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第3話「慎一郎の研究所」

実優が鷹見家で迎える三日目の朝は、薄い霧に包まれていた。大正十一年、この時代では能力者に対する理解が深まっていない。政府は能力者の研究を厳しく制限し、その存在すら公に認めようとしない。しかし、一部の開明的な貴族や実業家たちは、能力者の可能性に着目していた。


例刻通りに目覚めた実優は、いつものように銀の手鏡を袂に忍ばせ、朝食の支度に向かう。この二日間、慎一郎の姿を見かけることはなかった。久遠の説明によれば、慎一郎は屋敷の離れにある研究所で過ごしているという。その研究所は、政府から特別な許可を得て運営されている珍しい施設だった。能力者の研究は通常、軍部の管轄下に置かれるが、鷹見家は漢方薬の研究という名目で、独自の研究を認められていた。


椿家での朝とは違い、ここでは誰も実優を責めることはない。兄の大志のように完璧な仕事を要求されることもなく、母のように一挙手一投足を監視されることもない。そのことが却って、実優には不安だった。


廊下を歩いていると、若い研究助手の藤堂春樹と出くわした。春樹は薬草の束を両手に抱え、何やら考え込んでいる様子だった。帝国大学医学部を首席で卒業した秀才でありながら、彼は能力者の研究に深い関心を寄せ、軍部からの誘いを断って鷹見家の研究所に身を投じた人物だった。


「ああ、実優様。おはようございます」


春樹の声には軽い焦りが混ざっていた。


「おはようございます」


実優は小さく頭を下げた。椿家では、使用人に挨拶を返すことさえ許されなかった。それは大志の厳命だった。


「研究所で使う予定の薬草を運んでおりまして。この白い花の特性が気になっていたところです」


実優は春樹の手元を見た。白い花を付けた薬草の束。それは確か、昨夜久遠が説明してくれた花。この花は、月の満ち欠けによって薬効が変化するという珍しい性質を持っていた。実優は黙って目を伏せた。


「ああ、失礼いたしました。実優様に花の話をするなんて」


春樹が慌てて薬草を背後に隠そうとする。その仕草に、実優は苦い記憶を思い出していた。椿家の使用人たちは、実優の前では花に触れることさえ恐れていた。能力者への偏見は、まだ社会に深く根付いていたのだ。


「実は、この薬草の特性に悩んでいまして」


春樹は、気まずい空気を和らげようとするかのように説明を始める。その花には鎮痛効果があるはずなのに、なぜか期待した効果が得られない。通常の薬草と違い、この種は月の光を浴びることで特異な性質を示すという。


実優は春樹の説明を聞きながら、その花を見つめていく。月の満ち欠けによって、花の様子が変化しているように見える。椿家では、そのような観察をすることさえ許されなかった。大志は、実優が花を見つめているだけで激しい叱責を加えたものだ。


「実優様?」


春樹の声で、実優は我に返る。ふと見ると、久遠が静かに近づいてきていた。久遠の目には、長年能力者と関わってきた者特有の深い理解が宿っている。宮内省での経験を持つ彼は、能力者への偏見が社会を蝕む様を目の当たりにしてきたのだろう。


「春樹、慎一郎様がお待ちです」


「あ、はい! 失礼いたします」


春樹は慌てて立ち去る。その後ろ姿には、どこか心残りな様子が窺える。


久遠は実優に穏やかな視線を向ける。その瞳の奥には、宮内省時代に培った冷静な観察眼と、父親のような慈愛が混在していた。


「実優様、よろしければ研究所の様子をご覧になりませんか」


実優の体が、小さく震える。椿家では決して許されなかった申し出。しかし、久遠の目には偽りのない温かさが浮かんでいる。


「でも、私が近づくことは」


「慎一郎様は今日、外出しております」


その言葉に、実優は微かな安堵を覚える。それと同時に、その安堵自体に対する後ろめたさも感じていた。椿家での教えが、実優の心を縛り付けているように。



研究所は、予想以上に整然としていた。薬草園に面した大きな窓からは柔らかな光が差し込み、棚には無数の瓶や実験器具が並んでいく。椿家の調剤室とは違い、ここには生命を慈しむような温かな空気が漂う。政府の規制下にある一般の研究所とも異なり、自由な探究の精神に満ちていた。


「この研究所で、様々な新薬の開発が行われているのです」


久遠は、ゆっくりと説明を続ける。その口調には、宮内省での経験が培った確かな読みが込められていく。


「当主様は、自身の力を活かし、薬の効果を直接確かめることができる。それは、時として大きな痛みを伴うものですが...」


実優は黙って聞いていた。慎一郎の力は、触れた者を病に陥れる。しかしその力を、人々を救うために使っている。それは実優には考えもしなかった発想だ。椿家では、実優の力は「無価値な厄災」以外の何物でもなかったのだから。


「実優様の視点で、何か気付かれることがあるかもしれません」


久遠の言葉は、まるで大志の存在を否定するかのように、実優の価値を認めていく。政府の規制が厳しい中、鷹見家の研究所は能力者との共生を目指す稀有な場所なのだ。


その時、春樹が慌てて研究所に駆け込んでくる。


「久遠様! 大変です!」


春樹の声が、研究所に響き渡る。


「慎一郎様が、倒れられました」


実優の体が、瞬間的に凍りつく。椿家での記憶が、一気に蘇る。実優の存在が、また誰かを傷つけてしまったのか。


「どちらで?」


「表門を出てすぐの場所です。新薬の実験の影響か、突然体調を」


久遠の表情が一変する。しかし、それは実優を責めるような表情ではない。


「実優様、申し訳ありませんが」


「はい。私はこれで」


実優は即座に研究所を後にする。背後で、久遠と春樹が慌ただしく動き回る気配がする。大志の冷たい視線を思い出していく。兄は常々、実優の存在そのものが「不幸を招く」と言っていたのだ。


部屋に戻った実優は、静かに手鏡を取り出す。鏡に映る自分の表情には、見慣れぬ感情が浮かんでいく。慎一郎への心配。それは、椿家では決して持つことを許されなかった感情なのだ。


窓の外では、薬草園の花々が風に揺れる。その光景を見つめながら、実優は気付く。月の満ち欠けと薬効の関係。最近の新月が、慎一郎の体調に影響を与えているのではないか。


しかし、その発見を誰かに伝えることなど、実優にはできない。椿家での教えが、実優の口を固く閉ざす。大志は、実優が自分の考えを口にすることを、決して許さなかったのだから。


夕暮れ時、実優は研究所の窓から漏れる明かりを見つめていく。そこでは、慎一郎の命を救うために、必死の努力が続けられているはずだ。実優には、その場に居る資格すらない。それが、椿家で叩き込まれた教えなのだから。


そして、その教えは正しいのかもしれない。実優の存在が、また新たな不幸を引き起こしてしまったのだから。大志の言葉が、実優の心に深く刺さる。「お前は、ただ存在するだけで周囲を不幸にする」


手鏡に映る夕陽が、実優の決意を赤く染めていく。もう二度と、誰かを傷つけないように。それは、実優に課せられた永遠の宿命なのかもしれない。しかし、その決意の奥底で、かすかな希望の光が揺らめいている。月の満ち欠けと薬効の関係―その発見が、いつか誰かの役に立つ日が来るのだろうか。

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