第14話「道具の行方」
朝霧の立ち込める庭で、実優は立ち尽くしていた。今日は新たな婚約者との顔合わせの日。実家に戻されてから一週間、実優は完全に物言わぬ人形のように扱われていた。手足は糸で操られるように動き、声は遠い場所から響くよう。それは、大志の影として生きることを強いられた日々以上の虚ろさだった。
「お嬢様、支度の時間です」
見知らぬ女中の声が響く。実優の世話をしていた古い女中たちは、皆どこかへ移されてしまった。触れてはいけない忌み子の世話など、させられないというのだ。その声には、かつての藤森のような冷たさはないが、どこか機械的な響きがあった。まるで、人形の世話をする人形のように。
実優は無意識のうちに、研究記録を探そうと袂に手を伸ばした。しかしそこには、ただ虚しい空間があるだけ。手鏡だけが、かすかに温もりを残している。それは今や、最後の心の支えとなっていた。
「早くなさいませ」
冷たい声が、実優を現実に引き戻す。まるで、人形劇の糸を引くかのような声。実優はただ黙って従うしかなかった。
部屋に戻り、実優は鏡台の前に座った。そこに映る自分は、まるで別人のよう。かつて研究所で少しずつ温かみを取り戻していた頬は、再び血の気を失っていた。目は虚ろで、まるで磁器の人形のよう。それは、大志の完璧さを引き立てるための道具としての姿。
「この着物を」
差し出された着物は、見覚えのないものだった。実優の好みなど考慮される余地もない。ただ、品物としては最高級のもの。道具である実優に、それ相応の装飾を施すのだ。着せ替え人形に着せる衣装のように。
着替えを終えた実優は、再び無意識に研究記録を探した。春樹との会話を思い出そうとする。山本夫妻の教えを。久遠の温かな眼差しを。慎一郎との静かな理解を。しかし、全てが砂のようにこぼれ落ちていく。
「お客様が到着されました」
藤森の声が、冷たく響く。その声は、実優を操る新たな糸のよう。
応接室に案内された実優を待っていたのは、壮年の男性だった。その目には、人を見る温かみなどない。ただ、道具を値踏みするような光だけが宿っていた。まるで、骨董品を鑑定するかのように。
「これが、例の」
男は、実優の周りをゆっくりと歩き回った。その視線が、実優の全身を舐めるよう。
「触れれば逆になる、と」
「はい」
父の返答が、どこか誇らしげだった。まるで、珍しい人形を披露するかのように。
「面白い。これは使えそうですな」
その言葉に、実優の心が凍る。使えそう。その言葉の意味する未来が、実優の全身を震わせた。まるで、新しい操り手に引き渡される人形のように。
再び、研究記録を求める衝動。しかしそれはもう、この世に存在しない。代わりに手鏡を強く握りしめる。唯一残された、あの日々の証。鏡に映る自分は、まるで高価な磁器の人形のよう。儚く、もろく、そして何より虚ろに。
男との会話は、終始実優の頭上で交わされた。まるで、そこに実優という人間は存在せず、ただの道具について話し合われているかのように。値段の交渉をする商人と、品物を売る主人のように。
「では、来月には」
「ええ、それまでに準備を」
父と男の会話が、実優の運命を決めていく。その声は、人形の運命を決める値札のよう。
実優はただ、窓の外を見つめていた。鷹見家の薬草園では、今頃どんな花が咲いているだろう。山本夫人は、今日も丁寧に手入れをしているだろうか。千代は、誰かのためにお茶を淹れているだろうか。
思い出そうとすればするほど、記憶が遠ざかっていく。研究記録があれば、全てを確かめられるのに。実優は再び、存在しないはずの記録を探そうとして、自分の仕草に気付いた瞬間、胸が締め付けられた。それは、切れた糸を探す人形のような、虚しい仕草。
「それでは、これにて」
男が立ち上がる音が、実優を現実に引き戻す。
「娘を、よろしく」
父の声には、人としての温もりがなかった。ただ、取引が成立した満足感だけが滲んでいた。まるで、高値で売れた商品を見る目。
実優は、自室に戻ることを許された。しかしそれは、新しい檻に移されるまでの一時的な猶予でしかない。あるいは、新しい飾り棚に置かれるまでの待機時間。
窓辺に立ち、実優は手鏡を開いた。そこに映る自分は、もう誰なのか分からない。研究所での日々は、まるで遠い夢のよう。それは人形が見る夢のように、触れることも、確かめることもできない幻。
実優は無意識のうちに、研究記録を開こうとする動作をした。春樹の走り書きを確認しよう。久遠の注釈を読もう。慎一郎の簡潔な書き込みを探そう。しかし、そこには何もない。ただ、切れた糸を掴もうとする、虚しい仕草だけが。
涙は出ない。もう、それすら枯れ果てている。磁器の人形に、涙など似合わない。しかし実優の体は、確かに泣いていた。震える肩。乱れる呼吸。それは、魂の深いところで流される見えない涙。人形の中に閉じ込められた、最後の人間らしさの証。
「お嬢様、お食事の」
女中の声も、実優の耳には届かない。それは、遠い場所から響く、意味のない音。人形に、食事など必要ない。ただ、見栄えよく飾られればそれでいい。
ただ、手の中の鏡だけが、かすかに温かい。しかしその温もりすら、いつまで保っていられるのだろう。きっと、それも近いうちに奪われてしまうのだろう。最後の人間らしさも、やがては失われる。
窓の外の空は、研究所で見上げた空と同じ色をしているはずなのに、実優の目には、ただの灰色にしか映らなかった。それは、人形の目に映る世界の色。生命のない、希望のない、ただの色彩。
実優は、自分がただの道具として扱われることを受け入れようとしていた。それが、運命なのだと。人形に意思など必要ない。ただ、与えられた役目を果たせばいい。それだけでいい。そう思い込もうとしても、心の奥底では何かが痛みを感じていた。それは、まだ完全には人形になりきれていない証。
しかし、その痛みさえもいずれは消えるだろう。新しい家に移されれば、実優は完全な道具となる。人としての感情も、記憶も、全てを捨て去ることを求められる。それは、ある意味で救いなのかもしれない。もう何も感じない人形になれば、心が痛むこともない。
窓から差し込む夕陽が、実優の姿を赤く染めていく。その光の中で、実優は静かに人形へと変わっていく。それは、誰にも気付かれることのない、静かな変容。人から物への、魂の変質。




