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海の向こうで、君は笑っている。

作者: 乱世
掲載日:2026/01/31

母が死んだ日のことを、僕は細部まで覚えている。


病室のカーテンの色。

点滴の落ちる間隔。

窓の外を横切った、低空飛行の飛行機。


医者は「苦しまなかったですよ」と言ったけれど、本当かどうかなんて分からない。ただ、母の手は最後まで温かくて、それが妙に現実味を帯びていた。


葬儀が終わってから、僕は実家に戻った。二十年以上住んだ家なのに、空気が軽くなったみたいで、足音がやけに響く。


遺品整理は思った以上につらかった。


服、本、食器、古い写真。

「いつか使うかも」と取っておいたであろう物たちが、次々とゴミ袋に吸い込まれていく。


押し入れの奥から、一冊のノートが出てきた。


表紙には何も書かれていない。中を開くと、僕の名前があった。


——今日、あの子が初めて立った。転びそうになりながら、こっちを見て笑った。


ページをめくる。


——熱を出して、夜中に何度も起きた。小さな背中をさすりながら、私も泣いた。


——小学校の入学式。制服が少し大きくて、それが可愛かった。


それは、母の日記だった。


僕の人生が、母の言葉で綴られていた。


運動会。反抗期。初めての失恋。大学の合格発表。

僕が忘れてしまった瞬間まで、丁寧に残っている。


最後の方の文字は、震えていた。


——最近、物忘れが増えた。あの子の声が、時々遠く感じる。


——もしこれを読む日が来たら、ちゃんと生きてほしい。幸せじゃなくていい。ただ、誰かを大切にできる人でいて。


一番最後のページには、短い一文だけが書かれていた。


——ありがとう。


僕はその場に座り込んだ。


泣き方を忘れていたみたいに、声が出なかった。ただ、胸の奥が壊れたみたいに痛くて、ノートを抱きしめた。


母は、何も要求しなかった。

成功しろとも、親孝行しろとも言わなかった。


ただ、僕が誰かを大切にできる人であればいい、と。


その夜、僕は久しぶりに母の夢を見た。


海の見える場所で、母は若い頃の姿のまま立っていた。

こちらに気づいて、いつものように控えめに笑う。


「ちゃんと、生きるよ」


夢の中でそう言うと、母は何も言わず、ただうなずいた。


朝、目が覚めると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。


世界は何事もなかったように続いている。


でも僕の中には、確かに残ったものがある。


それは喪失であり、同時に、受け取った愛だった。

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