海の向こうで、君は笑っている。
母が死んだ日のことを、僕は細部まで覚えている。
病室のカーテンの色。
点滴の落ちる間隔。
窓の外を横切った、低空飛行の飛行機。
医者は「苦しまなかったですよ」と言ったけれど、本当かどうかなんて分からない。ただ、母の手は最後まで温かくて、それが妙に現実味を帯びていた。
葬儀が終わってから、僕は実家に戻った。二十年以上住んだ家なのに、空気が軽くなったみたいで、足音がやけに響く。
遺品整理は思った以上につらかった。
服、本、食器、古い写真。
「いつか使うかも」と取っておいたであろう物たちが、次々とゴミ袋に吸い込まれていく。
押し入れの奥から、一冊のノートが出てきた。
表紙には何も書かれていない。中を開くと、僕の名前があった。
——今日、あの子が初めて立った。転びそうになりながら、こっちを見て笑った。
ページをめくる。
——熱を出して、夜中に何度も起きた。小さな背中をさすりながら、私も泣いた。
——小学校の入学式。制服が少し大きくて、それが可愛かった。
それは、母の日記だった。
僕の人生が、母の言葉で綴られていた。
運動会。反抗期。初めての失恋。大学の合格発表。
僕が忘れてしまった瞬間まで、丁寧に残っている。
最後の方の文字は、震えていた。
——最近、物忘れが増えた。あの子の声が、時々遠く感じる。
——もしこれを読む日が来たら、ちゃんと生きてほしい。幸せじゃなくていい。ただ、誰かを大切にできる人でいて。
一番最後のページには、短い一文だけが書かれていた。
——ありがとう。
僕はその場に座り込んだ。
泣き方を忘れていたみたいに、声が出なかった。ただ、胸の奥が壊れたみたいに痛くて、ノートを抱きしめた。
母は、何も要求しなかった。
成功しろとも、親孝行しろとも言わなかった。
ただ、僕が誰かを大切にできる人であればいい、と。
その夜、僕は久しぶりに母の夢を見た。
海の見える場所で、母は若い頃の姿のまま立っていた。
こちらに気づいて、いつものように控えめに笑う。
「ちゃんと、生きるよ」
夢の中でそう言うと、母は何も言わず、ただうなずいた。
朝、目が覚めると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
世界は何事もなかったように続いている。
でも僕の中には、確かに残ったものがある。
それは喪失であり、同時に、受け取った愛だった。




