第21話「久遠の外交」
慎一郎が実優の元へ向かう前、式場の大広間では既に重要な会合が始まっていた。久遠こと青嶋久遠は、政財界の重鎮たちを前に静かに頭を下げていた。その仕草には、七十余年の歳月が醸し出す確かな重みがある。温和な老執事の表情の奥に、かつて宮内省で培った冷徹な観察眼が光っていた。
大広間には、内務省次官の加藤、大蔵省参事官の西園寺、そして書記官の山岡ら、この時代の政財界を動かす錚々たる顔ぶれが揃っていた。朝日が差し込む広間で、彼らの紋付袴姿が厳かな印象を醸し出している。
「本日は、皆様のお時間を頂戴し、誠にありがとうございます」
久遠の声は、穏やかでありながら、どこか強い意志を秘めていた。
「まさか青嶋殿、このような場でお目にかかるとは」
加藤の声には苛立ちが滲んでいたが、久遠への一定の警戒も感じられた。彼は宮中との繋がりが深い人物で、式部寮—宮中の儀式や行事を取り仕切る部署—の重鎮たちとも親交があることで知られている。
「御年始の儀での配置について、先日は大変お世話になりました。森殿も、たいそう喜んでおられました」
久遠の言葉に、加藤の表情が微かに変化する。式部寮現役最高位の森は、宮中の人事に大きな影響力を持つ人物だった。久遠がまだそうした人脈を保持していることを、加藤は察したようだった。
「西園寺殿」
久遠は大蔵省の参事官に向き直った。財政の実務を担う重要人物である。その仕草には、かつて宮内省で培った確かな駆け引きの技が滲んでいた。
「来月の皇族御成りの件、準備は順調でしょうか。森殿からも、ご相談を承っております」
その一言で、西園寺の態度が一変する。その催事の采配は、実は彼の立場を大きく左右する案件だったのだ。久遠は相手の急所を確実に突いていた。
「ええ、まあ」
西園寺は言葉を濁した。久遠が、まだ宮中の人事に深く関わっていることを察したのだ。その様子を見て取った久遠の目が、一瞬だけ鋭く光る。
「さて、本日の件ですが」
久遠はゆっくりと資料を広げた。朝日が差し込む大広間で、インクの輝きが鮮やかに浮かび上がる。その所作には無駄が無く、長年の経験が滲み出ていた。
「我が家の新薬、特に漢方薬の製造技術に関して、椿家様と協力させていただきたく」
西園寺が身を乗り出した。
「漢方薬と申されますと」
「はい。来月の皇族御成りでも話題となっております、あの薬でございます」
久遠の言葉に、一同の表情が変わる。かつての宮内省での経験を活かした、絶妙なタイミングでの切り出しだった。
「朝廷お抱えの医師からも、高い評価を」
西園寺の声には、期待が滲んでいた。
「その製造技術を、椿家にお譲りする。そういうことですか」
「はい。ただし、それだけではございません」
久遠は、ゆっくりと話を進めた。その口調には、七十年の月日が培った確かな読みが込められていた。
「先日の観桜会でも話題となりましたが」
さりげなく皇族との関係性を匂わせる。久遠の駆け引きは、まるで精緻な機械仕掛けのように正確だった。
「宮中での立場を考えますと、婚約破棄などという騒動は、椿家様にとっても、我が鷹見家にとっても、決して好ましいものではございません」
加藤が咳払いをする。
「では青嶋殿、単なる婚約続行というご提案なのですか」
「いいえ。それでは皆様のお時間を頂戴する価値もございません」
久遠は懐から一通の書状を取り出した。その動作には、宮内省で培った厳かな作法が自然と滲んでいた。
「来月の皇族御成りにて、我が家の漢方薬が御覧に入れられる運びとなっております。その際、椿家様との共同開発という形で」
西園寺の目が光る。宮中への納入権は、単なる利益以上の価値を持つ。それは、確実な社会的地位の証となるのだ。久遠は、相手の欲望を確実に掴んでいた。
「さらに申し上げれば」
久遠は、もう一枚の書類を広げた。その一挙手一投足には、無駄のない品格が漂っていた。
「大陸市場での独占販売権も、椿家様にお譲りいたします」
山岡が冷静な声を上げる。
「しかし青嶋殿、これほどの譲歩をする理由は?どこかに、我々の見えない罠があるのではないでしょうか」
久遠は静かに目を閉じた。予想していた質問だった。
「皆様、我が家の当主をご存知でしょうか」
その言葉に、重鎮たちの表情が引き締まる。触れる者が病に伏すという噂の慎一郎。しかし、その力を新薬開発に捧げている事実。久遠は、相手の反応を確実に読み取っていた。
「人を救う薬が、政略の道具にされてはならない。それが当主の想いです。そして、その技術を確実に継承できる相手を探していた時、私どもが選んだのが椿家でした」
久遠の言葉には、深い確信が宿っていた。それは演技ではなく、真摯な想いだった。
その時、式場の扉が開かれ、椿家の当主—実優の父親が姿を現した。その表情には、怒りと困惑が入り混じっている。久遠は、その登場のタイミングさえも計算していたかのようだった。
「これはどういうことか。式の最中に、まさか宮中からの使者が」
青嶋久遠は、ゆっくりと椿家当主の方を向いた。
「椿殿、より良い選択肢がございます」
西園寺が、式部寮からの内意書を差し出す。その文書の重みを、久遠は誰よりも理解していた。かつて宮内省で培った経験が、この一枚の紙の持つ価値を教えている。椿家当主の目が、その文面に釘付けになる。
「これは、森殿の印璽が。しかも、十年の継続契約」
加藤が静かに説明を加える。その声には、久遠への一定の敬意が混ざっていた。
「さらに、大陸市場での権益も。これは椿家の歴史に、新たな一頁を刻むことになるでしょう」
打算的な光が、椿家当主の目に宿る。久遠は、その変化を見逃さなかった。この男にとって、実優は所詮、政略の駒に過ぎない。だからこそ、より大きな利益を示せば——。老執事の読みは、完璧だった。
「椿殿、じっくりとお考えください」
西園寺の声が、決定的な一撃となる。久遠は、その言葉を待っていたかのように、わずかに頷く。
「宮中への納入権。これは単なる利益以上の価値があります。代々、椿家が築いてこられた薬の伝統が、ついに朝廷に認められる。これは、ご先祖様方の悲願ではなかったのですか」
当主の表情から、迷いが消えていく。その代わりに浮かぶのは、露骨な打算の色。久遠は静かに頷いた。実優を道具としか見ない父親の本質は変わらない。しかし、それでよかった。より大きな利益を前に、確実に方向を変えたのだから。
「具体的な数字を示していただけますか」
西園寺の声には、打算的な期待が滲んでいた。久遠は一枚の計算書を差し出した。その文面には、宮内省での経験を活かした緻密な数字が並んでいた。朝日に照らされた紙面には、几帳面な文字で詳細な収支が記されている。
「現在の椿家の年商と比較して、約三倍の利益が見込めます。さらに大陸市場が動き出せば、五年後には現在の五倍以上の規模に」
その数字に、重鎮たちが息を呑む。しかし山岡だけは、冷静な分析の目を向けていた。久遠は、その反応も予測済みだった。
「この数字には、具体的な裏付けがあるのでしょうか。単なる期待値では」
「ご安心ください」
久遠は新たな書類を広げた。そこには式部寮からの正式な裏書が記されている。全ては、完璧に用意されていた。
「朝廷お抱えの医師からの評価書、そして大陸の商社からの具体的な発注予定数。すべて、確実な数字に基づいております」
加藤が静かに頷く。久遠の周到な準備に、感心の色を隠せない様子だった。
「となれば、この一件は椿家にとってむしろ追い風となる。より大きな利益を選んだという形で、世間体も整いますな」
西園寺も同意を示す。
「確かに。突然の婚約破棄も、より良い選択をしたという評価に変わる。むしろ、椿家の先見の明として称賛されることになるでしょう」
久遠は、その言葉を聞きながら実優の父を観察していた。その目には、もはや打算的な光しか残っていない。実優のことなど、完全に計算の外なのだろう。
「しかし、一つ確認を」
山岡が、再び冷静な声を上げる。
「このような破格の条件を提示する裏には、何か別の意図があるのではないですか。鷹見家として、これほどの譲歩をする本当の理由は」
久遠は、この質問を待っていた。ゆっくりと立ち上がり、窓際へと歩み寄る。朝日が彼の白髪を優しく照らしている。
「私どもの漢方薬には、確かな効果があります。しかし同時に、大きな課題も抱えております。それは、製造過程における職人の経験と勘への過度な依存です」
重鎮たちの表情が、理解の色を帯びていく。
「このままでは、大規模な生産は望めません。椿家の持つ生産技術と結びつかなければ、宮中への安定供給すら危うい」
西園寺が口を開く。
「しかし、それは単なる技術提携でも」
「いいえ」
久遠は静かに首を振った。
「技術は人から人へ。特に、我が家の薬草栽培には、代々受け継がれてきた繊細な技があります。それを確実に伝えるには、婚姻による完全な家の結びつきが必要不可欠なのです」
加藤が理解を示すように頷く。
「なるほど。両家の技術が融合してこそ、真の価値が生まれる」
実優の父は、その説明を貪るように聞いていた。その目には、さらなる利益を計算する色が浮かんでいる。
「では、具体的な手順を」
西園寺が新たな書類を広げようとした時、山岡が静かに手を上げた。その様子に、久遠はわずかに目を細める。最後の関門が来たようだった。
「もう一点、確認させてください」
山岡の声には、鋭い観察眼が感じられた。久遠は、この質問にも準備があった。
「これほどの話がある。なぜ今まで、椿家はこれを」
久遠は、その問いを待っていたかのように、穏やかに微笑んだ。
「これまでの婚約破棄、椿家からの一方的な通告でした。正当な理由も示されず、突如として」
山岡が眉を寄せる。
「それは、社交界の作法として」
「ええ。本来であれば、我が鷹見家にも相応の対抗手段を取る権利がございました」
その言葉に、一同が息を呑む。久遠の説明には、宮内省で培った外交的な技術が滲んでいた。
「しかし、あえてその権利を行使せず、むしろより大きな協力関係を提案する。これは椿家の面子を完全に保ったまま、より良い未来を築く機会となるはずです」
久遠の言葉に、実優の父は明らかに心を動かされていた。打算的な計算が、その表情に浮かんでいる。久遠は、相手の心理を完璧に読み切っていた。この男にとって、実優は所詮、政略の駒に過ぎない。だからこそ、より大きな利益を示せば——。
「椿殿、お考えください」
西園寺は新たな書類を広げながら、整然とした声で説明を始めた。その一つ一つの言葉が、実優の父の心を動かしていく。
「まず本日の来賓の方々には、大陸市場という大きな利益を選択した結果として、先方から婚姻を辞退されたという説明。椿家としては、その判断を受け入れざるを得なかった、という筋書きです」
加藤が補足する。その声には、長年の経験に裏打ちされた説得力を持っていた。。
「そして来月の皇族御成りまでの間に、鷹見家との技術提携の詳細を詰めていく。製薬所の規模拡大、製造工程の統合、人員配置、資金計画まで。すべて具体的な数字と共に」
山岡が冷静な視点で分析を加える。久遠の計画の綿密さに、一定の評価を示すような口調だった。
「初期投資は確かに大きくなります。しかし、計算上では投資回収までの期間はわずか半年。その後は、年間で現在の三倍以上の純利益が見込めます」
実優の父の目が、獲物を追う猟犬のように輝いていた。久遠は、その反応を冷静に観察していた。
「しかも、これは確実な数字です」
加藤が、式部寮からの裏書を示しながら説明を続ける。周到な準備が、一つずつ実を結んでいく。
「単なる期待値ではなく、宮中からの正式な発注予定数に基づいております。さらに大陸市場での権益を加えれば」
「これほどの話を、断る理由などございませんな」
西園寺の言葉には、決定的な重みがあった。朝日はすでに高度を増し、大広間を明るく照らしている。床に広げられた書類の影が、まるで利権の形を示すかのように揺れていた。
久遠は、実優の父の様子を静かに観察していた。表面的には穏やかな老執事の態度を保ちながら、その目は鋭く情勢を読み取っている。
「では、最終的な確認を」
加藤の声が、張り詰めた空気の中に響く。久遠は、最後の一手を打つ時が来たことを悟った。
「本日の婚姻は白紙に戻し、来月の皇族御成りでは鷹見家との婚約を発表。同時に宮中への納入も決定という運びに」
実優の父は、もはや娘の存在など眼中にないかのように、打算的な満足感を滲ませながら頷いていた。その様子を見て取った久遠の目に、一瞬だけ鋭い光が宿る。
「これで、全ての体面が保たれる。むしろ、椿家の先見の明として称賛される話となりましょう」
西園寺の言葉で、交渉は実質的な決着を迎えた。久遠は静かに目を閉じる。これで実優を、あの場所に、あの日常に取り戻す土台は成った。長年の経験と人脈を総動員した作戦は、完璧な成功を収めたのだ。




