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第17話「弱さの在処」

秋も深まり、木々が色づき始めた頃、実優は毎日のように、政略の場に引き出されるようになっていた。その度に、袂の布包みに触れる回数が増えていく。自分でもそれに頼りすぎていることは分かっていた。でも、この温もりがなければ、立っていられない。


今日も、見知らぬ男たちが実優の力を試そうとしている。一枝一枝の花を差し出され、その意味を反転させることを要求される。まるで、珍しい見世物のように。実優は、そのたびに布包みを握りしめる。


「素晴らしい。これほどの力があれば」


「相手の出方も、完全に読めます」


「取引の場で、これほど有利な」


男たちの声が、実優の周りを飛び交う。しかし、その声は実優の心には届かない。袂の中の布包みだけが、かすかな温もりを伝えてくる。この温もりにすがりつくことしか、今の実優には生きる術がない。


「次は、この菊を」


差し出された花に、実優はゆっくりと指を伸ばす。その仕草には、もはや迷いはない。ただ、人形のように命じられるままに。そして、布包みの温もりを確かめるように。


「見事な変化です」


「これだけの力があれば」


「政略結婚など、安いものかもしれません」


その言葉に、実優の指が僅かに震えた。結婚。それは実優にとって、最後の鎖となるもの。しかし、布包みの中の六文字が、実優の心を支えている。「君在りし日々」。その言葉が、実優の中で静かに輝いていた。


ふと、自分の弱さに気付く。この六文字に、あまりにも頼りすぎているのではないか。それは、大志の影として生きることから逃れるための、儚い慰めに過ぎないのではないか。


「実優」


父の声が、冷たく響く。


「次の花を」


実優は、黙って頷いた。窓の外の紅葉が、まるで血に染まったように見える。そして、自分の心も同じように染まっていくような気がした。


昼下がりの応接室で、実優は次々と差し出される花に触れ続けていた。その度に、花の持つ意味が反転していく。まるで、実優自身の心のように。


「愛」は「憎しみ」に。

「誠実」は「裏切り」に。

「希望」は「絶望」に。


そのたびに、布包みを握る指に力が入る。自分でも分かっている。これは逃避に過ぎない。でも、もう少しだけ。この温もりに頼らせてほしい。


「もう一度」


新しい花が差し出される。それは白い花。見覚えのある。


実優の指が、止まった。


研究所の薬草園に咲いていた花。あの日、春樹と共に観察していた花。その記憶が、突然鮮やかに蘇る。そして同時に、自分が記憶にすがりつくことで、現実から目を逸らしていることにも気付く。


「何をしている」


父の声が、厳しく響く。


実優は、震える指で花に触れた。でも、心の中では違う光景が広がっている。


「実優様、この花の特性について」


春樹の声が、記憶の中で響く。


「毎日の観察が、とても重要で」


久遠の言葉も。


「触れずとも、見えることがある」


慎一郎の静かな理解も。


実優の指が、再び震える。この記憶への執着が、実優を弱くしているのかもしれない。でも、それを手放すことは、自分を完全に見失うことにもなりかねない。


「しっかりしなさい」


母の声が、冷たく突き刺さる。


実優は、必死で現実に戻ろうとする。でも、記憶が重なって離れない。過去にすがりつく自分の弱さが、痛いほど分かる。それでも、この布包みの温もりだけは。もう少しだけは。


「実優」


今度は大志の声だった。兄の冷ややかな目が、実優を見下ろしている。


「お前の存在価値は、その力だけだ。それ以外の感情など、必要ない」


その言葉に、実優の心が凍る。大志は正しいのかもしれない。実優が過去の記憶に執着することは、ただの弱さの表れなのかもしれない。


「では、次は」


男たちの声が続く。しかし実優の心は、自分の弱さと向き合うことに必死だった。布包みに頼ることは、逃避に過ぎない。それは分かっている。でも、今はまだ。もう少しだけ。この温もりに頼らせてほしい。


夜が更けても、実優は眠れずにいた。昼間の出来事が、まだ心に重くのしかかっている。自分の弱さと、それでも手放せない希望の狭間で揺れる心が、落ち着きを失っている。


布包みを取り出し、月明かりの下で開く。「君在りし日々」という文字が、かすかに光を放っている。これに頼ることは、きっと間違っている。でも、今はまだ。もう少しだけ。


実優は、目を閉じた。


研究所での日々が、まぶたの裏に浮かぶ。春樹との観察。久遠との会話。山本夫妻の教え。千代の気遣い。そして、慎一郎との静かな理解。すがりつくなと諭す理性と、それでも離れられない感情が、実優の中で激しくぶつかり合う。


「実優嬢の記録は、私たちの研究に」


慎一郎の声が、記憶の中で響く。


「触れずとも見えるもの。それは時として」


久遠の言葉も、まだ覚えている。


実優は、そっと紙切れに唇を寄せた。涙が、文字の上に落ちる。でも不思議と、文字はにじまない。まるで、実優の想いを受け止めてくれているかのように。自分の弱さを、そのまま受け入れてくれているかのように。


窓の外では、秋の虫が静かに鳴いている。研究所でも、こんな風に虫の声を聞きながら、記録をつけていた。その記憶にすがることは、きっと間違っている。でも、今はまだ。


実優は、布包みを胸に抱きしめた。あと少しだけ。この温もりに頼らせてほしい。明日も、また道具として扱われる日々が続く。それは分かっている。でも、この六文字さえあれば。


この文字が、実優の心を、人としての尊厳を、静かに守ってくれている。それは逃避かもしれない。でも、今はまだ。実優には、この温もりが必要だった。それが弱さだと知りながら。

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