第9話「月夜の研究所」
満月の夜、研究所は銀色の光に包まれていた。実優は珍しく夜遅くまで記録の整理を続けていた。今夜は満月による薬草の変化を観察するための重要な機会だという。薬草園から漂う香りが、どこか神秘的な空気を醸し出している。
書き留めながら、実優は不思議な感覚に包まれていた。かつては恐れていた場所が、今では心落ち着く場所となっている。研究記録の香り、実験器具の整然とした配置、そして窓から差し込む月明かり。それらは今や、実優の心の拠り所となっていた。中でも、月明かりに照らされた三種の花は、実優にとって特別な存在だった。
「実優様、まだ起きていらっしゃったのですね」
久遠が、温かい茶を携えて入ってきた。その仕草には、かつての藤森には決して見ることのできなかった、父親のような優しさがあった。
「はい。今夜の観察が重要だと伺いましたので」
実優の答えに、久遠は穏やかな微笑みを浮かべた。その表情を見るだけで、実優の心は温かくなる。
「慎一郎様も、同じことを」
その言葉に、実優は僅かに息を呑んだ。
「慎一郎様も、まだ研究所に?」
「ええ。離れの実験室で新薬の試験を」
久遠の説明は途中で途切れた。その時、離れから物音が聞こえた。ガラスの割れる音と、重い物が床に倒れるような音。
「慎一郎様!」
久遠が駆け出そうとした時、実優は反射的に立ち上がっていた。研究記録を抱えたまま、離れに向かって走り出す。その行動は、実優自身にも意外だった。かつての実優なら、決してできなかったはずの動き。
月明かりに照らされた廊下を走りながら、実優の鼻腔をかすかな薬草の香りが掠める。紫の花の甘い香り、白い花の清々しい香り、そして中間種の神秘的な香り。それらが混ざり合って、実優の記憶を呼び覚ます。
離れの実験室で、慎一郎が床に膝をつき、苦しそうに咳き込んでいた。その傍らには、割れた試験管。新薬の実験が、想定外の結果をもたらしたのだろう。月明かりに照らされた慎一郎の姿は、普段の禍々しさを失い, どこか儚げに見えた。
「慎一郎様!」
久遠の声が、実優のすぐ後ろから聞こえた。
「実優様、下がってください」
しかし実優は、その場を動かなかった。研究記録を開き、必死に頁を繰る。月明かりに照らされた文字を、必死で追う。
「この薬草、満月の夜に特異な性質を示すという記録が」
実優の声は震えていたが、確かだった。頁を繰る指先に、月光が反射する。
「解毒作用が、通常の三倍に」
その言葉を聞いた久遠が、即座に薬草園へと向かった。実優は、慎一郎と二人きりになった実験室で、静かに記録を続けた。これまでにない緊張が、全身を包んでいる。しかし不思議なことに、恐怖は感じなかった。それは、この場所での日々が実優にもたらした変化なのかもしれない。
「実優、嬢」
慎一郎の声は弱々しかったが、その中に確かな意識があることが分かった。
「はい」
「なぜ、逃げなかった」
その問いに、実優は言葉を失った。確かに、これまでの自分なら即座に逃げ出していただろう。それは椿家で学んだ、最も重要な教えだったのだから。
「記録に、書かれていたので」
実優は、自分でも信じられない言葉を口にしていた。
「満月の夜の、特別な効果が」
慎一郎の咳が、少し和らいだように見えた。実優は気付いていた。慎一郎が意識を保とうとしているのは、実優を安心させるためだということに。
「記録が、あなたをここに」
その言葉に、実優は静かに頷いた。研究記録は、もはや単なる記録ではない。実優の心そのものが、その頁に刻まれているのだと、この時初めて気付いた。
「私も、同じです」
慎一郎の声が、月明かりの中で静かに響く。
「記録が、私を支えている」
実優は、その言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。慎一郎もまた、自分の力に苦しみながら、記録という確かな証を求めていたのだ。それは、二人だけが共有できる真実。
「久遠様が戻られましたら」
実優が心配そうに言いかけると、慎一郎は弱々しく、しかし確かな声で答えた。
「大丈夫だ。いつものことだから」
その言葉に、実優の胸が熱くなった。こんな状態でも、自分を気遣ってくれている。その優しさが、胸を締め付けるよう。
「ええ、必ず」
実優と慎一郎の会話は短く、途切れ途切れだった。しかし、その言葉の間に流れる空気は、これまでにないほど確かな温かさを持っていた。それは、互いの力を理解し合えるからこその、特別な絆。
やがて久遠が戻ってきた。急いで調合された薬が、慎一郎の体調を徐々に回復させていく。その過程を見守りながら、実優は静かに記録を取っていた。この経験も、きっと将来の研究に活かせるはずだから。
「実優様」
久遠の声には、深い感謝が込められていた。
「いいえ、記録のおかげです」
実優の答えに、久遠は静かに微笑んだ。その表情には、父親のような、そして同志のような複雑な感情が滲んでいた。
その夜、実優は長い時間、研究記録に向かっていた。今夜の出来事を、できるだけ詳しく記録に残そうとする。しかし、不思議なことに、手は少しも震えていなかった。それは、この場所での確かな成長の証。
手鏡を取り出すと、そこには月明かりに照らされた自分の顔が映っていた。その表情は、もはや以前の実優のものとは思えないほど、穏やかで確かなものになっていた。それは、誰かのために何かができる喜びを知った顔。
窓の外では、満月が静かに薬草園を照らしている。三種の花が、まるで祝福するかのように、銀色の光を放っていた。実優は、自分がまた一歩、前に進めたことを実感していた。それは小さな一歩かもしれない。でも、確かな前進。この場所で、実優は少しずつ、でも着実に変わっていけるのだと信じていた。




