第8話「静かな朝の研究所」
夏の終わりを告げる風が、研究所の窓を揺らしていた。実優は今日も早朝から研究所に足を運び、昨夜の記録を整理していた。この数日、実優の研究所での滞在時間は少しずつ長くなっていた。それは不思議な感覚だった。椿家では、実優が一つの場所に長く留まることなど許されなかった。大志は、実優の存在そのものを嫌悪していたのだから。
窓の外では、庭師の山本夫妻が薬草の手入れをしている。最初は実優を警戒していた二人も、今では穏やかな挨拶を交わすようになっていた。時折、山本老人が薬草の育て方について語りかけてくることもある。触れることはできなくとも、その知識は実優の記録をより豊かなものにしていた。
「おはようございます、実優様」
千代が、朝の光とともに研究所に入ってきた。その手には、温かな茶が載せられている。
「まだ朝が早いので、少しでも温まっていただけたらと思いまして」
その言葉に、実優の胸が熱くなる。椿家では、使用人たちが実優に心を配ることなど、決してなかった。藤森を筆頭に、彼らは実優を「忌み子」として扱うことを誇りにさえしていた。
「ありがとう、千代さん」
その言葉を口にした瞬間、実優は自分の変化に気付いた。以前の実優なら、このような親しみを込めた呼びかけなど、決してできなかったはずなのに。
千代の目が、優しく潤んだ。
「実優様、本当に...本当に良かったです」
千代は、それ以上の言葉を飲み込んだ。しかし、その想いは確かに実優の心に届いていた。
「実優様、お早うございます」
春樹が研究所に入ってきた。その手には、新しい実験器具が抱えられている。実優が初めてこの場所に来た頃、春樹はどこか遠慮がちだった。しかし今では、研究の進捗を報告することが習慣となっていた。
「おはようございます。新しい実験でしょうか」
実優の問いかけに、春樹は嬉しそうに頷いた。その表情には、大志の冷たい完璧さとは正反対の、温かな情熱が溢れている。
「はい!実優様の記録を基に、新しい仮説を立ててみまして。白い花と紫の花の中間種が、月の満ち欠けに応じて異なる効果を示すのではないかと」
春樹は丁寧に実験の準備を始めながら、その内容を説明していく。先日の実優の観察から、花の開閉時刻と薬効の関係性について、新たな発見があったという。その言葉の一つ一つが、実優の存在を認めてくれているように感じられた。
「この過程で、実優様の観察眼がなければ、私たちはただの偶然として見過ごしていたかもしれません」
春樹の熱心な説明に、実優は静かに耳を傾けていた。かつての椿家では、実優の意見など一顧だにされなかった。しかし、この場所は違う。
「春樹」
久遠の声が、静かに響く。彼もまた、早朝から研究所に来ているようだった。その姿を見て、実優は密かな安堵を覚える。久遠の存在は、まるで温かな日差しのよう。
「慎一郎様が、新しい実験をご希望です」
その言葉に、春樹は慌ただしく器具をまとめ始めた。しかし、実優は今日は逃げ出さなかった。その代わりに、小さな声で申し出る。
「お手伝いできることが」
その言葉に、久遠は穏やかな笑みを浮かべた。
「ではよろしければ、この記録の整理を。実優様の目があれば、私たちが見落としている要素が見つかるかもしれません」
差し出された書類の束には、これまでの実験データが記されている。実優の記録と照らし合わせながら、整理するようにという。それは、実優に寄せられた深い信頼の証だった。
「私に、本当によろしいのでしょうか」
実優の問いかけに、久遠は深い理解を示すように頷いた。その目には、父親のような温かみが宿っている。
「触れずとも見えるもの。それは時として、触れることで見失ってしまうものでもあるのです」
その言葉は、実優の心に深く染み入った。大志が否定し続けた実優の力が、この場所では特別な価値を持つ。その認識が、実優の中で少しずつ形を成していく。
午前の陽射しが研究所を明るく照らす中、実優は黙々と記録の整理を続けていた。慎一郎の実験データと、自身の観察記録を照らし合わせていく作業は、思いのほか心地よいものだった。それぞれの記録が、互いを補完し合っている。
「実優様、この相関関係は」
春樹が、実優の作業に目を留めた。
「はい。月の満ち欠けによる変化を、時系列でまとめてみました」
実優の説明に、春樹は目を輝かせた。その純粋な喜びに、実優の心が温かく震える。
「これは、素晴らしい整理です。この視点があれば、私たちの実験も」
その時、研究所のドアが開いた。
慎一郎が入ってきた時、実優は一瞬身を固くした。しかし、研究記録を握る手は、以前ほど震えてはいなかった。それは、この場所での日々が実優にもたらした小さな変化の証。
「実優嬢」
慎一郎の声には、いつもの重圧が感じられない。むしろ、どこか安堵の色すら浮かべているように見えた。
「その記録を、見せていただけませんか」
実優は、ゆっくりと記録を差し出した。慎一郎は一定の距離を保ちながら、その内容に目を通していく。二人の間には、言葉にならない理解が流れていた。
「これは」
慎一郎の表情が、僅かに変化した。それは、驚きと喜びの入り混じったような表情。
「久遠、この相関関係を研究に取り入れてみよう」
「はい。実優様が気付かれた月の影響と、慎一郎様の実験結果が見事に」
久遠の説明に、研究所の空気が引き締まる。
「私たちには見えていなかった関係性です」
春樹が、興奮を抑えきれない様子で付け加えた。
実優は、自分の心臓の鼓動を強く感じていた。これまで誰も気付かなかったつながりが、実優の記録の中に残されていた。触れることができないからこそ、遠くから見続けてきたからこそ、見えたものがある。それは、実優だけの特別な才能なのかもしれない。
「実優嬢」
慎一郎の声が、静かに響く。
「これからも」
その言葉は途中で途切れたが、実優にはその意味が分かった。それは、この場所での実優の存在価値を認める言葉。大志が否定し続けたものを、確かな形で認めてくれる言葉。
夕暮れ時、実優は自室で研究記録を見つめていた。今日の発見を、丁寧に書き記している。その文字には、かすかな誇らしさが滲んでいた。それは、椿家では決して持つことを許されなかった感情。
手鏡を取り出すと、そこには夕陽に照らされた自分の顔が映っている。以前より、少しだけ凛とした表情に見えた。それは、この場所で見つけた新しい自分。触れることのできない花々に寄り添いながら、確かな存在価値を見出していく実優の姿。
「触れずとも見えるもの」
実優は、その言葉を静かに反芻した。それは単なる慰めの言葉ではなく、実優にしかできない観察方法なのかもしれない。その認識が、実優の心に小さな灯りを灯すよう。
窓の外では、夕暮れの薬草園が風に揺れていた。白い花と紫の花の間で、新しい種が静かに育っている。その光景は、いつの間にか実優にとってかけがえのない風景となっていた。それは、実優の未来を暗示するかのような、希望の風景。




