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第4話「記録の余白に」

実優は夜明け前から目覚めていた。枕元には相変わらず銀の手鏡が置かれているが、その隣には新たな存在が加わっていた。久遠から預かった研究記録。暗がりの中でも、その背表紙は実優の視界に鮮明に映る。椿家での調剤記録とは違い、この研究記録からは温かな生命の息吹が感じられる。


大正十一年。この時代、能力者の研究は軍部の管轄下に置かれ、その存在すら公には認められていなかった。政府は能力者を厳しく管理し、その力を軍事利用に限定しようとしていた。しかし、鷹見家は漢方薬の研究という名目で、独自の研究を認められた数少ない例外だった。それは、宮内省での経験を持つ久遠の尽力によるものだと、実優は後に知ることとなる。


一週間が経ち、記録の存在は実優の生活の一部となっていた。夜な夜な、ろうそくの灯りで頁を繰る。最初は疑心暗鬼な気持ちで手に取っていた記録帳も、今では不思議な安らぎをもたらす存在となっていた。椿家での日々を思い出せば、このような平穏は奇跡に近い。大志の完璧な記録の影で、実優は決して自分の文字を残すことを許されなかったのだから。


実優は静かに起き上がり、研究記録を手に取った。表紙の革の感触は、長年の使用で柔らかくなっている。開くと、懐かしい墨の香りが漂う。頁の隅には、誰かの手による小さな書き込みがある。「この配合、もう少し検討の余地あり」「晴れの日と雨の日で効果に差」「月の満ち欠けによる変化、要観察」といった具合に。


そっと頁を繰っていると、一枚の挟み紙が滑り落ちた。月明かりに照らされたその紙片には、几帳面な文字が並んでいた。


「春の野草、特性一覧 ― 月の影響について」


慎一郎の筆跡らしき文字。その下に、久遠の注釈が添えられている。「観察者の感性が重要か」という言葉の横には、春樹の走り書きのような記録が踊る。「光の強さと効果の相関関係?」三者三様の文字が、一つの頁に重なり合う。


実優は思わず、その頁の余白に目を留めた。そこには書き込むためのわずかな空白が残されている。実優の指が、その空白に触れそうになる。椿家では、大志の完璧な記録の傍らに、実優が文字を記すことなど考えられなかった。それどころか、調剤記録に目を向けることさえ、厳しく叱責された。


「この調剤記録に、お前のような者が触れるなど」


大志の冷たい言葉が、実優の記憶に蘇る。


そこで実優は我に返った。余白に触れた指を、慌てて引っ込める。しかし、この研究記録の温かな重みは、椿家での冷たい記憶とは違っていた。


「お嬢様、お目覚めですか」


千代の声が、障子越しに聞こえた。


「はい」


実優は慌てて研究記録を元の場所に戻す。不思議な気持ちだった。まるで、大切な宝物を隠すような、そんな感覚。


「今朝は、久遠様がお呼びです」


その言葉に、実優は一瞬、緊張が走る。研究記録のことだろうか。まだ返していないことを、とがめられるのだろうか。椿家での記憶が、実優の心を縛り付ける。大志の厳しい叱責を思い出していた。


「研究所でお待ちとのことです」


実優は着物の襟を正す。不思議と、研究記録は袂に忍ばせた手鏡の隣に、自然と収まっていた。椿家では決して許されなかった、温かな重み。


研究所に向かう朝の廊下は、いつもより長く感じられた。実優の足取りは重い。しかし、それは恐れからではなく、どこか別の感情が胸の内で膨らんでいた。椿家での、大志の冷たい廊下とは違う温かさが、この場所にはあった。


朝日が差し込む窓の外では、薬草園の花々が静かに目覚めていく。実優は思わずその光景に見入った。花々の開花の順序には、何か規則性があるように見える。最初に咲くのは東向きの白い花。続いて紫の花が、そして黄色い花が——。通常、能力者は植物への干渉を避けるよう、政府から強く指導されていた。しかし、この研究所では違う。むしろ、実優の観察眼は期待されているのだ。


「お待ちしておりました」


久遠が、穏やかな表情で実優を出迎えた。その手には、新しい研究記録が握られている。


「実は、昨日から新しい薬草の研究を始めまして」


研究所の窓からは、朝日が差し込んでいた。整然と並べられた実験器具が、柔らかな光を反射している。一つ一つの配置には、深い意味があるように見える。窓際の器具には朝日が当たりやすく、奥の器具は夕暮れ時まで日光が届く。その配置は、まるで太陽の動きを考慮したかのよう。


椿家の調剤室とは違う、温かな雰囲気がそこにはあった。大志の完璧な整理整頓とは違う、生命を慈しむような空気。そして、作業台の上には、一輪の花が。


「この花の特性について、実優様のご意見を」


実優は息を呑んだ。それは、かつて実優が密かに育てていたフリージアと、どこか似た花だった。椿家の庭で、大志に踏みにじられた、あの花と。しかし、この花には何か特別な輝きがある。まるで、月の光を宿しているかのような。


「実優様、この花をご覧になって、何か気付かれることはございませんか」


久遠の声は、実優の心を優しく包み込むよう。椿家では、このような問いかけをされることは決してなかった。


実優は、そっと花を見つめた。触れることはできないが、その分だけ注意深く観察する。すると、不思議なことに気が付いた。花弁の開き方が、一般的な品種とは異なっている。まるで、月の満ち欠けに応じて変化しているかのように。


「月の...影響でしょうか」


実優の言葉に、春樹が食い入るように耳を傾けた。


「この花の葉の向きが、月の満ち欠けによって変化しているように見えます。特に、新月の前後で大きく異なるようで...」


その言葉に、久遠と春樹が顔を見合わせた。彼らは既に、この発見の重要性を理解していた。月の影響を受ける薬草は、従来の研究では見過ごされてきた分野だった。それは、軍部の管理下では決して進めることのできない、新しい可能性を示唆している。


「実優様の観察眼は本当に素晴らしい。私たちが気付かなかった点まで」


久遠の言葉に、実優は目を伏せた。椿家では、褒められることなど考えられなかった。大志は常々、実優の存在そのものを否定していたのだから。


その時、研究所のドアが静かに開いた。慎一郎の姿が、朝日に照らされて浮かび上がる。実優は本能的に身を縮めようとしたが、慎一郎の目には非難の色はなかった。


「実優嬢の観察、とても参考になりました」


その言葉に、実優の心が大きく揺れる。椿家での大志の冷たい視線とは違う、温かな理解がそこにはあった。二人の間には触れることのできない壁があるにも関わらず、それとは別の形での確かな絆が生まれ始めていた。


「特に、月の影響についての指摘は、私たちの研究に新しい視点を」


慎一郎の言葉は、実優の心に深く染み入る。これまで誰にも認められなかった実優の観察が、この場所では価値あるものとして扱われている。それは、彼女の存在そのものを否定されてきた過去からの、小さな、しかし確かな一歩だった。


実優は、そっと研究記録を開いた。余白に、おずおずと文字を記し始める。それは椿家では決して許されなかった行為。しかし、この場所では、その小さな勇気が認められていた。


「月光の強さと、花の向きには相関関係が」


実優の文字が、少しずつ頁を埋めていく。その横には、春樹の走り書きで「今後の実験に活用」という言葉が添えられ、久遠の丁寧な筆跡で「貴重な発見」という評価が記される。慎一郎もまた、静かにその記録を見つめていた。


窓から差し込む朝日が、実優の文字を優しく照らしていた。まるで、新しい一歩を祝福するかのように。そして、この光の中には、未来への小さな希望が輝いているような気がした。それは、椿家では決して見ることのできなかった、温かな光だった。



研究記録に向かう実優の姿を見ながら、慎一郎は静かに窓際へと歩み寄った。その仕草には、どこか遠慮がちな様子が窺える。実優の力と、自身の力。互いに触れることのできない二人の距離感が、却って深い理解を生んでいるかのようだった。


「実優様、この紫の花についても」


春樹が新しい花を指さした。その花も、先ほどの白い花同様、月の光を受けて変化するもののようだった。それは軍部が追い求める即効性の薬効とは違う、より自然な、そして確かな力を秘めているように見える。


実優は静かに観察を始めた。椿家での日々とは違い、ここでは花を見つめることすら許されていた。むしろ、その観察眼を期待されているのだと、実優は少しずつ理解し始めていた。


「この紫の花は...白い花とは逆の性質を持っているように見えます」


実優の言葉に、研究所の空気が引き締まる。政府の管理下では決して気付くことのできない発見。それは、能力者の新たな可能性を示唆していた。


「新月に向かって開花し、満月に向かって閉じていく。まるで、白い花の対となるように」


久遠が、深い理解を示して頷いた。彼の目には、宮内省での経験が培った確かな読みが宿っていた。このような発見が、いずれ能力者たちの未来を変えることになるかもしれないという予感が。


「さすがです。私たちも、その可能性を考えていたところでした」


その言葉に、実優は密かな喜びを感じた。椿家では、大志の完璧な判断の前に、実優の意見が入り込む余地など微塵もなかった。


「しかし、それだけではありません」


春樹が、新たな発見を告げるように声を上げる。


「実優様の記録によって、私たちの実験データにも新たな解釈が」


その時、研究所の外から物音が聞こえた。山本夫妻が、朝の薬草園の手入れを始めている。実優は思わずその光景に目を奪われた。二人の手つきには、深い愛情が込められている。椿家の庭師たちの機械的な作業とは、まるで違う温かみがあった。


「山本夫妻の技術も、私たちの研究には欠かせないものです」


久遠の説明に、実優は静かに頷いた。植物を育てる技術と、能力者の力。その組み合わせが、新しい可能性を生み出していく。


「薬草の育て方一つで、その効果は大きく変わります。特に、月の光を受ける向きや、土の混ぜ方まで」


春樹の言葉が、実優の観察をさらに深める。花から聞こえる声は、単なる花言葉の反転だけではない。その背後には、もっと深い真実が隠されているのかもしれない。


「白い花と紫の花。相反する性質を持つ二つの花が、同じ場所で育つことで生まれる効果もあるのではないでしょうか」


実優の言葉に、慎一郎が振り返った。その目には、深い感銘の色が浮かんでいる。それは単なる研究上の発見を超えた、能力者としての共感だった。触れることのできない二人だからこそ、より深く理解できる何かが。


「実優嬢の観察は、私たちの研究に新たな可能性を」


その言葉を最後に、慎一郎は静かに研究所を後にした。しかし、その背中には実優の存在を認める確かな温かさが感じられた。それは、政府の規制や社会の偏見を超えて、二人の間に生まれた特別な絆の証。


実優は再び研究記録に向かう。今度は、少し自信を持って文字を記していく。白い花と紫の花の関係性。月の満ち欠けによる変化。そして、それらが織りなす不思議な調和。その記録の一つ一つが、能力者としての新しい可能性を示唆していた。


「実優様の文字は、とても丁寧ですね」


千代が、そっと実優の傍らに立っていた。その目には、純粋な感嘆の色が浮かんでいる。


「いいえ、私はただ」


実優は、照れたように目を伏せた。椿家では、実優の文字など価値のないものとされていた。しかし、この場所では違う。それは確かな発見の記録として、大切に扱われる。


「実優様の観察眼が、この研究所にとって大切な光となることを、私も確信しております」


久遠の言葉に、実優の心が静かに温かくなる。それは、能力者としての自分を認められた喜びであり、同時に一人の研究者としての誇りでもあった。


窓の外では、薬草園の花々が朝日を浴びて輝いている。白い花と紫の花が、まるで月の光を分け合うように咲き誇る様子は、実優の心に深い印象を残した。その光景は、能力者たちの新しい未来を予感させるものだった。


この場所での日々は、実優にとって新しい挑戦の連続だった。しかし、それは決して重荷とはならない。むしろ、一歩一歩、自分の居場所を見つけていくような、そんな温かな時間。


研究記録の余白に記された実優の文字は、確かな希望の証となっていた。それは、椿家では決して見ることのできなかった、新しい未来への一歩。そして、その一歩は能力者たちの未来をも、少しずつ変えていくのかもしれない。

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