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第19話「最後の朝」

結婚式の朝、実優は早くに目を覚ましていた。窓から差し込む朝日が、まるで今日の晴れ着のように眩しい。実優は床に広がる光を見つめながら、破られた布包みの欠片を思い出していた。「君在りし日々」という六文字は、もう二度と一つにはならない。大志の手によって引き裂かれた文字は、実優の心そのものの形を象っているかのようだった。


しかし今朝は、不思議と心が落ち着いていた。昨夜、実優は決意を固めていた。もうこの文字も、手放さなければならない。なぜなら、この想いを持ち続けることは、きっと誰かを傷つけることになるから。それは、単なる自分の弱さへのすがりつきだったのだと、実優は理解していた。自分の力は触れたものを必ず反転させてしまう。この想いもきっと、誰かを不幸にする。その揺るぎない事実の前で、実優は全てを手放すことを選んだのだ。


研究所での記憶が、鮮やかに蘇る。春樹の真摯な研究姿勢。実験データの一つ一つに込められた情熱。薬草を見つめる瞳に宿る純粋な探究心。実優の観察を「素晴らしい」と評してくれた、あの温かな声。久遠の深い慈愛。父親のような眼差しで実優を見守り、時に厳しく、時に優しく導いてくれた日々。千代の細やかな心遣い。毎朝のお茶会で、実優の好みを覚えて用意してくれた和菓子の味。山本夫妻の温かな教え。薬草の特性を丁寧に説明し、実優の観察眼を褒めてくれた優しい言葉。そして何より、慎一郎との静かな理解。言葉を交わさずとも、互いの力の意味を理解し合えた、あの確かな時間。


彼らは今も、実優のことを人として見てくれているに違いない。その想いは、実優の胸を締め付けた。だからこそ、道具として生きることを選ばなければならない。自分の力が及ぼす影響を、もう誰にも及ぼしてはいけない。それは、実優が見出した新しい覚悟だった。胸の奥が引き裂かれそうになる。でも、それでいい。この痛みこそが、実優の選択の証なのだから。


「実優様、お支度の時間でございます」


女中の声に、実優はゆっくりと立ち上がった。その仕草には、これまでにない確かな意志が感じられた。けれど、その背筋の硬さは、実優の心の中の緊張を物語っているかのようでもあった。


その時、廊下に慌ただしい足音が響いた。


「申し訳ございません。鷹見家より」


藤森の声が、実優の心を揺さぶる。しかし、それは布包みへの未練ではなく、別の何かだった。触れてはいけないものに、また触れようとしている自分への戒めのような。


「何を言っている。今日は結婚式の日だ」


父の声が、冷たく響く。その断定的な口調に、実優の肩が小さく震えた。


「はい。しかし、ぜひとも実優様とお話を」


「そのような面会は認めん」


父の声には、決定的な拒絶が込められていた。その強い否定が、逆に実優の心を支えているような気がした。これでいい。これがあるべき姿なのだと。


実優は、その会話を聞きながら、窓辺に立っていた。破られた布包みの記憶が、胸の奥で静かに変容していく。すがりつくべき過去ではなく、前を向くための力となって。その変容の過程が、実優の心を確実に蝕んでいることには、誰も気付いていなかった。


「実優」


母の声が、氷のように冷たく響いた。


「あの家とは、もう関係のないことですわ。あなたの力は、新しい家のための道具として使われるのです」


その言葉の残酷さに、実優の心が震える。しかし、それは正しいのだと自分に言い聞かせる。実優の力は、触れるものを反転させてしまう。だから、誰かを想う気持ちさえも、きっと不幸な結末をもたらすのだから。実優は唇を噛んで、その痛みで揺らぐ心を押さえ込もうとした。


「鷹見家の者が、また」


藤森の声が聞こえてくる。


「帰らせろ」


父の声が、廊下に響く。


「しかし、慎一郎様ご自身がいらっしゃっているのです」


その言葉に、実優の指が震えた。しかし、それは未練からではない。慎一郎の存在が、実優の決意をより強固なものにしていく。触れることのできない二人。その事実こそが、実優の選択が正しいことを証明している。そう、必死で自分に言い聞かせた。


「実優様、お髪が乱れてしまいます」


女中に諫められ、実優は我に返る。そうだ。もう、考えてはいけない。想いを持つことは、誰かを傷つけることになる。それが、実優の見出した答えだった。けれど、その答えを見出した瞬間から、実優の瞳の輝きは確実に失われていっていた。


支度が整い、実優は一人、部屋に残されていた。出立までの、わずかな時間。破られた布包みの記憶が、実優の心を新たな決意へと導いていく。その決意が、実優の命そのものを削り取っていることには、誰も気付かない。


研究所で過ごした日々は、実優にとってかけがえのない宝物。しかし、宝物だからこそ、汚してはいけない。実優の力が、その記憶までも反転させてしまう前に。今、実優にできることは、その記憶を美しいまま、永遠に封印することだけ。たとえその選択が、実優自身を押し潰すことになったとしても。


「実優様、そろそろ」


女中の声が、静かに響く。


実優は、ゆっくりと窓を開けた。朝の風が、優しく頬を撫でる。あまりにも優しい風に、実優の決意が揺らぎそうになる。けれど、ここで揺らいではいけない。


「ありがとう」


実優は、かすかにつぶやいた。風に向かって、研究所での日々に向かって、そして自分の中の温かな記憶に向かって。


実優は天窓の外の小さな隙間に目を向けた。誰の目にも触れない、誰の手も届かない場所。そこなら、この想いは永遠に、純粋なままで。実優は、その場所に心の全てを委ねることを決意した。布包みは引き裂かれても、心の奥底にある想いまでは、誰にも奪えない。けれど、その想いさえも、実優は自らの手で封印しようとしていた。


その時、廊下に足音が響いた。


「実優、時間だ」


父の声。その声には、もう逆らうことはできない。しかし実優の心には、新たな強さが宿っていた。それは、誰かにすがることのない、確かな決意。けれど、その強さは実優の魂を確実に凍てつかせていく。


実優は、最後に天窓を見つめた。そこに込められた全ての想い。研究所での日々。慎一郎との静かな理解。それらは、もう実優には許されないもの。でも、それは弱さゆえの諦めではなく、強さゆえの選択なのだと、実優は信じていた。その信念が、実優の心をより一層深く凍らせていくことにも気付かないまま。


「...さようなら」


その言葉と共に、実優の中で何かが完全に凍りついた。もう二度と溶けることのない、永遠の氷のように。しかし、その冷たさの中にこそ、実優の新たな覚悟が息づいていた。それは、誰かを守るための、実優だけの選択。たとえその選択が、実優自身を永遠の闇へと導くことになったとしても。


天窓から差し込む光が、実優の姿を優しく照らしている。その光の中で、実優は静かに一歩を踏み出した。それは、道具として生きることを選んだ者の、確かな一歩だった。けれど、その一歩が実優から何かを決定的に奪い去ったことに、誰も気付くことはなかった。

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