第28話「証明の方法」
研究所の窓から差し込む朝日が、積み重ねられた被害報告書の山を照らしていた。一枚一枚の紙面には、薬害に苦しむ人々の声が記されている。実優は静かにその報告書に目を落とし、心を痛めていた。家族の起こした過ちが、これほどまでに多くの人々を苦しめているという事実に、深い責任を感じずにはいられなかった。
「本日朝刊への一面広告の掲載が完了いたしました」
久遠の声が、重い空気を切り裂くように響く。彼の表情には、普段の温厚さは見られず、深刻な緊張感が漂っていた。
「現時点で報告のあった全ての病院に対し、治療費の全額負担を申し入れております。医師会や帝国大学医学部とも連絡を取り、情報共有の体制を整えました」
一呼吸置いて、久遠は続ける。
「もちろん、これら全ての対応について、椿家当主の許可は得ております」
その報告に、慎一郎はゆっくりと目を向けた。その視線には、普段の研究への没頭とは異なる、重い決意が宿っていた。
「椿家からの具体的な動きは?」
「申し訳ありません。まだ...」
久遠の言葉が途切れる。研究所の空気が、一層重くなる。窓の外からは、絶え間なく非難の声が聞こえてきていた。実優は、その一つ一つの言葉が胸に突き刺さるのを感じていた。
「快復例は出ているか?」
慎一郎の声には、これまでにない切迫感が混ざっていた。
「ございません」
久遠の返答に、研究所の空気が凍り付く。その瞬間、慎一郎が決意を固めたように立ち上がった。
「私の身体を使おう」
その言葉に、実優の心臓が大きく跳ねた。春樹が血の気を失った表情で飛び出す。
「それは危険すぎます!」
春樹の声が震えていた。
「まだ安全性の確認もできていない薬です。直接体内に取り込むなど...」
「被害者が出ているんだぞ」
慎一郎の一喝が、研究所に響き渡る。春樹の言葉が止まる。実優は、その緊迫した空気の中で、ふと気になることがあった。これまで慎一郎は、どのように実験を行っていたのだろうか。
「春樹様」
実優は、静かに声を上げた。
「慎一郎様は、普段どのように実験を...」
その問いに、春樹は研究者としての表情を取り戻す。彼は、これまでの経緯を丁寧に説明し始めた。
「慎一郎様の能力には、二つの特徴があります。一つは、他者に触れることで病に陥れる力。もう一つは、自身の体内に取り込んだ毒を活性化させる力です」
春樹は一呼吸置いて、さらに詳しく続ける。
「この二つ目の能力により、新薬の効果を直接確認することができるのです。通常の実験では何日もかかる過程を、短時間で検証できる...」
その説明を聞きながら、実優の中で何かが閃いた。これまでの研究で培った直感が、重要な可能性を示唆していた。集中のあまり、実優は思わずその考えを口に出していた。
「それは...二つの能力ではなく、一つなのではありませんか?」
春樹の目が大きく見開かれる。研究所の空気が、一瞬静止したかのようだった。
「どういうことでしょう?」
その問いに、実優は自分の経験と照らし合わせながら、慎重に言葉を選ぶ。これまで誰も気付かなかった可能性を説明するには、細心の注意が必要だった。
「私の場合、花言葉を逆転させる力は、本来一つの能力なのです。それが様々な形で現れるだけで...」
その言葉を受けて、春樹が即座に考察を始める。彼の目には、研究者としての鋭い光が宿っていた。
「確かに...慎一郎様の能力も、体内での変化を早めるという一つの能力として考えれば...」
その推論に、慎一郎も深い関心を示した。彼は、自身の経験を振り返りながら、その可能性を検討し始める。
「なるほど。だから傷の治りも早いし、薬の効きも良い。そのおかげで、危険な実験も可能だった」
実優は、自分の推測が的を射ているという確信を、徐々に強めていった。この発見は、新たな治療法への道を開くかもしれない。
「試してみましょう」
春樹が、即座に実験の準備を始める。彼は、毒性のある植物から抽出したエキスを取り出した。
「これは通常、解毒に数時間を要する物質です」
説明を終えると同時に、慎一郎はためらうことなくそれを飲み干した。実優は思わず息を呑む。しかし数分後、慎一郎の体には何の異常も見られない。解毒が瞬時に進んでいたのだ。
その結果に、春樹の目が輝きを増す。そして、誰も予想しない行動に出た。
「失礼します」
突然、彼は同じ毒を飲み干したのだ。実優が慌てて止めようとした時には、既に遅かった。
「春樹様!」
実優の悲鳴のような声が響く。しかし春樹は冷静さを保ったまま、解毒剤を飲んだ後、慎一郎に触れた。
全員が息を詰めて見守る中、驚くべき結果が示された。彼の体も、数分で正常な状態に戻ったのだ。
「これで証明できました」
春樹の声には、確かな手応えが込められていた。
「慎一郎様の能力は、体内での変化を加速させる...つまり時間を操作する性質を持っているのです」
その発見に、実優は新たな可能性を見出していた。彼女は、未成熟の植物と成熟した植物のサンプルを見比べ始める。両者から聞こえてくる声の違いに、注意深く耳を傾けた。
「成熟した時にできる種子に...何か抑制作用があるように感じます」
その言葉を受けて、春樹が即座にデータを確認する。
「確かに...成熟した植物では、この有害成分の濃度が大幅に低下しています」
慎一郎は、その情報を聞くなり実験台に向かった。新たな可能性を確かめるための準備を始める。
「どの程度の分量が効果的か、確かめてみよう」
彼は、自身の体を使って様々な配合を試し始めた。実優は、その様子を心配そうに見守りながら、必死で植物の声に耳を傾けていた。
窓の外からは、相変わらず罵声が聞こえてくる。
「毒を作りやがって!」
「鬼め!」
「人を殺す気か!」
しかし研究所の中では、そんな声に臆することなく、必死の実験が続けられていた。実優は、植物の声に導かれるように、一つずつ確実な歩みを進めていく。
その時、春樹が新しいデータを手に、興奮した様子で駆け寄ってきた。その表情には、これまでにない発見の喜びが浮かんでいた。
「実優様!こちらの成分分析の結果が...」
春樹の手には、最新の分析結果が握られていた。実優は、その数値を食い入るように見つめる。そこには、成熟した植物の種子に含まれる成分の詳細な分析値が記されていた。いくつもの数字の羅列の中に、決定的な証拠が隠されているはずだ。
「この数値...」
実優の声が、小さく震える。植物から聞こえる声と、目の前のデータが、完全に一致していた。これまで漠然と感じていた可能性が、科学的な裏付けを得た瞬間だった。
「種子に含まれる成分が、未熟な植物の有害物質を確実に抑制していることが証明されました」
春樹の説明に、研究所の空気が一瞬張り詰める。長時間の実験を重ねてきた慎一郎も、その声に反応して近づいてきた。彼の顔には深い疲労の色が濃く、何度もの実験の痕跡が残されている。それでも、その目は研究者としての鋭さを失っていなかった。
「効果のある成分を、どの程度含めばいいのか」
慎一郎は、すぐに次の段階を見据えていた。実験台の上には、様々な濃度に調整された種子のエキスが並んでいる。これらを、自らの体で試していくしかない。
「慎一郎様!」
春樹が制止の声を上げる。
「これ以上の実験は危険です。もう十分な負担を...」
しかし慎一郎は、静かに首を振った。窓の外からは、今も非難の声が響いている。
「やるしかないだろう」
その言葉には、揺るぎない決意が込められていた。一つ一つの罵声の向こうには、確かな苦しみがある。その事実から、目を背けるわけにはいかない。
実優は、慎一郎の決意を静かに見つめていた。彼の能力が、自身の体内で起こる変化を加速させるものだと分かった今、この実験の危険性はより明確になっている。それでも、彼は躊躇わない。
「では、準備を」
春樹が、意を決したように動き出す。実験台の上で、種子のエキスが様々な濃度に調整されていく。実優も、植物の声に耳を傾けながら、最適な配合を探り始めた。
「実優様、この配合比は...」
「はい。植物が教えてくれました」
実優の声には、確かな手応えが混ざっている。
「種子からのエキスは、この比率が最も...」
その言葉の途中、慎一郎が不意に体を揺らめかせた。何度もの実験の疲労が、一気に表れたのだ。
「慎一郎様!」
実優が思わず駆け寄ろうとした瞬間、久遠に制止される。互いの能力が、決して触れることを許さない。その事実が、実優の心を深く締め付けた。誰かが苦しんでいるのに、何もできない。その無力感は、実優をより一層苦しめる。
「大丈夫だ」
慎一郎は、ゆっくりと体を起こした。その仕草には、まだ確かな力が宿っている。
「続けよう」
その言葉を合図に、実験が再開された。実優は植物の声を頼りに、春樹は正確なデータを取りながら、慎一郎は次々と種子のエキスを試していく。その過程で、彼の体は確実に疲弊していった。しかし、その目には決して諦めの色は浮かばない。
時が経つにつれ、少しずつ成果が見え始めた。慎一郎の体を通じて確認された種子のエキスは、確実に有害物質を抑制する効果を示し始める。最適な配合が、徐々に明らかになっていった。
「これなら...」
春樹の声が、希望に満ちている。実優も、植物からの確かな手応えを感じ取っていた。治療法確立への道筋が、ようやく見えてきたのだ。
その時、久遠が新たな報告を持ってきた。
「椿家から、栽培記録の詳細が」
実優は、静かにその記録に目を通す。そこには、コスト削減のために栽培期間を短縮した明確な証拠が記されていた。大志の命令により、本来一年以上かかるはずの栽培を、わずか半年に短縮していたのだ。
実優の胸に、複雑な感情が渦巻く。しかし彼女は、その事実を追及することよりも、目の前の治療法の確立を優先した。今は、苦しむ人々を救うことが何より重要だった。
「春樹様、最終的な数値の確認を」
「はい」
春樹は、慎一郎の実験データを丁寧にまとめ始めた。
「種子からのエキスが、確実に有害物質を中和しています。これなら、治療薬として...」
その言葉に、研究所全体が希望に満ちた空気に包まれる。慎一郎は、極度の疲労の中にも確かな手応えを感じているようだった。
「まずは、被害者の方のために確保を」
久遠が、即座に段取りを始める。その手際の良さには、長年の経験が滲んでいた。
実優は、窓の外を見つめていた。夕陽が研究所を赤く染め始めている。まだ非難の声は続いているが、それを上回る大きな希望が見えてきた。植物の声に導かれ、慎一郎の犠牲的な実験に支えられ、そして仲間たちと力を合わせることで、ついに道が開けたのだ。
「実優様」
春樹の声に、実優は振り返る。
「ありがとうございました。実優様の能力がなければ、これほど早く解決策を...」
実優は、静かに首を振った。
「いいえ。みなさんのおかげです」
その言葉には、深い感謝の想いが込められていた。研究所の仲間たち。そして何より、自身の体を顧みずに実験を続けた慎一郎への。彼の犠牲的な行動が、多くの人々の命を救うことになる。その事実に、実優は言葉にできない感情を抱いていた。
窓から差し込む夕陽が、研究所を赤く染めていく。その光の中で、実優は確かな希望を見出していた。この光は、必ず暗闇を照らし出すはずだ。そう信じて疑わない希望を。




