第31話「届かないはずだった日」
研究所の窓から差し込む朝日が、実験台の上の試験管を淡く照らしていた。その中には、慎一郎の能力を制御するための薬が入っている。触れる者を病に陥れるその力は、これまで慎一郎の人生を大きく制限してきた。しかし、実優の観察により、その能力の本質が少しずつ明らかになってきた。生きているものにのみ作用する力。その発見が、制御への道を開いたのだ。
「最後の実験準備は整いました」
春樹の声には、これまでにない緊張が混ざっていた。彼の手元には、詳細な記録用紙が用意されている。数ヶ月に及ぶ研究の集大成となる最終実験。その重要性を、誰もが理解していた。
「それでは失礼いたします」
久遠の声が、静かに響く。彼は自ら最初の被験者となることを申し出ていた。長年慎一郎を支えてきた者として、その役目は自分にあると。
「久遠様...本当に」
実優の声が、小さく震える。自分も被験者となることを懇願した彼女だったが、それでも久遠の身を案じる気持ちは強かった。
「実優様」
春樹が、優しく声をかけた。
「実優様の観察があったからこそ、ここまで来られたんです。植物を通して、慎一郎様の能力の本質を見抜いてくださった」
その言葉に、実優は小さく首を振った。
「いいえ、私は...ただ花たちの声を」
その控えめな様子は、以前と変わらない。しかし、その奥には確かな決意が宿っていた。薬害事件を通して、自分にもできることがあると知った実優は、もう後には引かない。
「では、始めてください」
慎一郎が、静かに制御薬を手に取った。研究所のメンバー全員が、その仕草を見守っている。春樹は最後のデータを記入し、千代は心配そうに実優の様子を窺っていた。
「これまでの実験により、生きているものにのみ作用する性質は確認できました」
春樹が、最終確認を始める。
「植物での実験では、実優様の観察力のおかげで、より詳細なデータを得ることができました。そして、この制御薬の効果も...」
窓の外では、薬草園の花々が朝の光を浴びて静かに揺れていた。これまでの研究の成果が、今ここで実を結ぼうとしている。実優は、その光景を見つめながら、祈るような気持ちを抱いていた。
慎一郎は静かに制御薬を飲み干した。
研究所の空気が、一層張り詰めていく。これから始まる実験が、彼の人生を大きく変えるかもしれない。そう思うと、実優の心臓が高鳴るのを感じた。
制御薬を飲んでから十分が経過し、慎一郎は静かに久遠の前に立った。二人の間には、長年の信頼関係が流れている。春樹が緊張した面持ちで記録を取る準備を整え、実優は小さく手を握り締めていた。
「慎一郎様」
久遠の声には、深い感慨が込められていた。
「ようやく、この日が参りましたね」
慎一郎は無言で頷いた。その表情には、これまでには見せたことのない柔らかさが浮かんでいる。
二人の手が、ゆっくりと重ねられた。研究所の空気が、一瞬凍り付く。しかし次の瞬間、久遠の目から一筋の涙が流れ落ちた。
「大きな手になりましたな」
その言葉には、言い表せないほどの想いが込められていた。手を合わせる二人の姿に、実優は思わず目頭が熱くなるのを感じた。
「久遠様、健康診断を」
春樹の声が、静かに響く。すぐさま待機していた医師が診察を始めた。脈拍、血圧、その他の数値。全ての項目が、正常範囲内にあることが確認される。
「現時点では、特に異常は見られません」
医師の言葉に、研究所全体がほっと息をついた。しかし、これはまだ始まりに過ぎない。長期的な経過観察が必要となる。
「次は実優様の番ですね」
春樹が、優しく声をかけた。実優は小さく頷いた。
「春樹君も志願していたのだったか」
久遠が、少し茶化すように言った。
「あの時の無茶は、まだ許されていませんからね」
千代が、軽く叱るように返す。以前、毒を飲んで実験を行った春樹を、皆がどれほど心配したことか。
その会話に、実優は小さく微笑んだ。研究所の仲間たちの温かさが、彼女の心を優しく包み込む。それは、椿家では決して感じることのできなかった安らぎだった。
「実優嬢」
慎一郎が、静かに実優の方へと向き直った。その目には、これまでにない柔らかな光が宿っている。実優は小さく頷いた。植物の声を聞く力で、この薬の確かさを知っている彼女に、もう迷いはなかった。
一歩、また一歩と歩み寄る。しかし、慎一郎の前に立った瞬間、思いがけない感情が実優を襲った。これまで、異性と向き合ったことのない実優の心に、突然の羞恥が押し寄せる。頬が熱くなり、視線を合わせることもできない。
結局、実優が触れることができたのは小さな指先だけ。その仕草には、深い恥じらいが滲んでいた。実優は、自分がこんなにも慎一郎を意識していたことに、今更ながら気付いていた。
「よろしいでしょうか」
慎一郎の紳士的な問いかけに、実優はわずかに顔を上げた。その声には、実優への深い敬意と優しさが込められていた。
慎一郎は、一歩実優に近づき、彼女の小さな手を両手で優しく包み込んだ。その温もりに、実優は思わず息を呑む。これが、人の温もり。これまで決して感じることのできなかった、確かな存在の証。
「温かい...」
実優の小さな呟きに、慎一郎は静かに頷いた。その仕草には、言葉では表せない感動が滲んでいた。
実優の目に、大粒の涙が浮かぶ。それは、慎一郎の両親のことを思い出したからだった。彼らもきっと、この温もりを感じたかったに違いない。その想いが、実優の心を強く締め付ける。
「慎一郎様...」
実優の声が、感情を抑えきれずに震えた。
「ずっと...ずっと、この瞬間のために」
その言葉には、鷹見家に来てからの全ての日々が込められていた。研究所での観察、仲間たちとの時間、そして慎一郎との静かな理解。全ては、この瞬間へと導かれていたのかもしれない。
「実優嬢」
慎一郎の声が、深い感動と共に響く。
「この恩は、一生かけても返しきれない」
その言葉に、実優は首を振った。しかし、まだ慎一郎の手を離すことはできない。その存在の確かさが、実優にとって何より大切だった。
「...離れる気はないようですね」
春樹の茶目っ気のある声に、実優は慌てて手を引こうとした。しかし慎一郎は、その手をしっかりと握ったまま。
「春樹君」
久遠が、優しく諭すように声をかける。その表情には、父親のような温かな微笑みが浮かんでいた。
「申し訳ありません」
春樹は照れたように頭を掻いた。しかし、その目には純粋な喜びが溢れている。長年の研究が、ついに実を結んだ。そして、大切な二人が触れ合える日が来た。この瞬間を、誰もが心から祝福していた。
「慎一郎様」
千代が、静かに声をかけた。その目には、小さな涙が光っている。
「お二人の幸せそうな姿を見られて、本当に良かったです」
実優は、その言葉に頬を赤らめた。しかし、慎一郎の手から伝わる温もりは、確かな幸せを実優の心に届けていた。
「まずは健康診断を」
春樹が、医師を呼び寄せる。しかし実優は、その間も慎一郎の手を離すことはできなかった。その仕草には、まだ少女のような初々しさが残されている。
「実優様」
久遠の声が、静かに響いた。
「本当によく頑張りましたね」
その言葉に、実優は小さく首を振った。
「私は...みなさんのおかげで」
その謙虚な様子は、以前と変わらない。しかし今、その手には確かな温もりがある。それは、実優の人生を大きく変えるきっかけとなるはずだった。
窓から差し込む陽光が、研究所全体を明るく照らしていた。白い花と紫の花の間で育つ新しい種が、風に揺れている。その光景は、まるで二人の未来を祝福しているかのよう。
実優は、そっと慎一郎の手を見つめた。この温もりが、新しい人生の始まりを告げている。これからの日々は、きっと今までとは違うものになる。その予感が、実優の心を優しく包み込んでいた。
「さあ、お祝いのお茶を用意させていただきました」
千代の声が、明るく響く。実優は、ようやく慎一郎の手を離した。しかし、その温もりは確かに心に残っている。
研究所の窓辺に置かれた机には、いつもの茶器が並べられ、山本夫人の作った和菓子が添えられていた。その日常的な光景に、しかし特別な輝きが宿っている。
それは、新しい時代の始まりを告げるような、温かな朝の光景だった。実優は、この場所で見つけた確かな幸せを、心に深く刻み込んでいた。




