第26話「揺らぐ日常」
秋の深まりを感じさせる朝、実優は研究所の窓辺で新しい薬草の観察を続けていた。近頃はすっかり数字にも慣れ、春樹の実験データを確認することも日課となっていた。白い花と紫の花の間に芽吹いた新種の成長を、几帳面な文字で記録に書き留める。その仕草には、この場所での穏やかな日常が染み付いていた。
鷹見家での研究生活に馴染んできた実優は、次第に自分の役割を見出していた。特に新薬の開発においては、花の性質を観察する目が重宝されていた。ただし、その能力は常に確実な結果をもたらすわけではない。むしろ、詳細な成分分析が必要な場合は、春樹たちの科学的なアプローチに頼らざるを得なかった。
「実優様、本日の観察はいかがでしょうか?」
春樹が、いつものように興味津々な様子で近づいてきた。実優は、少し照れたように微笑んだ。
「はい。この子は日を追うごとに、新しい表情を見せてくれて...でも、まだ詳しい性質までは掴めていません」
「さすが実優様!私たちには気付かないような変化まで、見抜いてしまわれるんですね。成分分析の結果もほぼ一致していますよ」
春樹の純粋な賞賛に、実優は少し赤面する。かつての椿家では決して許されなかった、素直な反応。この場所では、そんな自然な感情表現さえも認められていた。
「春樹君、その植物の成長データをもう一度確認してください」
慎一郎が実験台から声をかけた。その姿には、普段の禍々しさの代わりに、研究者としての真摯な眼差しが宿っていた。
「慎一郎様、椿家との共同開発品の最終確認でしょうか?」
実優の問いかけに、慎一郎は静かに頷いた。鷹見家が開発し、椿家が販売する新薬は、両家の技術を結集した野心作だった。実優は、その事実に複雑な思いを抱きながらも、精一杯の貢献を心がけていた。
その時、久遠が静かに研究所に入ってきた。彼の表情には、いつもの穏やかさが欠けていた。
「実優様、椿家からの緊急報告が...」
その声には、一刻の猶予も許さないような緊迫感が込められていた。久遠の手には、一通の書状。その封筒には、椿家の紋章が刻まれている。
「久遠様...何が?」
実優が心配そうに声をかけると、久遠は静かに首を振った。その仕草に、実優の心が沈んでいく。
「市場に出回っている新薬で、重大な事態が発生しているとの報告です。服用された方々に、深刻な副作用が見られるとのこと」
その言葉に、研究所の空気が一変する。慎一郎が即座に実験台から離れ、久遠の元へ向かった。春樹も、手元の実験器具を置き、緊張した面持ちで報告に聞き入る。
「詳しい状況は?」
慎一郎の声には、強い焦りが混ざっていた。それは、自分たちが開発に関わった薬による被害という事実への、率直な反応だった。
「現時点で、複数の病院から報告が上がっています。症状は個人差が大きく、原因の特定が難しい状況のようです」
久遠の冷静な説明に、実優の顔から血の気が引く。しかし、それは単なる恐れからではなかった。苦しむ人々を前に、自分に何ができるのか。その思いが、実優の心を強く締め付けていた。
「春樹君、直ちに成分分析を開始してください」
慎一郎の指示は的確だった。春樹は即座に準備に取り掛かる。
「実優様にも、観察をお願いできますか?」
その言葉に、実優は静かに頷いた。しかし、心の中では不安が渦巻いている。自分の能力が、このような危機的状況で本当に役立つのか。成分分析だけでは分からない何かを見出せるのか。その迷いを抱えながらも、実優は決意を固めた。
「はい。私にできることを、精一杯...」
窓の外では、薬草園の花々が朝の光を受けて静かに揺れている。その光景は、いつもと変わらないように見える。しかし、研究所の中の空気は、明らかに変化していた。実優は研究記録を強く握りしめる。今は一刻も早く、原因を突き止めなければならない。その想いが、実優の心を強く突き動かしていた。
「では、直ちに分析を開始します」
春樹の声を合図に、研究所全体が動き始めた。それは、まるで一つの有機体のような、見事な連携。慎一郎の的確な指示の下、それぞれが自分の役割を理解し、黙々と作業を進めていく。
*
夕暮れ時の研究所は、いつもの穏やかな空気とは打って変わって、緊迫した雰囲気に包まれていた。実優は顕微鏡越しに、問題の薬から抽出した成分を慎重に観察する。その横では春樹が黙々とデータを記録していた。窓から差し込む夕陽が、二人の真剣な表情を赤く染めていた。
「実優様、新たな症例報告が届きました」
久遠が持ち込んだ報告書の束に、実優の心が痛んだ。一枚一枚のページをめくるたび、そこには苦しむ人々の声が記されている。高熱や激しい痛み、吐き気、めまい。症状は人によって様々だが、共通しているのは想像を超える苦痛だった。
「このままでは...」
実優の声が震える。自分の能力では成分の大まかな性質しか分からず、具体的な問題点を特定するには至っていない。その無力感に歯を噛みしめる。
「実優様、無理なさらないでください」
春樹の優しい声に、実優は首を振った。
「いいえ、もう少し...もっと詳しく見なければ。きっと、私にも見つけられる何かが...」
その強い意志に、春樹は静かに頷く。実優の真摯な姿勢は、研究所の仲間たちの心をも動かしていた。
「椿家からの返答はまだですか?」
慎一郎の声が、研究所に響く。久遠は深いため息と共に答えた。
「申し訳ありません。被害者への補償や薬の回収について、まだ具体的な方針が示されていません」
「そうですか...」
慎一郎の表情が険しくなる。実優は椿家の対応の遅れに心を痛めながらも、目の前の分析に集中しようと努めた。
「春樹様、この成分の経時変化について...」
実優の声が途切れる。顕微鏡で見る成分の様子が、何か不自然に感じられた。しかし、その違和感を言葉で表現するのは難しい。
「はい。確かに通常とは異なる数値を示しています。ただし、原因の特定までには...」
春樹の説明を遮るように、新たな報告が届いた。被害者が六十名を超え、その数は増加の一途を辿っているという。
「これ以上、被害が広がる前に...」
実優の呟きに、慎一郎が静かに近づいてきた。
「実優嬢、私たちにできることをしよう。まず、鷹見家として被害者の救済を最優先に」
その言葉に、久遠も深く頷いた。
「既に各病院との連携を強化し、治療費は全て当家で保証する旨を伝えております」
実優は、目の前の分析結果に再び目を凝らした。椿家の対応を待つ余裕はない。一刻も早く原因を突き止め、治療法を確立しなければ。その思いが、実優の集中力を高めていく。
「春樹様、このデータの相関関係を...」
実優は必死で観察を続けた。自分の能力だけでは限界があることは分かっている。しかし、それでも見出せる何かがあるはずだ。科学的な分析と、実優の観察眼。その両方を組み合わせることで、必ず答えは見つかるはずだった。
夜が更けていく中、研究所の明かりは消えることがなかった。実優は休むことなく観察を続け、春樹は次々と新しい分析を試みる。慎一郎は病院との連絡を取り、久遠は被害者への対応を整理していく。
「実優様、お茶を...」
千代が心配そうに声をかけたが、実優は優しく首を振った。
「ありがとうございます。でも、まだ...もう少しだけ」
その瞳には、強い意志が宿っていた。かつての影としての弱さは影を潜め、代わりに誰かのために頑張ろうとする強さが光っている。それは、実優が鷹見家で少しずつ育んできた、新しい自分の姿だった。
窓の外では、満月が研究所を静かに照らしていた。白い花と紫の花の間で育つ新しい種が、月明かりに照らされて神秘的な輝きを放っている。その光景は、まるで実優たちの努力を見守るかのようだった。




