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第7話「小さな一歩」

夏の日差しが照りつける午後、実優は研究所の窓辺で記録をつけていた。今日は珍しく、研究所での記録を許されている。きっと久遠の計らいなのだろう。実優は、その優しさに感謝しながら、丁寧に筆を進めていた。


椿家での午後とは違い、ここには温かな空気が満ちていた。大志の完璧な仕事ぶりを引き立てるために強いられた作業とは違い、実優の観察は純粋な探究心から生まれている。白い花と紫の花の関係性、そしてその中間に位置する新しい種について、実優は細やかな文字を重ねていく。


研究所の中は静かで、春樹が黙々と実験を進めている音だけが響いている。時折、実優は春樹の作業を盗み見ては、その手順を記録に残していた。直接手伝うことはできなくても、せめて正確な記録を残すことで、何かの役に立てるかもしれない。椿家では、実優の存在そのものが「邪魔」とされていたが、この場所は違う。


「実優様」


春樹が、突然声をかけてきた。その声には、かつての藤森のような冷酷さはなく、純粋な期待が込められていた。


「申し訳ありませんが、この花の様子を見ていただけないでしょうか」


春樹の手には、一輪の白い花が握られていた。実優は反射的に身を引いた。椿家での記憶が、体を支配する。


「私では」


声が震える。花に触れることはできない。それは実優にとって、絶対の掟だった。大志は、実優が花に近づくことすら許さなかった。


「触れる必要はありません」


春樹の声は、意外なほど優しかった。その優しさに、実優の心が少しずつ解けていく。


「ただ、実優様の目で見ていただけませんか。あなたにしか分からない何かが、きっとあるはずです」


実優は、ゆっくりと顔を上げた。春樹は花を作業台の上に置き、一歩下がった。その仕草には、実優への深い配慮が感じられた。


「この花が、どのように見えるのか。実優様の言葉で教えてください」


その言葉に、実優は静かに頷いた。触れなくても、見ることはできる。それは、実優がずっと続けてきたことだった。大志の完璧な調剤とは違う、実優だけの観察方法。


「葉の付き方が、少し特殊に見えます」


実優の声は小さかったが、確かだった。それは、椿家では決して許されなかった、自分の意見。


「どのように?」


「通常、この種の花は左右対称に葉を付けるはずですが、この子は...」


言葉が自然と流れ出る。これまでの観察で得た知識が、実優の中で形を成していた。それは、大志の知識とは違う、実優だけの発見。


「月の満ち欠けに合わせて、葉の向きを変えているように見えます。まるで、月の光を求めているかのように」


実優の言葉に、春樹の目が輝いた。


「素晴らしい!私たちも気付いていましたが、これほど明確には説明できませんでした」


その時、廊下に足音が聞こえた。実優は咄嗟に身を引こうとした。しかし——。


「続けてください」


久遠の声だった。いつの間にか、彼は部屋の隅で実優の様子を見守っていたのだろう。その眼差しには、父親のような温かみが感じられた。


「実優様の観察眼は、私たちにとって重要な光なのです」


その言葉の途中で、再び足音。今度は間違いなく、慎一郎の足音だった。


実優の体が硬直する。しかし、不思議なことに、今までのような恐怖は感じなかった。代わりに、何か別の感情が胸の中でわずかに揺らめいていた。それは、椿家では決して感じることのできなかった、温かな期待。


慎一郎が研究所に入ってきた時、実優は初めて、その場から逃げ出さなかった。それは実優自身にも意外なことだった。


手元の研究記録が、どこか心強い存在に感じられた。袂の中の手鏡も、いつもより温かい。それは、この場所での小さな幸せの証。


「実優嬢」


慎一郎の声には、驚きが混ざっていた。しかし、それは実優の存在を否定するものではなく、むしろ何か期待するような響きを持っていた。椿家の人々の声とは、まるで正反対の温かさ。


「その花について、何か気付かれたことは」


実優は、わずかに息を呑んだ。慎一郎が、実優の意見を求めている。それは、椿家では考えられなかったこと。大志は、実優の言葉など一顧だにしなかった。


「はい、その……」


実優は、自分の記録に目を落とした。そこには、先ほどまで書き留めていた観察記録が並んでいる。白い花の変化、紫の花との関係、そして新しい種の特徴。


「葉の付き方が特異で、それによって日光の受け方も変化します。さらに、月の満ち欠けによって」


声は小さかったが、確かだった。それは、大志の前では決して見せることのできなかった、実優本来の姿。


慎一郎は、静かに頷いていた。その目には、実優への深い理解が宿っている。


「久遠」


慎一郎の声が、研究所に響く。


「実優嬢の記録を、研究データとして正式に採用したい」


その言葉に、実優の心臓が大きく跳ねた。椿家では、実優の存在そのものが否定されていたというのに。


「いえ、私には」


言葉が詰まる。しかし今度は、否定のためではなかった。それは、この場所での幸せを受け入れることへの戸惑い。


「実優様」


久遠が、穏やかに微笑んでいた。


「お嬢様の目は、私たちには見えないものを捉えている。それは、かけがえのない才能です」


春樹も、熱心に頷いている。


「実優様の観察があったからこそ、この新しい種の研究が進んだんです」


その言葉に、実優の胸が温かくなる。それは、椿家では決して感じることのできなかった、認められる喜び。


「このままでは、研究に支障が」


慎一郎が、突然言葉を切った。その手が、作業台を強く握りしめている。


実優は、その仕草の意味を理解していた。慎一郎の力による影響を、抑えようとしているのだ。それは、実優自身がしてきたことと同じ。二人の間には、言葉にならない理解があった。


「私に」


実優は、自分の声に驚いた。それは、以前より少し、確かな響きを持っていた。大志の前では決して見せることのできなかった、強さ。


「私に、できることがありましたら」


研究所に、静寂が流れた。しかし、それは重たい沈黙ではない。温かな理解に満ちた空気。


「ありがとう」


慎一郎の言葉は、実優の心に深く沈んでいった。それは、実優が椿家で聞くことのなかった、純粋な感謝の言葉。


その日の夜、実優は長い時間、研究記録と向き合っていた。いつもの観察記録に加えて、新しい項目を書き加えている。白い花と紫の花の中間に位置する、新しい種について。その特性は、まるで実優自身を映し出しているかのよう。


「触れずとも、見ることはできる」


その文字には、小さいながらも、確かな決意が滲んでいた。それは、椿家で否定されてきた実優の存在価値への、静かな反証。


手鏡に映る月明かりは、いつもより優しく実優を照らしているように見えた。それは、実優が踏み出した小さな一歩を、静かに祝福しているかのように。


窓の外では、三種の花が月の光を浴びていた。白い花、紫の花、そしてその間に咲く新しい命。その光景は、実優の未来を暗示しているようだった。

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