第13話「闇に消える光」
実家に戻ってから三日目の朝、実優は自室の隅で研究記録を開いていた。周囲は以前と変わらぬ冷たさで、実優を包み込んでいる。しかし研究記録の頁を開くと、そこだけは不思議な温かさに満ちていた。白い花と紫の花の観察記録、春樹の走り書きのような実験データ、久遠の丁寧な注釈。全てが、失われた日々の温もりを伝えてくるよう。
「実優」
母の声が、朝の静寂を氷のように打ち砕いた。
「本日、お客様がいらっしゃいます。身なりを整えなさい」
実優は黙って頷いた。袂の中の研究記録が、心臓の鼓動のように温かい。これが、最後の心の支えだった。
着替えを済ませ、実優は庭に出た。かつては愛おしく思えた椿家の庭も、今は全てが色褪せて見える。ただ、手鏡に映る空だけは、鷹見家の空と同じ青さをしていた。
「実優様」
藤森の声に、実優は振り返る。その声音には、勝利を確信したような冷たさが滲んでいた。
「その本は、なんでしょうか」
実優は、研究記録を強く握りしめた。
「研究の記録です」
「研究、ですか」
藤森の声に、嘲りが混じる。実優の全てを否定するような、冷たい響き。
「あなたのような方に、研究など。まして、あの鷹見家での」
その言葉は、実優の心を深く傷つけた。しかし今は、研究記録の重みが実優を支えている。頁を開けば、そこには確かな日々の記録がある。春樹との実験観察、久遠との会話、山本夫妻から学んだ知識。そして、慎一郎との静かな理解。
花々の観察記録には、実優の心が一文字一文字に込められている。白い花と紫の花の間で育つ新しい種のことも、丁寧に記されていた。触れることはできなくても、実優だけに見える真実があった。それは、大志の完璧な記録とは違う、実優だけの発見。
しかし——。
実優は不意に、研究記録の文字が歪んで見えることに気付いた。まるで、文字そのものが実優から逃げ出そうとしているかのように。
「実優」
父の声が、背後から響いた。その声には、かつての温かみの欠片も残っていない。完全な他人を見るような、冷たさだけが。
「その本を」
実優は、ゆっくりと振り返った。父の表情には、もはや実優を娘として見る優しさは微塵もなかった。その傍らには、大志の姿。兄は相変わらず実優など存在しないかのように、窓の外を見つめている。
「見せなさい」
震える手で、研究記録を差し出す。鷹見家で過ごした幸せな日々の証を。父の手に渡った瞬間、実優の中で何かが音を立てて崩れていく。
父は無言で頁を繰った。その仕草には、実優の心を踏みにじるような冷酷さがあった。春樹の走り書き、久遠の丁寧な注釈、そして実優自身の観察記録。全てが、意味のない走り書きのように扱われていく。
「こんなものは」
父の声が、冷たく響く。
「必要ない」
その一言と共に、父は研究記録を藤森に手渡した。
「処分しなさい」
実優は、その言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。研究記録が、鷹見家での日々が、実優の全てが否定される。それは、あまりにも残酷な現実だった。
「お待ちください」
実優の声は、かすかだった。
「あれは、私の...」
「黙りなさい」
母の声が、氷のように冷たく響く。その一言で、実優の言葉は凍りついた。
「あなたに必要なのは、これから与えられる新しい役目だけです」
その言葉の背後に、藤森が研究記録を持ち去る音が聞こえた。実優は、なおも言葉を紡ごうとした。しかし、声が出ない。まるで、実優の存在そのものが否定されているかのよう。
藤森が研究記録を持ち去る姿を、実優はただ見つめることしかできなかった。その背中が遠ざかるにつれ、実優の中で何かが音を立てて崩れていく。
手鏡を取り出す。映る自分の顔が、どこか遠い存在のように感じられた。触れられない花々を見つめ続けた日々、春樹との実験、久遠の優しさ、山本夫妻の教え、千代の気遣い、そして慎一郎との静かな理解。それらは確かにあった幸せなはずなのに、今は遠い夢のようにしか感じられない。
「お客様が、お待ちです」
母の声が、冷たく響く。その言葉に、実優はただ首を縦に振ることしかできなかった。
窓の外の空は、変わらず青かった。しかし実優には、もうその色が持つ意味が分からなかった。研究記録という希望を失った今、実優の中で最後の光が消えていった。残されたのは、ただ深い虚無だけ。
大志は最後まで、実優の存在など眼中にないかのように窓の外を見つめていた。その完璧な横顔に、実優の存在は映っていない。まるで、透明な人形のように。
父は既に部屋を後にしようとしていた。その背中には、もはや実優を娘として見る温かみは欠片も残っていない。ただの道具として、政略の駒として見る冷たさだけが。
実優は自室へと向かった。一歩一歩が、どこか非現実的に感じられる。研究記録がなくなった今、全てが色を失っていく。春樹との会話、久遠の温かな眼差し、山本夫妻の教え、千代の気遣い、そして慎一郎との静かな理解。それらは確かにあった幸せなはずなのに、今は遠い夢のようにしか感じられない。
「お嬢様、お支度の時間です」
見知らぬ女中の声が響く。実優の世話をしていた古い女中たちは、皆どこかへ移されてしまったのだ。触れてはいけない忌み子の世話など、させられないというのが理由だった。
実優は無意識のうちに、研究記録を探そうと袂に手を伸ばした。しかしそこには、ただ虚しい空間があるだけ。手鏡だけが、かすかに温もりを残している。
「早くなさいませ」
冷たい声が、実優を現実に引き戻す。実優はただ黙って従うしかなかった。これが実優の運命なのだと、そう受け入れるしかない。研究記録という光を失った今、実優の中には深い闇だけが広がっていた。
窓の外では、秋の風が庭を吹き抜けていく。その音さえも今は、実優の心を引き裂くように感じられた。




