第6話「研究記録の香り」
実優が研究記録に自分の考察を書き始めてから、一月が経とうとしていた。暑い夏の日差しが庭を照らす午後、実優は例刻の記録をつけていた。もはやそれは日課となり、実優の生活の中心となっていた。椿家での調剤記録とは違い、この研究記録には不思議な温かみがあった。
花の観察、天候の記録、そして自分なりの考察。実優の文字は、研究記録の余白を少しずつ埋めていく。時には夜を徹して書き続けることもあった。そんな時は決まって、千代がこっそりと夜食を運んでくるようになっていた。実優は、その優しさにまだ慣れずにいた。椿家では、使用人たちですら実優に冷たい視線を向けていたのだから。
この日も、実優は丁寧に筆を走らせていた。昨日から咲き始めた白い花の様子を、できるだけ詳しく書き留めようとしている。触れることはできないからこそ、より一層注意深く、花々の声に耳を傾けていた。兄の大志が、実優にそのような機会を与えることは決してなかった。
「実優様」
久遠の声に、実優は我に返った。いつの間にか、夕暮れが近づいている。
「もうこんな時間でしたか」
実優は慌てて研究記録を閉じようとした。しかし、その仕草は普段よりゆっくりとしていた。まるで、大切な友との別れを惜しむかのように。この研究記録は、椿家では決して持つことを許されなかった宝物なのだから。
「いいえ、そのままで」
久遠は、実優の隣に腰を下ろした。その手には、新しい研究記録が抱えられている。
「実は、新しい記録帳を用意させていただきました。これまでの記録が満杯になりつつありましたので」
差し出された記録帳は、以前のものと同じ装丁。しかし、革の香りは新しく、頁はまっさらだった。椿家では、実優が自分の記録を残すことなど考えられなかった。
実優は、差し出された新しい記録帳を見つめた。確かに、今使っている記録帳はもう余白が少ない。しかし——。
実優は、僅かに躊躇う素振りを見せた。この記録帳には、鷹見家での日々の全てが記されている。白い花と紫の花の変化。月の満ち欠けによる効果の違い。そして何より、実優が一人の人間として認められた証。
「申し訳ありません」
実優は、新しい記録帳を受け取ることができなかった。椿家での記憶が、実優の体を縛り付ける。大志の冷たい笑みが、心の奥で甦る。
「今の記録でしたら、まだ」
言葉が途切れる。なぜ断るのか、実優自身にも分からない。ただ、今の記録帳を手放すことが、どこか寂しく感じられた。
久遠は、そんな実優の様子を穏やかに見つめていた。その目には、実優の過去を見通したような深い理解が宿っていた。
「そうですね。まだ余白もございますし」
その言葉には、実優の気持ちを理解したような優しさが滲んでいた。椿家の使用人たちとは、まるで違う温かみ。
「ただ、当主様が」
その時、庭から物音が聞こえた。
慎一郎が、薬草園で作業をしている。彼の姿を見た実優は、いつものように身を引こうとした。しかし——。
「実優様」
久遠の声が、実優を引き止めた。その声には、父親のような温かみが感じられた。
「慎一郎様が、お嬢様の記録について」
言葉が途切れる。慎一郎が、こちらを見ていた。その目には、大志の冷たい視線とは正反対の、何か温かなものが宿っている。
夕陽が研究所の窓を染める中、慎一郎は実優の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。その手には、一枝の薬草が握られている。椿家での実優は、このような場面で必ず叱責を受けた。しかし、この場所は違う。
実優は、その場に佇んでいた。不思議な感覚だった。いつもなら即座に身を引いていたはずなのに、今の実優には、その薬草が気になって動けない。まるで、その花が実優に何かを伝えようとしているかのよう。
「実優嬢」
慎一郎の声は、いつもより柔らかかった。藤森の冷たい声とは、まるで正反対の響き。
「この花について、あなたの記録に興味深い観察がありました」
その言葉に、実優は息を呑んだ。慎一郎が手にしているのは、実優が特に詳しく観察を続けていた薬草だった。その姿は、白い花と紫の花の中間のような、不思議な色合いを持っている。
「昨日の夕暮れ時、花弁が閉じ始める瞬間の記録です」
慎一郎は、実優の研究記録を開いた。そこには、夕暮れ時の花の様子が細かく記されていた。実優自身、なぜそこまで詳しく書いたのか覚えていない。ただ、その花の姿が美しく、思わず筆が進んでいた。
「この観察が、私たちの研究に重要な示唆を与えてくれました」
春樹が興奮した様子で説明を始めた。椿家では、実優の言葉に耳を傾けることなど、誰一人としてなかった。
「花弁が閉じる時間帯に、薬効が最も高まることが判明したんです。しかも、その効果は月の満ち欠けにも影響を受けているようで」
実優は、黙って聞いていた。自分の記録が、そこまでの価値があったとは。それは、大志の完璧な調剤記録とは違う、実優だけの発見なのだ。
「さらに、白い花と紫の花の中間に位置する、この新しい種の発見は」
春樹の言葉が、研究所に希望の光を灯すよう。
「実優嬢」
慎一郎の声が、再び実優を現実に引き戻す。
「これからも、あなたの目で見たことを」
その時、慎一郎の体が揺らいだ。
「慎一郎様!」
久遠が慌てて支える。実優は、一歩後ずさった。それは恐れからではなく, 慎一郎を案じる気持ちからだった。
「申し訳ありません」
実優が立ち去ろうとした時、慎一郎の声が追いかけてきた。
「記録は、あなたの手の中で生きている」
その言葉に、実優は足を止めた。
「私がただ薬効を確かめるだけでは、見えなかった真実を、あなたは見つけ出してくれた」
慎一郎の言葉には、深い感謝が込められていた。それは、椿家の人々が決して見せなかった、純粋な信頼の証。
部屋に戻った実優は、研究記録を開いた。頁を繰る手が、いつもより優しい。大志の冷たい視線とは違う、温かな理解がこの記録には込められている。
手鏡を取り出すと、そこには夕陽に照らされた自分の表情が映っている。どこか困惑したような、しかし確かな温かみのある表情。椿家では決して見せることのできなかった、素直な感情。
実優は、研究記録の香りを深く吸い込んだ。革の匂い、墨の香り、そして薄く残る薬草の芳香。その全てが、実優にとってかけがえのないものになっていた。
新しい記録帳は、まだ久遠の手元にある。しかし実優は、それを急いでいなかった。今の記録帳には、まだ書ききれていない何かがある。それは単なる観察記録ではなく、実優の心そのものが映し出された頁。
白い花と紫の花の調和。そして、その中間に位置する新しい種の発見。それは、実優の中で少しずつ芽生えていく希望の象徴のようだった。
夜が更けて、実優は再び筆を執った。今夜も、研究記録は実優の伴侶として、静かに頁を開いている。その温かな重みは、椿家での冷たい記憶を少しずつ溶かしていくようだった。




