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第2話「鬼の館」

梅雨が明けた朝、実優は結婚相手となる鷹見家の当主を初めて目にした。大正十一年の夏、まだ世間では能力者に対する理解が深まっていない時代。花言葉を反転させる実優の力は、多くの人々から畏怖の目で見られていた。


鷹見邸は、その異様な佇まいで知られていた。薄暗い松林の奥に建つ洋館は、まるで西洋の童話から抜け出してきたかのよう。しかし、その周囲を取り囲む薬草園には不思議な生命力が宿っていた。色とりどりの薬草が、月の満ち欠けに合わせて姿を変える様は、この館の持つ神秘的な雰囲気を一層際立たせていた。


名前は鷹見慎一郎。二十代後半とされる男性は、噂に違わぬ禍々しい雰囲気を纏っていた。触れる者を病に陥れるという特異な能力の持ち主。その力ゆえに「鬼の館の主」と呼ばれ、多くの人々が近づくことを恐れていた。


しかし、実優の目に映ったのは、その容姿でもなく、噂でもなかった。慎一郎の傍らに控える老執事の佇まいに、実優は引き込まれていた。青嶋久遠という名の老執事は、まるで慎一郎の影のように静かに、しかし確かな存在感を放っていた。その姿は、かつて実優が夢見た「家族」という言葉を思い起こさせた。


「久遠、実優嬢を案内してやってくれ」


慎一郎の声は低く、響くような音色を持っていた。それは決して命令的ではなく、むしろ遠慮がちとも取れる響きを持っていた。その声には、自身の能力に対する深い自覚と、他者を遠ざけようとする慎重さが滲んでいた。


「かしこまりました」


久遠の返事には、慎一郎への深い敬意と、何か守るような響きがあった。実優は思わず、その声に耳を傾けた。椿家での冷たい空気に慣れていた実優には、その温かみが不思議なほどに感じられた。


実優は廊下を歩きながら、二人の関係性を密かに観察していた。噂の「鬼」と呼ばれる当主と、その影のような老執事。表面的には主従の関係でありながら、そこには何か、より深い繋がりが垣間見えた。実優の家では考えられない、信頼関係とでも呼ぶべきものが。


「こちらが、お嬢様のお部屋となります」


久遠が案内した部屋は、屋敷の中でも陽の良く当たる位置にあった。窓からは薬草園が一望でき、月明かりが差し込むように設計されている。それは椿家での実優の部屋とは、まるで正反対の配慮だった。


障子を開けると、美しい庭園が広がっている。色とりどりの薬草が、整然と植えられていた。中でも目を引くのは、白い花と紫の花。それらは月の満ち欠けに応じて、不思議な輝きを放っているようだった。


「お庭には、薬用の植物が多く植えられております」


久遠の言葉に、実優は思わず足を止めた。この時代、能力者の研究は政府によって厳しく制限されていた。しかし鷹見家は、慎一郎の能力を新薬開発に活かすという、異例の許可を得ていたのだ。


「実は、当主様は新薬の研究に心血を注いでおられまして」


その説明に続く言葉は、実優の耳には届いていなかった。自身の能力を、人々のために使おうとする慎一郎の姿勢に、実優は強く心を揺さぶられていた。それは、実優自身の力の可能性をも示唆するものだった。


「実優様?」


久遠の声に、実優は我に返った。


「申し訳ありません」


「いいえ。お疲れでしょう」


久遠の優しい言葉に、実優は一瞬、戸惑いを覚えた。椿家では、そのような言葉をかけられることは決してなかった。藤森を筆頭に、使用人たちですら実優を蔑む言葉しか投げかけなかった。


部屋に一人残された実優は、持参した手鏡を取り出した。鏡に映る自分は、相変わらず生気のない表情をしている。それは兄の完璧さを引き立てるための、影のような存在としての自覚が刻んだ表情。しかし、この館での不思議な空気が、その硬い表情を少しずつ溶かしていくようだった。


窓の外では、月明かりに照らされた薬草が静かに揺れていた。その中でも、白い花と紫の花は特別な輝きを放っている。実優は、その光景に不思議な親近感を覚えた。それは、自分の力と同じように、月の影響を受ける存在だったからかもしれない。


「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」


若い女中頭の篠田千代が、静かに部屋に入ってきた。その手つきには無駄がなく、凛とした雰囲気を漂わせている。しかし、その目には実優を気遣うような優しさが宿っていた。


「ありがとう」


「失礼ながら、一つご説明を」


千代の声は、どこか緊張を含んでいた。


「当主様のお部屋には、決して近づかないようお願いいたします」


その言葉に、実優は僅かに目を伏せた。触れることのできない二人。それは、運命的な巡り合わせのようにも思えた。


夜が更けても、実優は眠れずにいた。


「お嬢様、まだお目覚めでしたか」


障子の外で、久遠の声がする。


「はい」


「では、よろしければお庭をご案内させていただけませんでしょうか」


実優は一瞬、戸惑った。しかし、この不思議な館で、初めて感じた温かみに導かれるように、静かに立ち上がった。


月明かりの下の庭は、日中とは違う表情を見せていた。薬草園からは、かすかな香りが漂う。白い花と紫の花は、まるで実優の存在を歓迎するかのように、不思議な光を放っていた。


「こちらの白い花は、鎮痛作用のある——」


久遠の説明は、途中で途切れた。実優が無意識に後ずさりしたのを見てのことだろう。しかし、その仕草には以前のような恐れは含まれていなかった。むしろ、この館の持つ神秘的な雰囲気に、心を奪われているかのようだった。


「お嬢様」


久遠の声が、静かに夜空に溶けていく。


「私のような者に、お気遣いは」


実優の言葉に、久遠は深くため息をついた。その目には、実優の過去を見通したような理解が宿っていた。


「この屋敷には、皆それぞれの事情を抱えております」


その言葉に、実優は密かに耳を傾けた。


「当主様もまた、ある事情を抱えておられます」


久遠は月を見上げながら、静かに語り続けた。


「しかし、その力を新薬の開発に活かしておられる。人々を救うために」


実優は黙って聞いていた。それは、椿家では決して聞くことのできなかった言葉だった。大志は常々、実優の力を「無価値な厄災」と呼んでいた。


「つまり、不幸に見える力でも、使い方次第で——」


その時、庭の向こうから物音がした。


「慎一郎様」


久遠の声が、急に緊張を帯びる。


月明かりに照らされた慎一郎の姿が、庭の向こうに浮かび上がった。その手には、何かの薬草が。実優は本能的に身を縮めた。


「久遠、実優嬢を部屋まで」


慎一郎の声には、焦りのような感情が混ざっていた。しかし、その声音には実優を気遣うような温かみも滲んでいた。研究者としての鋭い目は、月下で輝く薬草の変化を観察しているようだった。


「申し訳ありません、お嬢様。こちらへ」


久遠は実優を急いで館内へと案内した。その仕草には、実優を守ろうとする優しさが感じられた。椿家の使用人たちとは、まるで違う温かみ。


廊下を歩きながら、実優は不思議な感覚に襲われた。慎一郎が見せた焦りは、自分から実優を遠ざけようとする行動に見えた。それは、実優自身がしてきたことと、どこか似ていた。しかしそこには、単なる拒絶ではない、何か特別な意味が込められているような気がした。


部屋に戻った実優は、再び手鏡を取り出した。鏡には、月明かりに照らされた自分の困惑した表情が映っている。その横で、窓から差し込む月の光が、不思議な模様を床に描いていた。まるで、白い花と紫の花が織りなす影絵のように。


枕元に、一輪の白い花が置かれていた。先ほど久遠が説明しようとした薬草だろう。その横には、小さな紙片。


「触れずとも、花は心を癒すものです」


久遠の筆跡だった。その文字には、実優の心を理解しようとする優しさが滲んでいた。同時に、この館の持つ不思議な力を示唆するような、深い意味も込められているようだった。


実優は、その花を長い間見つめていた。確かに、触れずとも、その存在は実優の心に何かを語りかけてくる。大志の部屋に飾られていた高価な花とは違う、静かな温もりを。


月明かりの中で、実優はふと気付いた。この花が放つ光は、月の満ち欠けに合わせて変化しているようだった。それは、実優の能力と何か共通するものがあるのかもしれない。


しかし——。


実優は首を振った。信じてはいけない。期待してはいけない。裏切られる前に、自分で希望を断ち切らなければ。椿家での教訓を、実優は身にしみて覚えていた。


それでも、久遠の言葉が心の片隅で繰り返される。

「不幸に見える力でも、使い方次第で——」


その言葉の続きを、実優はまだ知らない。そして、知ろうとしてもいなかった。それは、椿家で学んだ最も重要な教えだった。希望を持つことは、より深い絶望への入り口なのだと。


手鏡に映る月明かりが、静かに実優の決意を照らしていた。しかし、その光は以前のような冷たさを持っていなかった。むしろ、この不思議な館で見つけた何かが、実優の心に小さな温もりを灯していた。それは、まだ名付けることのできない、しかし確かな希望の光だった。


窓の外では、薬草園の花々が月の光を浴びて神秘的な輝きを放っている。白い花と紫の花の間には、誰も気付かない新しい命が芽吹こうとしていた。その光景は、実優の心に深く刻まれることとなる。この館での新しい物語の始まりを予感させるように。

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