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第16話「手紙の温もり」

熱が引いてから三日目の朝、実優は小さな布を縫い始めた。白絹の端切れに、丁寧に針を通していく。研究記録は奪われ、手鏡は砕かれた。しかし、あの六文字だけは守り抜かねばならない。


手の中の紙切れが、まるで生きているかのように感じられた。「君在りし日々」という六文字は、実優の心の中で静かに輝いている。この言葉だけが、今の実優を支える唯一の光。兄の冷たい視線にも、両親の非情な仕打ちにも、この言葉だけが抗ってくれる。


布を縫い終えると、実優は慎一郎の文字が書かれた紙切れを、そっと中に包んだ。それは護符のような、命のような存在。触れるたびに、研究所での日々が鮮やかに蘇る。春樹との観察、久遠との会話、山本夫妻の教え、千代の気遣い。そして何より、慎一郎との言葉にならない理解。


「実優様、お支度の時間です」


女中の声に、実優は布包みを袂に忍ばせた。かつての手鏡のように、心の支えとして。


鏡台の前に座る実優の姿は、まるで人形のよう。化粧を施され、髪を結われ、着物を着せられていく。全ては他人の手によって。実優という人間の意思など、どこにもない。それは、大志の影として生きることを強いられた日々の延長。


「本日は、とても大切なお客様です」


その言葉には、どこか同情めいたものが混ざっていた。実優の立場を知っているのだろう。道具として、政略の場に差し出される存在だと。それは、大志の完璧さを引き立てるための影としての役割。


実優は、ただ黙って座っていた。しかし袂の中の布包みが、かすかに温かい。六文字の文字が、実優の心に触れてくるよう。


「春樹との実験も、とても参考になりました」


そんな慎一郎の声が、どこかで響いていたような気がした。研究所での、あの温かな日々。実優が一人の人間として認められた、かけがえのない時間。


「実優様の視点は、私たちには見えないものを」


久遠の言葉も、まだ耳の中に残っている。父親のような温かみのある声。今では、それすらも遠い夢のよう。


「実優様、もう一度、お茶会を」


千代の声さえ、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。和菓子を作る彼女の優しさ。それは、藤森たちの冷たさとは正反対の温かみ。


実優は、そっと袂の布包みに触れた。まだ、この記憶は消えていない。慎一郎の文字が、確かにそれを証明してくれている。六文字の重みが、実優の心を支えている。


廊下に足音が響いた。


「実優」


大志の声だった。その声には、いつもの冷たさが滲んでいる。


「今日の来客は、政財界の重鎮たちだ。お前の力を、有効に活用させていただく」


その言葉に、実優の体が小さく震えた。活用。それは、人間としてではなく、道具としての価値を意味する言葉。


「兄上様、私は」


「黙っていろ」


大志の声が、氷のように冷たく響く。


「お前に求められているのは、ただ従順な道具としての役割だけだ。それ以上でも、それ以下でもない」


実優は、目を伏せた。大志の完璧な姿が、窓に映り込んでいる。それは、実優という存在を完全に否定する鏡像のよう。


「私の完璧な功績を、お前の不出来さで汚すな」


その言葉が、実優の心を深く抉る。しかし今は、袂の布包みが温かい。それだけが、実優を支えている。


「まもなく、お客様が」


女中の声に、大志は無言で立ち去った。その背中には、完璧な氷の壁が築かれているよう。兄妹でありながら、その距離は星々の彼方ほどにも遠い。


廊下では、両親の声が聞こえてくる。政略の道具として、実優をどう活用するか。その打ち合わせをしているのだろう。大志の栄光を引き立てるため、実優には影としての役割が課せられている。


実優は、窓辺に立った。そこからは、かつての研究所とは違う景色が広がっている。研究所では、白い花と紫の花が風に揺れていた。そして、その間に新しい命が芽吹いていた。今ここには、そんな希望は見えない。


しかし、袂の布包みが確かな温もりを放っている。六文字の重みが、実優の心を支えている。それは、大志の冷たさも、両親の非情さも超えた、確かな光。


「実優様、そろそろ」


女中の声に、実優は静かに頷いた。今日も、道具として政略の場に立たなければならない。しかし、この布包みさえあれば。この六文字さえあれば。


実優は、最後にもう一度、布包みに触れた。慎一郎の文字が、確かにそこにある。それは、実優が人として生きた証。大志の影としてではなく、一人の人間として認められた日々の記憶。


その温もりを胸に、実優は応接室へと向かった。今は、それだけを支えに生きていくしかない。


応接室の前で、実優は深く息を吸った。扉の向こうでは、初老の男性たちの声が聞こえる。政財界の重鎮たち。実優の力を、自分たちの利益のために使おうとする人々。


袂の布包みが、かすかに震えた。


「実優、入れ」


父の声に、実優は静かに頷いた。魂を持たない人形のように。しかし、その胸の内では、六文字の文字が確かに息づいている。


それは、実優という存在を認めた唯一の証。大志の影としてではなく、一人の人間として生きた日々の記憶。

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