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第12話「夢の終わり」

秋の朝もやが晴れきらぬうちに、実優は自室で荷物をまとめていた。窓の外では、三種の花が朝露に濡れて輝いている。その光景に、実優の心が深く揺れる。


といっても、持ち物は僅かだった。手鏡と、着替えのみ。そして——研究記録。実優の指が、記録の表紙に触れたところで止まる。革の感触が、これまでにないほど鮮やかに伝わってくる。一つ一つのページに染み込んだ墨の香り。実優の心臓が、痛いほど高鳴った。


昨夜、実優は決意を固め、既に伝えていた。この場所の温かさに触れれば触れるほど、実優の心は引き裂かれそうになる。この人たちの優しさに、実優の力は応えることができない。それどころか、きっといつか傷つけてしまう。だから、誰かが決断を下す前に、自分から。


「実優様」


千代の声が、静かに響いた。その声には、深い悲しみが滲んでいた。


「お支度は」


その言葉が、喉で途切れる。千代の瞳に、大きな滴が浮かぶ。


「実優様...」


「千代さん」


実優が言葉を探していると、千代は突然深々と頭を下げた。その肩が、小刻みに震えている。


「この一年、実優様の傍らで過ごせたことが、私の誇りでした。朝のお茶会で見せてくださる笑顔が、どれほど私の心を温めてくれたか」


千代の声が震えている。実優の胸が、強く締め付けられる。


「和菓子を作らせていただく時も、実優様の喜ぶ顔を思い浮かべながら...本当は、もっと上手くなりたかったのに」


実優は黙って首を振った。これ以上、この場所の温かさに触れてはいけない。この優しさに、もう甘えてはいけない。夢から覚めるときは、すっきりと。


「でも、久遠様が」


千代の言葉に、実優の心が揺らぐ。


研究所からは、いつもの実験の物音が聞こえてくる。春樹が必死に新しい実験に取り組んでいるのだろう。実優がいなくなった後も、研究は続いていく。そう、これは実優だけの夢。実優の力は、きっとこの場所も不幸にしてしまう。そう信じなければ、立ち去る勇気が出ない。


窓の外では、薬草園に朝日が差し込んでいた。山本夫妻が、いつものように手入れをしている。二人の仕草には深い愛情が込められ、その光景が実優の胸を刺すように鮮やかだった。


「お嬢様」


久遠の声に、実優は振り返った。その目には、父親のような深い悲しみが浮かんでいる。


「最後に、皆でお茶を」


その言葉には、深い祈りが込められていた。実優の心が、大きく揺れる。


研究所は、朝の光に満ちていた。実験器具が整然と並び、薬草の香りが静かに漂う。すべてが、あまりにも普通の朝のよう。それが却って、実優の心を引き裂く。



テーブルには、いつもの茶器が置かれている。湯気が優しく立ち上る。その香りが、実優の記憶を呼び覚ます。毎朝のお茶会。皆との穏やかな時間。それらが一つ一つ、宝物のように心に浮かんでくる。


「実優様!」


春樹が研究所から飛び出してきた。その声には、必死な想いが込められていた。


「この場所には、実優様の自由な意思で...私たちは、実優様を心から」


その言葉に、実優は目を伏せた。自由な意思。それは実優には重すぎる言葉だった。自分の力が、必ずや誰かを不幸にする。そう信じなければ、前に進めない。


「春樹」


久遠の声が、静かに響く。その声には、深い理解が滲んでいた。


「実優様のお気持ちを、私たちが縛るべきではない」


その言葉の優しさが、実優の心を引き裂いた。こんな風に大切にされればされるほど、実優は自分の存在を否定せざるを得なかった。この温かさこそが、最大の別れの理由なのだから。


実優は、研究記録を強く抱きしめた。この重さだけが、今の実優の現実。白い花と紫の花の観察。新しい種の発見。それらの記録が、今は切なさを増幅させるだけ。


「実優嬢」


慎一郎の声に、実優は顔を上げた。彼は普段より距離を保って立っていた。その仕草に、実優は切なさを覚えた。慎一郎は理解していたのだろう。実優の決意の深さを。


「記録は、持っていってください」


その一言に、実優の目から涙が溢れた。


「いいえ、これは」


「あなたの記録です」


慎一郎の声は、珍しく感情に満ちていた。実優には、その声の震えが痛いほど伝わってきた。


「私たちにとっても、かけがえのない」


その言葉を最後まで聞くことはできなかった。実優は、深々と頭を下げた。これ以上言葉を交わせば、きっと決意が揺らぐ。


この場所での思い出が、まぶたの裏に浮かぶ。朝のお茶会。和菓子を作る千代の優しさ。春樹との記録整理。山本夫妻との語らい。そして何より、久遠の父親のような優しさ。慎一郎との、言葉なき理解。


すべてが眩しいほど輝いている。でも、触れてはいけない。触れれば、すべての意味が逆転してしまう。それは実優の宿命。いつか必ず、この場所も不幸にしてしまう。そう信じなければ、立ち去ることなどできない。


「時間です」


千代の声が、静かに告げる。その声が、どれほど震えているか、実優にはよく分かった。


実優は、もう一度研究所を見渡した。一つ一つの風景が、胸に焼き付いていく。二度と見ることのできない、大切な光景。


手鏡を取り出すと、そこには涙に濡れた自分の顔が映っていた。研究記録を胸に抱く手が、小刻みに震えている。


「行ってまいります」


その言葉は、誰に向けたものだったのか。実優自身にも分からなかった。ただ、この温かな場所を守るために、自分が消えることが最善なのだと、そう信じるしかなかった。


馬車に乗り込む前、実優は最後に振り返った。研究所の窓から、朝の光が溢れている。その中に、大切な人たちの姿が見えた。春樹は実験台に両手をつき、俯いている。千代は袖で目を押さえ、肩を震わせていた。久遠は、まるで実の娘を見送るかのような表情で立ち尽くしている。そして慎一郎は、窓際で実優をまっすぐに見つめていた。


研究記録を抱く腕に、力が入る。これだけは、この温もりだけは——。


馬車が動き出す。窓の外で、薬草園の花々が風に揺れていた。白い花、紫の花、そして新しい種。その一つ一つが、実優には触れられない宝物のように輝いていた。


実優の涙は、もう止まらない。でも、それは正しい選択なのだと、そう信じるしかなかった。誰かが傷つく前に、自分から離れること。それが、この場所への最後の愛おしさの形なのだと。

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