第10話「朝餉の温もり」
秋の気配が濃くなってきた朝、実優は研究所への道すがら、庭の茶の花が咲き始めているのに気がついた。白い花びらが、朝露に濡れて輝いている。実優は例のごとく、その様子を丁寧に記録に書き留めた。以前とは違い、その仕草には自然な温かみが感じられた。
研究所に入ると、いつもより早く春樹が来ていた。彼は何やら慌ただしく準備を整えている。実験器具の配置には、いつになく細やかな気遣いが込められていた。
「おはようございます、実優様。今朝は特別な実験がございまして」
春樹の声には、どこか期待に満ちた響きが混ざっていた。その様子に、実優は密かな温かさを感じる。彼の一つ一つの仕草には、実優を研究者として認める確かな敬意が込められていた。
実優は静かに自分の席に着き、記録の整理を始めた。朝日に照らされた実験器具が、穏やかな光を放っている。その光景は、実優にとって何よりも愛おしいものとなっていた。
しばらくすると、久遠が入ってきた。その手には、いつもと違う茶器が載せられていた。見覚えのある優美な曲線を持つ茶器。実優の目が、思わずその姿に釘付けになる。
「実優様、よろしければ」
久遠は、実優の作業机の隣に、その茶器を静かに置いた。実優の心が、大きく揺れる。それは、祖母が大切にしていた茶器とよく似ていた。温かな記憶が、胸の奥で静かに広がっていく。
「これは」
「慎一郎様が、昨日お取り寄せになられました。実優様の記録に、茶の花の思い出が記されているのを」
その言葉に、実優は息を呑んだ。確かに昨日、実優は記録の余白に、何気なく一文を書き添えていた。「茶の花が咲き始め、祖母との朝のお茶の時間を思い出す」と。その小さな独り言のような言葉を、慎一郎は読んでいてくれたのだ。
「お嬢様の朝のお茶の時間を、大切にしたいと。慎一郎様が仰っていました」
久遠の言葉が、実優の心に深く沈んでいく。実優は黙って頷いた。喉の奥が熱くなる。こんな些細な願いにまで、耳を傾けてくれる人がいる。その事実が、実優の心を優しく包み込む。
「実優様」
春樹が、恐る恐る声をかけてきた。その表情には、いつもの研究熱心さとは違う、温かな光が宿っている。
「その、私も一緒に...朝のお茶の時間を、ご一緒させていただけないでしょうか」
その言葉に、実優は思わず顔を上げた。研究に没頭する春樹が、朝のお茶に参加したいと言うのは意外だった。しかし、その目には純粋な願いが込められている。
「朝のお茶会、私にとってはとても贅沢なことで...実優様の観察記録を拝見していると、お茶を通して見える世界があるように感じまして」
春樹の言葉には、どこか照れくさそうな響きがあった。しかし、その素直な気持ちが実優の心に染み入る。
「では、私も」
千代が、静かに入ってきた。彼女の手には、実優の好きな和菓子が載せられている。その一つ一つの形に、丁寧な心遣いが感じられた。
「これは、山本おばあさまが...いえ、実は私が作らせていただきました」
千代の頬が、かすかに赤く染まる。
「実優様の記録に、月見の和菓子のことが書かれていて。その想いに触れて、私も何か」
実優の視界が、少しぼやける。それは涙のせいだと気付くまでに、少し時間がかかった。こんな風に、誰かが実優の言葉に耳を傾け、その想いに応えてくれること。それは、実優にとってかけがえのない宝物だった。
朝日に照らされた研究所で、静かにお茶が淹れられていく。久遠の所作には無駄がなく、まるで長年の経験が染み付いているかのようだった。その一つ一つの動きに、実優は深い愛情を感じる。
香りが立ち上る。実優は、その香りに深く目を閉じた。今この瞬間が、かけがえのない時間として心に刻まれていく。
「実優様」
久遠が、静かにお茶を差し出した。その仕草には、これまでにない親しみが感じられた。まるで、本当の家族のように。
「ありがとうございます」
実優の声が、かすかに震えた。それは嬉しさが溢れ出そうになる震え。
茶碗を手に取る。温かい。それは単なる温度以上の、何かを伝えてくるような温かさだった。実優は、その感触を心の奥深くまで感じていた。
「美味しい」
春樹が、素直な感動を声に出した。普段は実験データや観察記録についてしか語らない彼の、珍しく柔らかな表情に、実優は密かな喜びを感じる。
「私、こんな優雅な朝は初めてで...実優様の記録を拝見していると、いつもこんな温かな時間が綴られていて」
春樹の言葉に、千代がかすかに微笑んだ。その表情には、実優への深い敬愛が滲んでいた。
「山本さまも、実優様の薬草への理解の深さを、いつも感心なさっています」
実優は、一つ一つの言葉に込められた温かさを、しっかりと心に刻んでいった。研究記録には書ききれない、大切な何か。それは、この場所でしか感じることのできない、かけがえのない絆。
その時、静かにドアが開いた。
慎一郎が立っていた。実優はもう、逃げ出さなかった。その代わりに、心が大きく震えた。
「よろしければ、私も」
その言葉には、どこか恥ずかしそうな響きがあった。慎一郎らしくない、素直な願いに、実優の胸が熱くなる。
実優は、黙って頷いた。目から、また涙が溢れそうになる。しかし今度は、それを隠そうとはしなかった。この場所での涙は、決して恥ずかしいものではないのだと、実優は学んでいた。
久遠が慎一郎にも茶碗を用意する。その所作は、まるで本当の父親のようだった。実優は、その光景を愛おしく見つめる。
静かな時間が流れる。誰もが、この瞬間を大切にしているように。朝日は次第に高度を増し、研究所の中を優しく照らしていく。
「実優様の記録に、月下の花の香りのことが」
慎一郎の言葉に、春樹が目を輝かせた。
「はい!実優様の観察眼のおかげで、私たちも新しい発見が」
その会話を、実優は温かく見守っていた。かつては触れることのできなかった花々が、今は実優に多くの贈り物をくれている。新しい発見、確かな絆、そしてこの温かな時間。
「これからは」
久遠の声が、優しく響いた。その声には、深い愛情が込められている。
「毎朝、このように。実優様の観察と共に、お茶の時間を」
実優は、また涙を堪えきれなくなった。しかし今度は、それは悲しみの涙ではなかった。確かな幸せが、静かに溢れ出す涙。
窓の外では、茶の花が風に揺れている。白い花びらが、まるで実優に微笑みかけているかのよう。薬草園からは、新しい命の息吹が感じられる。
手鏡を取り出すと、そこには涙に濡れた自分の顔が映っていた。しかし、その表情には確かな幸せが宿っていた。それは、この場所でしか見ることのできない、本当の実優の顔。
研究記録の頁を開く。今日の出来事を書き留めようとして、実優は気付いた。記録には書ききれない幸せがあることを。
それは、お茶の香りと、和菓子の味と、そしてこの場所にいる人々の温もりの中にあった。実優は、その全てを心の奥深くに刻み込んでいく。この幸せが、いつか大きな力となることを信じて。
窓の外では、新しい種の花が、静かに蕾を膨らませ始めていた。それは、実優の未来を予感させるような、希望の光。




