女公爵の妻が寝取られたと聞いたので
夜会に出るたび、貴婦人たちから憐れみの目を向けられる。
最初は気づかなかった。いや、正確には気づいていたけど、自分への視線だとは思っていなかった。
同情というのはもっとあからさまなものだと思っていたので。
「グラン公爵夫君、ご機嫌よう。……お体の具合はよろしくて?」
「ええ、おかげさまで」
「そう……それは、よかったわ」
どう考えても健康そうな相手にわざわざ体調を聞くのは、そういう意味だ。
精神的に、という部分を省略している。
アルノ・グラン。男爵家の次男で、グラン女公爵の婿。
いわゆる入り婿なので、名字は妻のものをもらっている。べつに不満はない。
ただ、この「夫君、大丈夫?」という視線には少し慣れた。
理由は分かっている。
妻のエレナ・グラン女公爵に、言い寄っている男がいるからだ。
しかも相手はフォルム公爵。自分より爵位が上。格が上。顔も良い。
女公爵の婿が男爵家次男という時点で「身分差のある政略結婚」と社交界では見られていて、つまり貴婦人たちの同情の意味するところは、
――浮気されても文句も言えないでしょう、かわいそうに。
まあ、そういうことだ。
自分でも最初はそう思っていた。
なんでエレナさんが自分なんかと結婚したのか、正直よく分からなかったし。
公爵家の当主が男爵家次男を選ぶ理由が見当たらなかった。政略的なうまみもない。
(何か裏があるんだろうな)
と思いながら婿入りして、二ヶ月が経った。
今は、それなりに分かってきた部分もある。
けれどとりあえず今夜は、目の前の問題を片付けなければならない。
フォルム公爵が、妻に近づいていた。
*
気づいたのは一ヶ月前だ。
妻宛の書簡が、執事を通さずに届いていた。
特定のメイドへの手渡しで、台帳への記録もない。
差出人はフォルム公爵。社交界の花形で、「自分が選べば相手は断れない」と信じていそうな笑顔をした男だ。書簡の記録のごまかしに気づいたのは専属メイドのユレイアさんだったが、自分もなんとなく察してはいた。妻の眉間のしわが増えていたので。
「旦那様、少しよろしいですか」
と声をかけてきたユレイアさんに、
「フォルム公爵の件ですか」
と答えたら、ユレイアさんがすごく複雑な顔をした。
「……やはり、ご存じでしたか」
「書簡を受け取っているメイドの動線がおかしかったので。それと、妻の顔色が」
「奥様は旦那様に知られないようにと」
「知ってます」
妻が自分に黙っているのは、たぶん気を遣っているからだ。
夫に知られることで夫婦仲に亀裂が入ったと噂されることを警戒している。エレナさんはそういう、細かいところまで考える人だ。
フォルム公爵が狙っているものも大体見えていた。
公爵家の財政力と領地だ。フォルム公爵家は表向き華やかだが、ここ数年で土台が揺らいでいる。
グラン公爵家と縁を結べれば助かる。そういう話だ。
そして夜会という場を使って、既成事実をでっちあげようとしている。
根拠のない噂でも、広まれば公爵家の信用は傷つく。
「旦那様は、どうされるおつもりですか」
「夜会に出ます」
「それだけですか」
「当日次第です」
ユレイアさんがため息をついた。
諦めたような、でも少し信頼しているような顔だった。
*
夜会当日。フォルム公爵の動きは予想通りだった。巧みな話術で妻を誘導して、少しずつ人目の少ない方へ、少しずつ二人きりになれる場所へ。
自分は妻の隣に移動した。
「――ああ、いた。探しましたよ」
声をかけると、妻が振り返る。その目が「なんで今」と言っていたが無視した。
フォルム公爵が笑顔のまま固まっている。
「これは夫君。邪魔でしたか」
「いいえ。妻が退屈そうだったので迎えに来ました」
「全然退屈していません」と妻が小声で言ったが聞こえなかったことにした。
「フォルム公爵、一つだけ確認してもよいですか」
「なんでしょう」
「先月から、公爵家のメイドを通じて妻へ書簡を送られていましたね。執事を通さず、手渡しで」
フォルム公爵の目が細くなった。
「書簡の筆跡はご自身のものです。そして内容の中に、公爵家の財政状況に関する具体的な数字がありました」
「……それが、何か」
「外部の方がご存じのはずのない数字です。つまり、公爵家の内情を独自に調べていたことになる」
周囲がざわめき始めた。
「本日も、エレナさんを人目の少ない場所へ誘導しようとしていた。公爵家の内情を探り、当主に夫を通さず接触し、夜会の席で二人きりになろうとした。動機については、フォルム公爵家の現在の財政状況と照らし合わせれば――皆様のご想像にお任せします」
ざわめきが波のように広がっていく。
夜会で広まった話は翌日には王都中に知れ渡る。それがどういう意味を持つか、この場の全員が分かっている。
フォルム公爵が口を開いた。が、言葉が出てこなかった。
感情的に否定すれば逆効果だと分かっているのだろう。
自分が穏やかな口調で事実だけを並べたので、怒鳴り返しようがない。
しばらくして、フォルム公爵は無言のまま人込みへ消えた。
*
「……いつから気づいていたの」
帰りの馬車の中で、妻が静かに聞いた。
「一ヶ月前には」
「なんでもっと早く言ってくれなかったの」
「エレナさんが自分で対処しようとしているのに、先回りするのも失礼かと」
妻がしばらく黙った。
「……あなたって」
「はい」
「本当に変わってるわね」
褒めているのか貶しているのか分からない言い方だった。たぶん両方だと思う。
「一つ聞いていいですか」
「なに」
「うちは男爵家次男で、政略的に公爵家の役に立てることも特にない。なんで結婚したんですか、自分と」
ずっと気になっていたことだ。公爵家が男爵家次男を選ぶ理由が、二ヶ月経っても分からなかった。妻がこちらを見た。窓から差し込む月明かりの中で、少しだけ笑っていた。
「婚約候補はたくさんいたわ。でも全員、公爵家の財産か地位を見ていた」
「……はあ」
「あなたは違った」
「何が違ったんですか」
「最初に会った時、わたしの領地の石畳を見て『職人を育てる環境が整っているんですね』と言ったでしょう」
言った気がする。馬車が揺れなくて感動して、つい。
「公爵家を見て、わたしを見てくれた人は初めてだったの」
馬車の車輪が石畳を転がる音がした。
揺れない。本当によくできた石畳だと思う。
「……政略結婚だと思ってました」
「わたしは最初から気に入っていたわよ」
「知りませんでした」
「言わなかったから当然でしょう」
そっけない言い方だったが、耳がすこし赤かった。
どうやら、ずっと政略結婚だと思っていたけれど。
「これからは…妻として接するわ」
最初からちゃんと、好かれていたらしい。
男爵家次男の婿入りというのも、悪くないものだなと思った。




