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第18話「結婚前夜」

木枯らしが吹き始めた朝、実優は結婚前日を迎えていた。窓の外では、最後の紅葉が散りゆく様子が見える。まるで実優の希望が、一枚また一枚と散っていくかのように。


実優は鏡台の前に座り、自分の着付けを見つめていた。女中たちが次々と豪華な着物を持ち込んでくる。明日の晴れ着の最終確認だという。しかし実優の目には、それが枷のようにしか映らない。


「実優様、本当にお美しゅうございます」


女中の言葉には、どこか悲しみが混ざっていた。皆、実優が道具として嫁ぐことを知っている。実優自身も、それが自分の運命だと受け入れようとしていた。


袂の中の布包みが、いつもより重く感じられる。「君在りし日々」という六文字が、胸に突き刺さるよう。この言葉にすがることは、弱さの表れだと分かっている。それでも、今は。


「明日は、いよいよ大切な日となりますね」


母の声が、冷たく響く。


「あなたの力は、これからの家の未来を左右する重要な駒となるのですよ」


その言葉に、実優は目を伏せた。駒。それは人としての価値ではない。ただの道具としての。


「実優様、お茶をお持ちいたしました」


新しい女中が、丁寧にお茶を差し出す。その所作が、千代に似ている。その記憶に胸が痛む。


実優は、心の奥が震えるのを感じた。研究所での朝のお茶会。久遠の温かな眼差し。春樹の熱心な様子。山本夫妻の教え。そして——。


「慎一郎様は、きっと」


実優は、自分の心の声を必死で押し殺した。もう、考えてはいけない。夢は、夢として終わらせなければ。


「実優」


大志の声が、突然部屋に響き渡った。実優の体が凍りつく。兄の姿が、逆光に浮かび上がっている。


「準備は終わったか」


その声には、感情の欠片も混ざっていない。完璧な氷の壁のような声。


「はい、兄上様」


実優の返事は、かすかに震えていた。布包みに手が伸びる。大志の鋭い目が、その仕草を見逃さない。


「その動きは何だ」


実優の心臓が、大きく跳ねた。止めなければ。でも、体が言うことを聞かない。


「見せろ」


その一言に、実優の全身が凍る。しかし大志は、既に実優の傍らまで歩み寄っていた。その手が、容赦なく布包みを掴み取る。


「これは」


大志の目が、紙切れを見つめた瞬間、僅かに細められる。


「鷹見家の文字か」


その声には、普段の冷たさとは違う、何か危険な響きが混ざっていた。


「兄上様、それは」


「まだあの家のことを引きずっているのか」


大志の声が、一段と冷たくなる。指先に力が入り、紙切れが軋むような音を立てる。


「お願いいたします。それだけは」


実優の懇願に、大志は一瞬、目を見開いた。実優が誰かに願い事をするのを、何年ぶりに聞いただろう。


「まだ分からないのか」


大志の声が、静かに響く。


「お前はただの道具だ。感情を持つ必要などない。与えられた役目を果たせばいい」


その言葉が、実優の心を深く抉る。でも、紙切れだけは。最後の希望だけは。


「返していただけませんでしょうか」


実優の声は、かすかだった。でも、必死の想いが込められている。


大志は、紙切れを掲げた。月明かりに照らされ、文字が透けて見える。


「これがお前を弱くしているのだ」


その言葉と共に、大志の手が動く。紙を破ろうとする瞬間。


「お待ちください!」


実優の声が、部屋に響き渡った。自分でも驚くほどの大きさで。


大志の動きが、一瞬止まる。そして、実優を見つめる。その目には、何か言いようのない感情が浮かんでいた。


「兄上様、私は」


しかし、その言葉は途切れた。大志の手が、再び動き始めたから。


「夢から覚めろ」


ゆっくりと、でも確実に、紙が引き裂かれていく音。その音は、実優の心をも引き裂くよう。


「これでお前も、本来あるべき姿に戻る」


紙切れは、床に舞い落ちる。月明かりに照らされた文字の断片が、静かに散っていく。まるで、実優の最後の希望のように。


大志は、無言で部屋を後にした。その背中には、完璧な氷の壁が築かれているよう。かつての優しい兄の面影など、もうどこにもない。


実優は、床に膝をつく。散らばった紙切れを、一片一片、拾い集める。でも、もう元には戻らない。文字は永遠に引き裂かれ、その意味は失われた。


月明かりが、実優の涙を銀色に照らしていた。もう、すがるものは何もない。ただ、道具として生きていくしかない。それが、実優の運命なのだと、ようやく理解した瞬間だった。


明日の晴れ着が、静かに闇の中で光を放っている。それは、実優を縛る最後の鎖。もう逃げ場はない。希望も、記憶も、全てを手放す時が来たのだと。


窓の外では、最後の紅葉が、冷たい夜風に散っていった。

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