第11話「壊れゆく日常」
秋晴れの朝、実優は研究所で春樹と共に記録の整理をしていた。昨日の朝のお茶会で、山本夫人から新しい薬草の知識を教わったことを、丁寧に書き留めている。一文字一文字に、実優の愛おしさが滲んでいた。この場所での日々は、全てが宝物のように感じられた。
春樹は時折、実優の記録に目を向けては感嘆の声を漏らす。その度に実優は、この何気ない日常が、自分にとってどれほど大切なものかを実感していた。研究記録の香り、整然と並んだ実験器具、窓から差し込む柔らかな光。全てが、実優の心の支えとなっていた。
「実優様、この観察は素晴らしいです。山本おばあさまの知識と、実優様の視点が見事に調和していて。特に、月の満ち欠けによる効果の変化について、私たちでは気付けなかった点まで」
春樹の言葉は、いつも率直で温かい。実優は、この場所で自分が必要とされていることを、少しずつ実感できるようになっていた。その確かな絆が、実優の心を優しく包み込む。
「春樹様こそ、いつも親切に教えてくださって」
実優の言葉が途中で途切れた。研究所の外から、見慣れない馬車の音が聞こえてきたのだ。その重々しい音色に、実優は一瞬、息を詰めた。
実優の体が、本能的に硬直する。その音に、どこか不吉なものを感じ取っていた。しかし、それは以前のような恐怖ではない。ただ、この温かな日常が脅かされることへの、静かな危惧。
「実優様?」
春樹の心配そうな声を背に、実優は窓際に立った。馬車からゆっくりと降りてきた人物を見て、実優の顔から血の気が引いた。
椿家の執事、藤森だった。その姿は、実優の過去との繋がりを象徴するかのようだった。
「まさか」
震える声が、実優の唇から漏れる。しかし、それは以前のような恐怖の震えではなかった。今の実優には、守るべき大切な場所がある。
「実優様、どうかなさいましたか?」
春樹の問いかけに、実優は小さく首を振った。心配をかけまいとする仕草に、春樹の眉が寄る。
その時、久遠が研究所に入ってきた。その表情には、いつもの穏やかさの下に、強い決意が感じられた。
「実優様、椿家の執事様が」
その言葉に、実優は研究記録を強く握りしめた。その仕草は、まるで大切な宝物を守ろうとするかのようだった。この記録には、実優の新しい人生が刻まれている。白い花と紫の花の観察、そして新しい種の発見。それらは全て、実優にとってかけがえのない証。
「私が、お会いしてきます」
実優が立ち上がろうとした時、慎一郎が現れた。その姿には、普段の禍々しさは感じられない。代わりに、強い意志が滲んでいた。
「実優嬢」
その一言には、これまでにない重みが込められていた。それは単なる呼びかけではなく、実優への深い理解と決意を示すものだった。
「私から」
しかし実優は、静かに首を振った。慎一郎の温かな配慮が嬉しかった。でも、逃げ続けることは、もうできない。この場所で、実優は少しずつ、自分の存在価値を見出し始めていた。それは小さな、取るに足らない日常の積み重ねかもしれない。しかし、実優にとってはかけがえのないもの。
「私が参ります」
実優の声は震えていたが、確かだった。研究記録を大切に机に置き、手鏡を袂に忍ばせる。それは、実優の心の支え。そして、この場所での小さな幸せを象徴するもの。
応接室で藤森を待つ間、実優は窓の外の薬草園を見つめていた。山本夫妻が丹精を込めて育てた花々が、秋の日差しを浴びて静かに揺れている。その光景が、実優の心を落ち着かせてくれる。
扉が開く音に、実優の背筋が伸びる。足音が近づき、冷たい空気が部屋に満ちていく。
「お久しぶりでございます、実優様」
藤森の声は、以前と変わらず冷たかった。その声音には、何かを企む者特有の打算が滲んでいた。実優は静かに振り返り、まっすぐに藤森を見つめた。
「ご用件は」
実優の声は、かすかだったが芯が通っていた。それは、この場所で少しずつ育んできた自信の表れ。藤森の目が、僅かに細められる。
「お引き取りのご相談です。父上様より、婚約破棄の命が」
その言葉に、実優の心臓が凍りつく。しかし、表情は崩さなかった。研究所での日々が、実優にそれだけの強さを与えていた。
「違約金は、当家で負担させていただきます」
藤森は、実優の変化に気付いていないかのように続ける。その声には、感情が欠片も感じられない。まるで、取るに足らない商談でもしているかのように。
「理由を」
「それはお伝えできかねます。ただ、実優様の...特別な力を、より有益に活用させていただく計画が」
言葉の途中で、扉が勢いよく開かれた。久遠の姿が、逆光に浮かび上がる。その眼差しには、これまで見たことのない鋭さが宿っていた。
「実優様を、手放すわけにはまいりません」
久遠の声が、強く響いた。その声には、父親としての威厳が込められている。
「違約金は、どれほどでも」
「申し訳ございませんが、金銭の問題ではございません」
藤森の冷たい微笑が、実優の心を締め付けた。その表情には、すでに勝利を確信したような余裕が滲んでいる。
「実優様の力は、我が家の未来に関わる重要な」
「実優様は、道具ではありません」
春樹の声が、珍しく強い口調で響く。彼の目には、研究者としての誇りと、実優への深い敬意が宿っていた。
その時、慎一郎が現れた。その姿には、普段の禍々しさの代わりに、静かな威厳が漂っていた。
「実優嬢の意思は」
「意思など、関係ございません」
藤森の言葉が、氷のように冷たく響く。その瞬間、実優の手が小さく震えた。しかし、それは恐れからではない。この場所での大切な日々を、誰かに奪われまいとする強い意志の表れだった。
「明日、お迎えに」
その言葉を最後に、藤森は立ち去った。その背中には、勝利を確信した者の余裕が滲んでいた。
静寂が、重く部屋に沈む。
実優は、自分が泣いていることにも気付かなかった。ただ、この場所での日々が、走馬灯のように心に浮かんでいた。朝のお茶会。山本夫人の和菓子。春樹との記録整理。千代との些細な会話。そして何より、久遠の父親のような優しさ。慎一郎との、言葉なき理解。
「実優様」
久遠の声が、遠くから聞こえてくる。その声には、深い悲しみと、強い決意が混ざっていた。
「私たちは、決して」
その言葉が、実優の心を更に引き裂いた。この人たちは、実優を本当に大切に思ってくれている。それは、実優にも分かっていた。でも——。
実優は、震える手で研究記録を開いた。頁には、この屋敷での小さな幸せが、一つ一つ丁寧に記されている。白い花と紫の花の観察。新しい種の発見。それらは全て、実優にとって何より大切な宝物だった。
手鏡を取り出すと、そこには涙に濡れた自分の顔が映っていた。その表情には、深い悲しみと、そして、まだ自分には価値がないのではないかという恐れが混ざっていた。
窓の外では、夕暮れの薬草園が、静かに風に揺れていた。三種の花が、まるで実優を慰めるように、優しく頭を垂れている。その光景が、今はとても痛ましく感じられた。
久遠は、何か言いかけては言葉を飲み込んでいた。春樹は、実験台を強く握りしめている。慎一郎の姿は、月明かりに照らされて、どこか儚げに見えた。
実優の心の中で、これまでの日々が静かにまとまっていく。そして、ある決意が形を成していった。それは、誰かが気付く前に、自分から全てを手放すという——。




