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第25話 「月明かりの下で」

お茶の時間が過ぎ、久遠が席を外したあとも、実優と慎一郎は研究所に残っていた。満月が空高く昇り、その銀色の光が窓から差し込んでいる。月光が実験器具を淡く照らし、幻想的な光景を作り出していた。二人の間に落ちる影は、なんとも不思議な形を描いていた。


「慎一郎様の実験は、いかがでしょうか」


実優は、そっと尋ねた。声が小さいのは、この静かな時間を壊すことを恐れてのこと。月明かりの中で、慎一郎の横顔が優しく浮かび上がっている。普段の禍々しさは影を潜め、どこか儚げな表情を見せていた。


「ああ、実優嬢の観察のおかげで、新しい方向性が見えてきた」


慎一郎は実験台の方を見やりながら、言葉を続けた。その声には、いつもの研究への執着とは違う、穏やかな響きが混ざっている。


「月の満ち欠けによる変化を考慮に入れることで、より安定した効果が得られるようになった。これは実優嬢の直感がなければ、気付くことすらできなかった発見だ」


その時、窓の外で一陣の風が吹いた。薬草園の花々が、月明かりの中で銀色に揺れる。実優は思わずその光景に目を奪われ、慎一郎もまた、その方向を見つめた。二人の視線が、月光の中で重なる。


「あ...」


実優は小さく息を呑んだ。その仕草があまりに愛らしく、慎一郎は思わず目を逸らした。彼の横顔に、かすかな赤みが差したように見えた。


「花たちが、とても生き生きとしています」


実優は、そっと庭を指差す。その手が月明かりに透けて見える。大志の時代には決して許されなかった、素直な感動の表現。


「昼間とは全く違う声を聞かせてくれて...まるで、夜の精のよう」


その無邪気な表現に、慎一郎の表情が柔らかくなる。実優は気付かないまま、夢中で説明を続けた。


「特にあの白い花は、夜になると不思議な輝きを放つんです。まるで、誰かを待っているかのように」


実優の声が、研究所の闇の中で小さく響く。その声には、かつての影としての硬さは微塵も残っていない。慎一郎は、その声に静かに耳を傾けていた。二人の間の距離は、いつの間にか少しだけ縮まっている。それは互いの力を意識してのことだが、その距離感が却って、二人の間の深い理解を象徴しているようだった。


「実優嬢」


慎一郎の声に、実優は我に返ったように振り返る。その仕草に、髪の毛が月光を受けて煌めいた。その光景に、慎一郎の瞳が僅かに揺れる。


「夜の観察記録を、もう少し見せていただけませんか」


「はい、喜んで」


実優は研究記録を開きながら、少し躊躇うような素振りを見せた。その仕草に、慎一郎は思わず微笑みを浮かべた。実優には見えない角度で。


「ただ...私の文字が読みにくいかもしれません」


「実優嬢の文字は、とても丁寧だ」


その言葉に、実優の耳が少し赤くなる。二人で記録を覗き込む姿は、まるで月明かりの中の絵画のよう。その光景を、窓の外の花々が静かに見守っているかのようだった。


「この観察は...」


実優が説明を始めようとした時、研究所の窓を一際大きな風が揺らした。実優は思わず身を縮める。その瞬間、慎一郎の体が本能的に実優の方へ向く。


「大丈夫ですか」


「は、はい」


二人は、その状況に気付いて慌てて距離を取った。しかし、その間際の一瞬、実優は慎一郎の袖から漂う薬草の香りを感じていた。その香りは、かつて嗅いだことのない、不思議な安らぎを伴うものだった。


「あの...」


実優が何か言おうとした時、廊下に足音が響いた。春樹が、興奮した様子で飛び込んできた。


「慎一郎様!実優様!実験の結果が出ました!」


その声に、二人は我に返ったように顔を上げる。実優の頬は、まだ薄く染まったままだった。


「春樹様、どんな結果が?」


実優の声には、いつもの研究への真摯な響きが戻っている。しかし、その表情にはまだ、先ほどの面影が残っていた。それに気付いた春樹の目が、実優と慎一郎の間を行き来する。


月明かりの中で、三人の研究は静かに続いていく。時折、実優と慎一郎の視線が交差する。その度に、二人は慌てて目を逸らす。けれど、その仕草には温かな理解が滲んでいた。言葉にはできない、しかし確かな絆。


窓の外では、夜風が薬草園を優しく撫でていた。花々は、まるで二人を見守るように、銀色の輝きを放っている。白い花と紫の花、そしてその間に咲く新しい種。それは、これからの日々を予感させるような、不思議な光景だった。


満月の光が、研究所の床に美しい影絵を描き出している。その光の中で、実優の心には小さな、しかし確かな温もりが灯っていた。それは大志の影として生きた時代には決して感じることのなかった、純粋な幸せの予感。そして慎一郎もまた、その静かな変化を見守るように、実優の姿を月明かりの中で見つめていた。


それは、触れることのできない二人だからこそ紡ぎ出せる、特別な時間。月明かりが、その儚くも美しい瞬間を優しく包み込んでいた。

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