空欄だった。

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