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第32話「雪解け」

冬の朝、実優は研究所の窓辺に立っていた。窓の外では、小さな雪が静かに舞い落ちている。その白い結晶の一つ一つが、これまでの日々を映し出しているかのよう。制御薬の完成から、早くも三ヶ月が過ぎようとしていた。


研究所では、いつものように実験が続けられている。春樹が黙々とデータを取り、久遠が温かな目で全体を見守る。そして、慎一郎は自身の能力を制御しながら、さらなる研究を重ねていた。日常は、確実に新しい形を作り始めていた。


「実優様、お茶をお持ちいたしました」


千代の声に、実優は優しく微笑んだ。


「ありがとうございます」


差し出された茶碗を受け取る手に、温かな重みを感じる。実優は、その温もりに心を溶かされそうになりながら、じっと窓の外を見つめていた。


「実優様」


久遠の声が、いつもより少し重く響いた。その表情には、何か伝えかねるような迷いが浮かんでいる。


「椿家から、連絡がございました」


実優は、静かに久遠の方を向いた。


「大志様の処分が、正式に決定したとのことです」


その言葉に、実優の胸が僅かに痛んだ。薬害事件の真相が明らかになり、大志の関与は明確に証明された。栽培期間の短縮を強要し、品質管理を無視した罪。


「最後まで、自分の正当性を主張されていたそうです」


久遠は、静かに続けた。


「完璧な経営判断だった。利益を最大化するための必然の選択だった。そう、おっしゃっていたとか」


実優の表情が、微かに曇る。それは悲しみというより、ある種の疑問に似た感情。


「妹など、所詮は道具に過ぎない。この程度の犠牲は当然だ、と」


久遠の声が、珍しく感情を帯びる。


実優は、静かな声で言った。


「兄上様は...もしかしたら、私と同じように孤独だったのかもしれません」


その言葉に、久遠は言葉を失った。それは予想もしない反応だった。


「ただ、私には皆様がいた」


実優の声には、静かな確信が混ざっていた。


「しかし、実優様のおかげで椿家は存続への道を見出すことができました」


久遠は、話題を変えるように声を上げた。


実優は、小さく目を伏せる。それは、椿家の薬害事件後の混乱を思い返してのこと。製薬会社としての信用は地に落ち、取引先は次々と契約を解除。そんな中で、実優の存在だけが、椿家を支える最後の支柱となっていた。


それは単なる研究成果だけではない。植物の本質を見抜く実優の能力は、伝統的な漢方薬の世界で計り知れない価値を持っていた。古来より伝わる薬草の知識と、実優独自の観察眼。その組み合わせは、新たな可能性を切り開くものとして、医学界から高い評価を受けていた。


さらに、実優の取り組み姿勢そのものが、椿家の信用回復への鍵となっていた。薬害に苦しんだ人々への真摯な対応、治療法確立への献身的な努力。そして何より、自身の能力を人々の為に使おうとする純粋な想い。それらが、失われた信頼を取り戻す道標となっていた。


「実優様のような方が椿家にいるということ。それだけで、多くの方々が信頼を寄せてくださっています」


久遠の言葉に、実優は静かに頷いた。


「椿家の信用回復に、私にできることがありましたら...」


実優の声には、確かな決意が込められていた。それは、誰かのために自分の力を使おうとする、純粋な想いだけ。


窓の外では、雪がまだ静かに降り続いていた。実優は、その白い結晶を見つめながら、これからの道を思い描いていた。


千代が、さりげなく茶碗にお茶を足す。その所作には、深い敬愛が込められている。研究所の空気は、穏やかな静けさに包まれていた。しかし、その静けさの中に、確かな変化の予感が漂っていた。



春を待つ庭園で、実優は母と向き合っていた。薄い日差しが、二人の間に落ちる影を少しずつ溶かしていく。三月の風は、まだどこか冷たい。


「実優」


母の声は、いつもの冷たさを保ったまま。しかし、その奥に微かな迷いが垣間見える。


「椿家の今後について、あなたはどう考えているの」


問いかけに秘められた本意を、実優は静かに受け止めた。それは単なる経営の方針ではなく、実優自身への問いでもあった。


「大志のような...経営者になれるとは思えないけれど」


その言葉には、まだ大志への未練が残されていた。完璧な息子への信頼は、簡単には崩れない。


実優は、茶碗を静かに置いた。


「私は、兄上様のようにはなれません」


その言葉に、母の目が僅かに細まる。


「では、どうするつもり?」


「ただ...できることを、一つずつ」


実優の声は小さく、しかし確かな響きを持っていた。


「薬草のことを、もっと深く知りたいと思います。植物の声に、もっと耳を傾けて」


母は、その言葉に何か感じるものがあったのか、じっと実優の顔を見つめた。


「...変わったわね」


思わず漏れた言葉に、実優は静かに目を伏せる。


「いつの間に、そんな..」


母の声には、困惑と共に、微かな懐かしさが混ざっていた。


「まるで、お義母様」


その一言に、実優の胸が熱くなる。祖母の面影を、母は実優の中に見出していた。花と共に生きることを教えてくれた祖母。その優しい記憶が、二人の間に静かに広がる。


「椿家の漢方薬は、人を救うために」


実優の言葉に、母は微かに息を呑んだ。その瞳には、もはや政略の道具としてしか見ていなかった娘への、新たな認識が生まれていた。


「お母様も、昔は薬草のことを」


その言葉を、母は遮った。


「そんな昔のことは、もう覚えていないわ」


しかし、その声には以前のような冷たさはない。ただ、何かを思い出すことへの恐れだけが。


庭の隅では、雪解けの水が静かに滴り落ちている。その音が、二人の間の沈黙を優しく埋めていく。


「あなたに...任せてみようかしら」


母の言葉は、まだ躊躇いを含んでいた。しかし、それは確かな一歩。長い冬の終わりを告げる、小さな兆し。


「人を救うため、という言葉。随分と素直に、口にできるようになったのね」


その言葉には、皮肉めいた響きがある。しかし、その奥には何か別のものがあった。


「お母様」


実優の声は、静かな温かさを帯びていた。


「私に、少しだけ時間をいただけませんでしょうか」


母は長い間黙っていた。その間、庭の雪は少しずつ溶けていく。やがて、ゆっくりと頷いた。


「好きにしなさい」


その言葉は、まだ信頼とは言えない。しかし、可能性への扉は開かれた。


二人の間には、まだ深い溝がある。しかし、その溝に少しずつ春の光が差し込み始めていた。雪解けの水のように、ゆっくりと、しかし確実に。


実優は、祖母から受け継いだ手鏡のことを思い出していた。その記憶は、もう苦しいものではない。むしろ、これからの道を照らす、静かな導きの光。


「お茶を、お入れ直しさせていただいても」


その申し出に、母は小さく目を見開いた。かつての実優なら、決して口にしなかった言葉。その変化に、母は言いようのない感情を覚えたのかもしれない。


「...そうね」


短い返事。しかし、その声には微かな柔らかさが混ざっていた。


窓の外では、庭の雪が静かに溶けていく。その光景は、まるで二人の関係のように。完全な和解には程遠い。しかし、確かな変化は始まっていた。それは、春を待つ雪のように、ゆっくりと、しかし確実に進んでいく。


「急須、温めさせていただきますね」


実優の丁寧な仕草に、母は黙って頷いた。その沈黙には、もう否定の色は感じられない。ただ、これからを見守るような、静かな眼差しだけが。

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