第20話「君在りし日々」
結婚式当日の朝、慎一郎は珍しく正装していた。いつもの研究着ではなく、黒い紋付袴に身を包み、髪も整えられている。その姿は、普段の禍々しい雰囲気を纏った研究者とは別人のように凛々しく見えた。窓の外では、朝露に濡れた薬草園が静かに光を放っている。
「慎一郎様、全ての準備は整いました」
久遠の声に、慎一郎は静かに頷いた。その表情には、いつもの研究への没頭とは異なる、強い意志が宿っていた。
「政財界への根回しの進捗は」
「はい。既に式部寮の重鎮たちにも、私どもの意図は十分にご理解いただいております」
久遠の声には、普段の穏やかさの下に強い決意が滲んでいた。七十年の歳月が培った確かな読みと、宮内省での経験が、その瞳の奥で静かに輝いている。
「春樹、医学界はどうだ」
「はい。実優様の観察眼がもたらした発見について、具体的な数値と共に、各大学の教授陣に説明を済ませました。椿家の新たな取引先となる製薬会社にも、既に接触を」
春樹の説明に、慎一郎は満足げに頷いた。三方向からの包囲網が、着実に形を成していく。政界、財界、そして学界。それぞれが互いを補完し合い、より強固な盾となって実優を守る。その構図を、慎一郎は冷静に見据えていた。
「では、私は式場へ」
慎一郎の声が、研究所に響く。その声音には、普段の研究への執着とは異なる、揺るぎない意志が込められていた。
「慎一郎様、どうかお気を付けて」
久遠の声には、深い懸念が滲んでいた。しかし、それは臆病さからではない。慎一郎の決意の強さを、誰よりも理解しているからこその心配だった。
慎一郎は無言で頷くと、研究所を後にした。その背中には、いつもの禍々しさの代わりに、厳かな威厳が漂っていた。式場への道のりは、慎一郎にとって一刻一刻が重要な意味を持つ。なぜなら、式場での潜入経路を綿密に調査し尽くしていたからだ。
裏門から忍び込んだ慎一郎は、まっすぐに実優の待機する部屋へと向かった。式場の見取り図は、既に完璧に頭に叩き込んでいる。それは単なる暗記ではない。実優を守るための、必要不可欠な知識だった。
廊下を進むうち、慎一郎の耳に着付けの音が聞こえてきた。その音が漏れる部屋こそが、実優の待機室に違いない。窓から差し込む朝日が、廊下に長い影を作っている。その光の中で、慎一郎は静かに歩を進めた。
「実優様、お支度はもうすぐでございます」
女中の声が、障子越しに聞こえてきた。慎一郎は、その声を確認するように一瞬立ち止まる。しかし、それは躊躇いからではない。最適な時機を見極めるための、冷静な判断だった。
しばらくして、部屋の中が静かになる。慎一郎は、そっと障子を開けた。そこには、窓辺に立つ実優の姿があった。純白の打掛姿は美しく、しかし何かが決定的に欠けているように見えた。それは魂の輝き。研究所で見せていた、あの生き生きとした表情が、完全に失われていた。
「実優嬢」
慎一郎の声は、いつもの研究の場での声とは違っていた。それは、ただの当主としての威厳だけではない、深い意志に裏打ちされた声だった。
実優が振り返った時、その目には深い諦めの色が浮かんでいた。しかし同時に、何か切実な願いも。その複雑な感情の交錯を、慎一郎は冷静に見つめていた。
「慎一郎様。どうしてこのような場所へ」
実優の声は震えていた。まるで、自分の心の奥底に閉じ込めていた想いが、今にも溢れ出してしまいそうなように。
慎一郎は、実優の目をまっすぐに見つめた。その眼差しには、普段の研究への執着とは異なる、強い意志が宿っていた。それは、一つの命を守るための、揺るぎない決意。
二人の間に、朝日が差し込む。その光が、まるで新しい道を照らすかのように、二人の間に静かな希望を灯していた。
しかし、その光もまた、実優の決意の強さを浮き彫りにしているかのようだった。道具として生きることを選んだ者の、揺るぎない覚悟が。
その時、遠くから鐘の音が響いてきた。式の始まりを告げる音が、この静かな対峙の時間に、新たな意味を付け加えていく。
慎一郎は、実優の決意の強さを見抜いていた。しかし、その強さこそが、実優を救う鍵になるとも確信していた。なぜなら、その決意は他者を想う気持ちから生まれたものだから。
朝日は更に高度を増し、二人の影を床に長く伸ばしていた。その光の中で、新たな物語が、静かに、しかし確実に動き始めようとしていた。
*
朝日が昇り始めた式場の一室で、実優と慎一郎は向かい合っていた。純白の打掛に身を包んだ実優の指が、小さく震えている。その仕草には、必死に抑え込もうとする感情が滲んでいた。
「慎一郎様。私にはもう、そのような...」
実優の言葉は途切れた。慎一郎が黙って窓際に立ち、研究所の方角を見つめていたからだ。その横顔には、普段見せない深い疲れが滲んでいた。
「研究所が、静かすぎる」
その一言に、実優の胸が締め付けられた。思わず、問いかけてしまう。
「春樹様は、まだ実験をなさっているのでしょうか」
「ああ。でも、誰かに話しかけては、はっとして振り返る。そこにいるはずの人を探して」
慎一郎の言葉に、実優の心が揺れる。それでも、必死に感情を押し殺そうとする。
「山本おばあ様は、どうなさっていますか」
「薬草園の手入れを、いつも以上に丁寧にしている。誰かの目が、あの場所を見ているかのように」
実優は、唇を噛んだ。震える声を抑えきれない。
「千代さんは...」
「毎朝、二人分のお茶を淹れる。気付くと、また一からお茶を入れ直している」
その言葉の一つ一つが、実優の心を深く突き刺す。それでも、最後の問いを。
「久遠様は?」
「研究記録を開いては、余白を見つめている。そこに、誰かの文字が続くのを待つように。手紙にもしたためたが、朝のお茶会で、実優嬢が見せる笑顔は、私たちの一日の始まりとなった」
その言葉に、実優の体が大きく震えた。手紙。その一言が、実優の心を激しく揺さぶる。思わず声が漏れる。
「手...紙、でしょうか。私、あの六文字しか...。大切な言葉を...どうか、その言葉を教えていただけないでしょうか」
実優の声は震えていた。自分を責める気持ちと、知りたい想いが入り混じって。慎一郎は、静かに実優の様子を見つめた。その眼差しには、深い理解と、言葉にできない温かさが滲んでいた。
「君在りし日々、山本夫妻との会話に花が咲き、春樹との実験に真摯な眼差しを向け、久遠との静かな語らいに温かな空気が流れる」
実優の体が、小刻みに震える。
「そんな君在りし日々は、私たちの研究所に、確かな光をもたらしてくれた。触れられない花々を、誰よりも深く理解し、その想いを丁寧な文字に記してくれた」
頬を、大粒の涙が伝う。慎一郎は、実優が涙を流すたびに、その言葉の間隔をゆっくりと空けていく。
「実優嬢の観察眼は、深い愛情から生まれる宝物なのだと、私たちは気付いた」
その言葉を最後に、実優は声を押し殺して泣いていた。慎一郎は、そっと懐から一枚の写真を取り出した。それは研究所での朝のお茶会の様子を写したもの。春樹が興奮気味に実験の説明をしている姿が写っていた。
「これは、先月の新薬の試験の日です。春樹が、珍しく緊張していて」
「はい。でも、山本おばあ様が、薬草のお話をしてくださって。皆の緊張が、少しずつ解けていって」
実優の涙に濡れた声が、懐かしさを帯びる。
「千代さんが、いつもより熱めのお茶を淹れてくださって」
「ええ。久遠が、それを少し心配そうに見ていましたね」
二人の会話が、自然と続いていく。それは、まるで研究所での日常が、この場所に蘇ってきたかのよう。
「二つの選択肢があります」
やがて慎一郎の声が、静かに響く。
「このまま式を続けるか」
言葉を継ぐ代わりに、慎一郎は写真を窓辺に置いた。朝日に照らされた写真が、あの日の温かな空気を鮮やかに伝えている。
実優は、その光景に目を奪われていた。研究所での日々が、走馬灯のように心に蘇る。薬草園での観察。丁寧な記録。皆との何気ない会話。そして何より、一人の人間として認められていた時間。
「相手にも、迷惑は掛かりません。全て手配済みです。後は、実優嬢の意思だけです」
実優の頑なな心が、少しずつ崩れていく。必死で築き上げた壁が、自分では止められないほどに溶けていく。震える声で、小さく問いかける。
「本当に...誰にも、ご迷惑は」
その言葉が、実優の最後の抵抗だった。それは自分を守るための鎧であり、同時に誰かを傷つけまいとする優しさでもあった。しかし、その鎧は今、音を立てて崩れ落ちようとしている。
実優は、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って頷いた。その仕草に、慎一郎の表情が柔らかく解けた。
窓から差し込む朝日が、二人を優しく包み込んでいた。その光の中で、実優の心から最後の氷が溶けていく。それは、誰かのための強がりではなく、確かな選択への第一歩。そして、その一歩は、新たな希望への扉を開くものだった。




