第15話「壊れゆく希望」
秋の夕暮れが早くなり始めた頃、実優は父に呼び出された。新しい婚約者との話し合いで、実優の一度の返事の遅れが問題になったという。人形としては、即座に反応しなければならなかったのだ。
高価な磁器の人形のように、実優は父の前で静かに直立していた。着物の襞は完璧に整えられ、髪も一筋の乱れもない。それは、大志の完璧さを引き立てるための装飾品としての佇まい。
「お前の態度が失礼だというご指摘を受けた」
父の声は、氷のように冷たかった。まるで、不出来な商品を叱る商人のように。
「申し訳ございません」
実優の謝罪の言葉に、魂は宿っていない。それは、機械的に設定された応答のよう。
「黙って頭を下げているだけか」
その言葉に、実優は無意識に袂の手鏡に触れていた。それは今や、最後の心の支えとなっていた。人形の中に残された、唯一の人間らしさの証。小さな仕草。しかし、父の鋭い目は見逃さなかった。
「その動きは」
実優の体が凍る。まるで、機械の歯車が突然止まったように。
「出しなさい」
震える手が、ゆっくりと手鏡を取り出す。その仕草には、人形には似つかわしくない感情が滲んでいた。
「これは、まだ持っていたのか」
父は、実優の手から乱暴に手鏡を奪い取った。それは、人形から最後の思い出を奪い去るかのような仕草。
「もう、こんなものは」
その言葉と共に、父は手鏡を床に投げ付けた。
「お待ちください」
実優の声は、かすかな悲鳴のよう。それは、人形の胸に残された最後の叫び。
しかし父は、その声さえ踏みにじるように、手鏡を踏みつぶした。銀の手鏡が、無残な音を立てて砕ける。まるで、実優の最後の希望が木端微塵になるかのように。
その時、執事が慌ただしく入ってきた。
「申し訳ございません。鷹見家の」
父の表情が、一瞬曇る。
「久遠が?」
「はい」
父は、実優には目もくれず立ち去った。床には、砕けた手鏡の破片が、わずかな光を反射している。それは、実優の中で砕け散った人間らしさの欠片のよう。
実優は、砕けた手鏡の傍らで、ただ座り込んでいた。触れることもできず、ただ見つめることしかできない。まるで、壊れた人形のように。遠くから、久遠の声が聞こえてくる。しかし、もはやそれは実優には届かない音。夢のような温かな日々は、もう戻らない。
「実優様宛ての手紙を」
久遠の声が、廊下に響く。
「そのような物、必要ありません」
父の冷たい声。続いて、紙を破る音。まるで、人形の運命を切り裂くような音。
実優は、ただ虚ろな目で前を見つめていた。もう何も感じない。何も思わない。ただ、空っぽの心で。完全な人形として、ただそこに在るだけ。
窓の外で、雨が降り始めた。その音が、実優の耳に届く。ふと目を向けると、庭に白い物が舞い落ちるのが見えた。破られた手紙の切れ端。
実優は、その一片に目を奪われた。雨に濡れそうな場所。普段なら絶対に手を伸ばさない距離。人形には相応しくない行動。でも。
体が動いていた。意識よりも先に、足が庭へと向かう。雨の中、手を伸ばす。それは、人形の糸が切れたような、制御不能な動き。
その瞬間、足を滑らせた実優は、地面に倒れ込んだ。膝を擦りむき、着物は泥だらけ。それでも、その一片に手を伸ばす。まるで、最後の命綱を掴もうとするように。
雨に打たれながら、実優は白い紙切れを握りしめた。震える指で、そっと開く。
にじんだ文字。でも、かすかに読める。
「君在りし日々」
その六文字が、実優の心を貫いた。それは、人形の中に閉じ込められた本当の実優への、静かな呼びかけ。
実優の人形のような仮面に、初めて感情が浮かぶ。雨は容赦なく降り注ぎ、着物は重く、体は冷たかった。でも、手の中の紙切れだけは、必死に守っていた。それは、人形ではない、本当の実優の証。
「実優様!」
女中の声が、雨音に混じって聞こえた。
「このような姿で、何をなさっているのです!」
女中に抱えられ、実優は屋内へと運ばれた。まるで、壊れた人形を運ぶように。
「また何を」
母の声が、冷たく響く。
「こんな醜態を」
父の声も。
しかし実優の耳には、もはやその言葉は届かなかった。手の中の紙切れが、全てだった。人形の中に閉じ込められた、本当の実優への手紙。
「本当に、使い物にならない子ね」
「このままでは、婚約者様に申し訳が」
両親の言葉が、遠くで響いている。まるで、壊れた人形を前にした後始末の相談のように。
実優は、そっと手を開いた。雨に濡れた紙切れ。でも、あの六文字だけは、まだ確かに読める。
「君在りし日々」
慎一郎の文字。温かな日々の証。それは、人形の中に閉じ込められた実優の心を、確かに揺さぶった。
涙が、止めどなく溢れ出した。もう涙は出ないと思っていた人形の目から。研究所での日々、春樹との会話、久遠の優しさ、山本夫妻の教え、千代の気遣い。そして、慎一郎との静かな理解。
全てが、この六文字に込められているような気がした。それは、人形の仮面の下で眠っていた、本当の実優への呼びかけ。
女中に介抱され、着物を着替えさせられる間も、実優は紙切れを離さなかった。まるで、命綱のように。
「お熱がございます」
女中の声が、どこか遠くで響く。
実優は、布団に横たわった。体は熱く、意識は朦朧としている。でも、手の中の紙切れは、しっかりと握りしめたまま。それは、人形ではない、本当の実優の証。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。その音が、不思議と心地よく感じられた。
まるで、あの研究所の窓から聞こえた雨音のように。人形の殻の中で眠っていた記憶が、静かに目を覚ますように。




