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第24話 「帰還の朝に」

秋の深まりを感じさせる朝、実優は研究所の前に立っていた。昨日まで着ていた純白の打掛ではなく、普段着の着物姿。その手には、新しい研究記録が握られている。空気が冷たく、頬を撫でる風にも秋の気配が混ざり始めていた。


窓からは、いつものように実験器具の整然と並ぶ光景が見える。その風景は、実優にとってあまりにも懐かしく、同時に不思議なほど現実味がなかった。まるで、長い長い夢から覚めたかのような感覚。大志の影として生きることを強いられた日々も、政略の道具として扱われた時間も、今となっては遠い悪夢のように思える。


「実優様、おかえりなさい」


千代の声が、背後から優しく響いた。その声には、これまでにない温かみが滲んでいる。まるで、本当の家族を迎えるかのような。


「ただいま...戻りました」


実優の声が、かすかに震えた。まだ、この場所に戻ってきたことが夢のようで。あの日々が本当に終わったのだと、まだ完全には実感できずにいた。


「実優様!」


春樹が研究所から飛び出してきた。その手には、新しい実験データの束。かつての熱心な研究者の表情が、そのまま残されている。まるで、実優がいない時間など存在しなかったかのように。


「この白花の特性について、実優様の仮説が正しかったんです。成分分析の結果が――」


その熱心な様子に、実優は思わず微笑んだ。この場所での日常が、確かに戻ってきている。大志の冷たい視線に怯える必要も、政略の道具として扱われる恐れもない。ここには、実優という一人の人間を認める温かな空気だけが流れている。


「春樹」


久遠の声が、静かに響く。その声音には、父親のような温かみが込められていた。


「実優様も、まだ落ち着かれていないでしょう」


その言葉に、春樹は慌てて頭を下げた。その仕草には、実優への深い敬意が込められている。


「申し訳ありません。つい興奮のあまり」


実優は、その言葉に首を振った。春樹の熱心さは、実優にとって心地よい安心感をもたらすものだった。


「いいえ、私も早く研究に」


その時、庭からかすかな物音が聞こえた。山本夫妻が、薬草園の手入れをしている。その仕草には深い愛情が込められ、まるで大切な家族の帰還を祝うかのような丁寧さがあった。


「おかえりなさい、実優様」


山本老人の声には、普段の厳しさがない。その代わりに、温かな歓迎の色が浮かんでいる。


「お待ちしておりました」


夫人も、温かな笑みを浮かべている。その表情には、実優を本当の孫のように思う気持ちが滲んでいた。


山本夫妻の姿を見ながら、実優は椿家での記憶が遠のいていくのを感じていた。大志の完璧な庭師たちとは違い、ここには生命を慈しむ温かな手付きがある。それは、実優の心を静かに癒していくような優しさ。


「実優様、その前に」


千代が、どこか照れくさそうに言った。その表情には、かつての藤森たちとは正反対の、純粋な気遣いが込められている。


「朝のお茶会の準備が」


その言葉に、実優の目に涙が溢れた。日常のささやかな幸せが、確かな形となって実優を迎えてくれている。温かな場所。


「実優嬢」


慎一郎の声が、静かに響いた。彼は研究所の窓辺に立ち、実優の方を見つめている。その目には、いつもの禍々しさの代わりに、穏やかな光が宿っていた。二人の間には、触れることのできない運命がある。しかし、それは決して不幸な宿命ではない。むしろ、その距離感が二人の間に深い理解をもたらしているのだから。


「お待ちしていました」


その言葉に、実優の心が大きく震えた。もう二度と触れることができないと思っていた日常が、こうして実優を包み込んでくれている。それは、大志の冷たい視線とは正反対の、温かな光。


久遠が、静かにお茶を淹れ始めた。その所作には、いつも以上の丁寧さが感じられる。まるで、大切な家族の帰還を祝うかのように。藤森の機械的な動きとは違い, そこには愛情が込められている。


春樹は実験データを脇に置き、実優の隣に座った。山本夫妻も手を休め、お茶会に加わる。千代は和菓子を取り出し、一つ一つ丁寧に取り分けていく。その一つ一つの動作に、実優への歓迎の気持ちが込められていた。


「実優様」


久遠の声が、柔らかく響く。


「これからは、ゆっくりとお過ごしください。ここが、実優様の本来の場所なのですから」


その言葉に、実優は深く頷いた。涙が止まらない。しかしそれは、もう悲しみの涙ではなかった。確かな幸せが、静かに溢れ出す涙。大志の影として生きることを強いられた日々は、もう二度と戻ってこない。


窓から差し込む朝日が、実優を優しく包み込んでいた。研究記録の新しい頁が、まっさらな白さで実優を待っている。



朝のお茶会が終わり、実優は春樹と共に研究所の窓辺に立っていた。庭では新しい薬草が咲き始めており、その姿を実優は静かに見つめている。触れることはできないが、その分だけ深く、花々の声に耳を傾けていた。大志の時代とは違い、ここでは花を見つめることさえも許されている。それどころか、その観察眼を期待されているのだと、実優は少しずつ理解し始めていた。


「実優様、この白い花について何かお気付きになられましたか?」


春樹の声には、いつもの熱心さが込められている。その真摯な態度は、実優の心を温かくする。大志の完璧な冷たさとは違い、純粋な探究心に満ちた声。


実優は、少し首を傾げながら花を見つめた。その仕草には、どこか愛らしさが感じられる。かつては決して見せることのできなかった、素直な表情。


「この花は...外見は控えめで静かな印象なのに、とても強い意志を持っているように見えます。根元から葉の付き方まで、全てが上を向いていて」


その言葉に、春樹は目を輝かせた。その表情には、実優への深い敬意と、純粋な研究への情熱が混ざっている。


「さすが実優様!この花は最近発見された新種で、通常の薬草とは全く異なる成長の仕方を見せるんです。ところが、月の光を受けると――」


実優は照れたように目を伏せる。しかし、まだ言葉は続く。かつては決して許されなかった、自分の意見を述べる時間。


「でも、不思議なことに夕暮れ時になると、全ての葉が下を向くんです。まるで、昼と夜で正反対の性質を持っているかのように」


その観察に、研究所にいた全員が足を止めた。久遠は穏やかな目で実優を見つめ、千代は誇らしげな表情を浮かべている。


「実優様は本当に素晴らしい方です」


春樹の言葉に、実優の頬が赤く染まる。それは大志の前では決して見せることのできなかった、素直な反応。


「い、いえ、私はただ花の声を聞いているだけで」


「そうではありません」


慎一郎が、静かに近づいてきた。彼の目には、実優への深い理解が宿っている。


「花の声を聞くことができるのは、実優嬢の優しさがあってこそです。その心があるからこそ、本質が見えるのです」


実優は、ますます赤面する。その表情には、かつての影としての硬さは微塵も残っていない。


「私は、ただ...」


「実優様」


久遠が、温かな声で言った。その口調には、父親のような慈愛が滲んでいる。


「その優しい心こそが、実優様の一番の美しさなのです」


山本夫人も、庭仕事の手を止めて頷いた。その目には、実優を孫のように思う深い愛情が浮かんでいる。


「本当におっしゃる通りです。実優様は、花を愛でるだけでなく、その声に耳を傾けてくださる。そんな方は、他にはいらっしゃいません」


実優は、もう顔を上げられないほどに恥ずかしくなっていた。こんなふうに自分自身を褒められることに、まだ慈れていない。大志の冷たい視線しか知らなかった実優にとって、この温かさはまだ新鮮すぎた。


「あの、薬効の検証を」


必死で話題を変えようとする実優に、春樹が新しい実験データを差し出した。その手には興奮が滲んでいる。


「実は、実優様の以前の観察から、新しい発見がありました。この薬草、月の満ち欠けで性質が変わるというお気付きがあったじゃないですか。あれは本当でした。満月に近づくほど、薬効が強まるんです」


実優は、再び窓の外の花々を見つめた。触れることはできないが、その分だけ深く、花々の本質に目を凝らす。大志の完璧な庭とは違い、ここには生命の息吹が満ちている。


「あの紫の花も...今までとは違う様子をしています。根本に何か、力強いものを感じます」


久遠が、静かに頷いた。その表情には、実優への深い理解と期待が浮かんでいる。


「春樹君、あの花の最新の分析結果は?」


「はい!実は昨日、新しい有効成分が確認できまして。実優様の観察通り、月の光を受けることで活性が高まるという特性が」


実優は、皆の会話を聞きながら、静かに研究記録を開いた。新しい頁に、今日の観察を記そうとする手が、かすかに震えている。それは緊張からではなく、この場所での幸せが、まだ夢のように感じられるから。大志の影として生きた日々が、まだ完全には消え去っていない。


「実優様」


千代が、そっと声をかけた。その声には、実優を気遣う優しさが込められている。


「お手が冷えているようですが」


実優は、優しく首を振った。その仕草には、少しずつ芽生え始めた自信が垣間見える。


「いいえ、温かいんです。みなさんの...おかげで」


その言葉に、研究所の空気が柔らかく包み込むように温かくなった。春樹は実験データに目を輝かせ、久遠は穏やかな微笑みを浮かべる。千代の目には、小さな涙が光っているように見えた。


窓から差し込む陽の光が、実優の研究記録を優しく照らしている。新しい頁には、もう幾つもの発見が記されていた。それは大志の影響を受けない、実優だけの発見。触れることはできなくても、この場所で、実優は確かに生きている。それは、一人の研究者として、そして何より一人の人間として。

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