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第5話「月光に映る真実」

実優が研究記録の余白に、最初の文字を記したのは、月明かりの差し込む深夜のことだった。細い筆を走らせる手が、かすかに震えている。「雨の日の花は、露を纏うことで香りが変化する」というささやかな発見を、実優は恐る恐る書き留めた。


椿家では、このような行為は決して許されなかった。大志の完璧な記録の傍らに、実優の文字が入り込む余地など微塵もなかった。それどころか、実優が記録に目を向けることすら、厳しく叱責された。


それから三日が経ち、実優は毎晩のように研究記録と向き合うようになっていた。自分でも気付かないうちに、記録は実優の心の拠り所となっていた。昼間は袂の中の手鏡の隣で静かに眠り、夜になると実優の伴侶として机の上で頁を開く。


夜の薬草園は、昼間とは全く違う表情を見せる。白い花と紫の花が、月の光を分け合うように咲き誇る様子を、実優は細やかな文字で記していく。触れることはできなくとも、日々の観察で気付いたことは少なくなかった。


「お嬢様、まだお目覚めですか」


突然の声に、実優は慌てて筆を置いた。千代だった。藤森のような冷酷さはなく、その声には温かな気遣いが込められている。


「少々、手紙を」


実優は咄嗟に返事をしたものの、それが拙い言い訳だと気付いて頬が熱くなる。深夜に手紙を書くような相手など、実優にはいないのだから。椿家での冷たい記憶が、実優の心を締め付ける。


「いえ、その……」


言葉に詰まる実優に、千代は静かに微笑んだ。その表情には、いつもの凛とした厳しさは見られない。


「研究記録のことなら、私も存じております」


その言葉に、実優は息を呑んだ。椿家では、実優の行動は常に監視され、報告の対象とされていた。


「久遠様から伺っております。お嬢様が記された観察記録のことを。月の満ち欠けと花の変化について、とても興味深い発見だと」


千代の声には、非難めいたものは一切含まれていなかった。むしろ、どこか温かみのある響きさえ感じられた。それは、実優にとって不思議な感覚だった。


「実は、当主様も」


その時、廊下に足音が響いた。千代は一瞬、言葉を切った。実優は本能的に身を縛めた。椿家での記憶が、体を支配する。


「失礼いたします。お休みください」


千代は静かに立ち去った。その背中には、何か言い残したことがあるような雰囲気が漂っていた。


実優は、手元の研究記録を見つめた。月明かりに照らされた頁には、実優の文字が幾つも並んでいる。最初は遠慮がちに、しかし次第に確かな筆致で記された観察記録。


その横には、春樹の走り書きで新しい書き込みが加えられていた。「雨天時の観察、非常に参考になります」という言葉に続いて、新たな実験データが記されている。白い花と紫の花の関係性が、数値として示されていた。


実優は思わず、その文字を指でなぞった。この何気ない書き込みの一つ一つが、実優の存在を確かに認めているような気がした。椿家では、実優の存在そのものが否定されていたというのに。


しかし、同時に不安も募る。この幸せな感覚は、いつか必ず裏切られるのではないか。今までのように、全てが無に帰すのではないか。大志の冷たい視線が、実優の心に深く刻まれている。


その時、記録の間から一枚の紙が滑り落ちた。見覚えのない筆跡で、簡潔な文が記されている。


「逆さまの真実にも、確かな価値がある」


慎一郎の文字だった。その言葉に、実優の心が大きく揺れる。


実優の指が、慎一郎の文字の上で止まった。「逆さまの真実」――その言葉は、実優の心の奥深くに沈んでいた何かを揺さぶった。椿家で否定され続けた実優の力が、この場所では違う意味を持つのかもしれない。


月明かりの中で、実優はゆっくりと手鏡を取り出した。鏡に映る自分の表情には、見慣れない色が浮かんでいた。それは困惑でもあり、期待でもあり、そして怯えでもあった。大志に植え付けられた恐れと、この場所での温かな理解が、実優の心の中で交錯する。


窓の外では、白い花と紫の花が静かに月光を浴びている。その姿は、まるで実優の心を映し出すかのよう。相反する性質を持ちながらも、確かな調和を奏でる花々。その光景に、実優は密かな希望を感じていた。


長い夜が明け、朝日が部屋に差し込んできた。実優は一睡もしていなかったが、不思議と疲れは感じなかった。研究記録の重みが、実優を優しく支えているかのようだった。


「お嬢様、久遠様がお呼びです」


千代の声に、実優は静かに立ち上がった。研究記録を袂に忍ばせる手が、いつもより慎重だった。それは、椿家では決して許されなかった大切な宝物なのだから。


研究所に向かう途中、実優は庭に咲く薬草に目を留めた。朝露に濡れた花々が、まるで実優に何かを伝えようとしているかのようだった。それは、大志の完璧な庭では決して感じることのできなかった、生命の息吹。



「おはようございます、実優様」


久遠が、いつもの穏やかな笑顔で出迎えた。その傍らには春樹の姿もあった。


「実優様の観察記録のおかげで、新たな発見がございまして」


春樹が興奮気味に説明を始める。実優が記した雨天時の観察が、新薬の開発に重要な示唆を与えたという。椿家では、実優の言葉は常に無価値とされていたのに。


「特に、この部分です」


春樹が指さす記録には、実優が細かく書き留めた天候と花の変化の記録が並んでいた。その余白には、慎一郎の簡潔な書き込みが。「検証に値する」という言葉が、実優の文字の隣に添えられている。


「当主様も、非常に興味を持たれて」


その時、研究所の扉が静かに開いた。


慎一郎が立っていた。実優は反射的に後ずさろうとしたが、慎一郎の表情には普段の禍々しさが見られない。むしろ、どこか安堵の色すら浮かべているように見えた。


「実優嬢」


慎一郎の声に、実優は顔を上げた。その声には、椿家の人々が決して見せなかった温かな理解が込められていた。


「あなたの観察眼は、私たちの研究に新しい視点をもたらしてくれました」


実優は言葉を失った。それは褒め言葉のようでいて、しかし単なる社交辞令とも違う。まるで、研究者としての純粋な感謝の言葉のようだった。


「白い花と紫の花。相反する性質を持つ二つの花が、月の光の下で見せる変化。それは、私たちの研究の新たな可能性を」


その言葉を最後まで聞くことはできなかった。慎一郎の体が、わずかに傾いたのだ。


「慎一郎様!」


久遠が慌てて支える。実優は、ここで退くべきだと悟った。自分の存在が、また誰かを傷つけてしまう前に。


「失礼いたします」


実優が一歩を踏み出した時、慎一郎の声が追いかけてきた。


「実優嬢」


振り返ると、慎一郎は久遠に支えられながらも、実優をまっすぐに見つめていた。その目には、大志の冷たい視線とは正反対の、温かな光が宿っていた。


「あなたの力は、決して呪いではない」


その言葉は、実優の心の最も深い場所に届いた。椿家で植え付けられた自己否定の念が、少しずつ溶けていくような感覚。


部屋に戻った実優は、研究記録を開いた。慎一郎の言葉が、まだ耳に残っている。「逆さまの真実にも、確かな価値がある」という言葉の意味が、今になって胸に染み渡る。


手鏡に映る夕陽が、研究記録の頁を赤く染めていた。その光の中で、実優は新たな文字を記し始めた。


今度は、少し違う。いつもの観察記録ではなく、実優自身の考察を。そっと、おずおずと、しかし確かな筆致で。椿家では決して許されなかった、自分自身の言葉を。


白い花と紫の花の関係。月の満ち欠けがもたらす変化。そして、それらが織りなす不思議な調和。その全てが、実優の心の中で新たな意味を持ち始めていた。


窓の外では、夕暮れの薬草園が静かに佇んでいる。白い花は夜に向かって開き始め、紫の花は徐々に閉じていく。その光景は、まるで実優の心そのもののよう。光と影が交錯する中で、確かな希望が芽生えていくように。

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