表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/36

第1話「祝福という名の虚飾」

大正十一年。東京の名家・椿家に、世にも奇妙な令嬢がいた。


実優が初めて自分の力に気付いたのは、四歳の春のことだった。庭で遊んでいた彼女は、ふと咲き誇る椿の花に手を伸ばした。その瞬間、不思議なことが起きる。「誇り」を意味するはずの椿の花言葉が、「謙虚」へと反転したのだ。花に触れるたびに、その花言葉が逆転してしまう——それが、華族の令嬢として生を受けた実優の特異な力だった。「幸福」は「不幸」に、「愛」は「憎しみ」に。触れた瞬間、花の持つ意味が反転してしまう。


しかし、幼い頃の実優は、その力に怯えることはなかった。むしろ、家族たちから深い愛情を受けて育った。父は彼女を膝に乗せ、祖母は庭の花々の名を教え、母は優しく髪を撫でてくれた。特に兄の大志は、妹を可愛がり、よく頭を撫でては「お前の力は神様からの贈り物だ」と語りかけていた。


実優が五歳の時、その力は「神の祝福」と呼ばれていた。彼女が触れた花は、逆さまの意味を持ちながらも、不思議な輝きを放ち、より一層美しく咲き誇ったのだ。家族は揃って庭の手入れをし、実優の力によって変化する花々を愛でた。


「実優、ここの白薔薇に触れてごらん」と父が声をかける。

「この菊は?」と母が笑顔で尋ねる。

「おや、この椿がまた違った色に」と祖母が目を細める。


庭での団欒は、椿家の日課となっていた。大志は実優の横で、変化する花々をスケッチブックに描き留める。それは、確かな幸せの日々だった。


しかし、十歳を過ぎた頃から、実優は自分の力に強い興味を抱き始める。夜遅くまで庭に出ては、次々と花に触れ、その変化を確かめようとした。最初は小さな変調から始まった。微熱や、時折の手の震え。それが次第に深刻化していく。


「また熱が出ています」

「手が止まらないんです」

「頭が、痛くて...」


やがて、度重なる力の使用により、彼女は重い体調不良に見舞われるようになった。意識を失うこともあった。使用人たちの間で、不穏な噂が囁かれ始める。


「あの子、また倒れたそうですよ」

「この屋敷に不吉なものが取り憑いているのかしら」

「大志様とは大違いですね」


医師を呼んでも原因は分からない。薬を扱う名家として知られる椿家の誇りが、この説明のつかない症状によって揺らぎ始めた。


十一歳の誕生日。それは全てが変わる転機となった。実優は祖母から銀の手鏡を贈られた。「この鏡のように、あなたの心は清く美しい」という言葉と共に。喜びに満ちた思いのままに、実優は庭の花々に次々と触れていった。しかし、その瞬間から庭全体が異変を見せ始める。花々は枯れ、変色し、歪な姿へと変貌していく。


「実優!」


大志の悲鳴のような声が響く中、実優は激しい頭痛に襲われ、その場に崩れ落ちた。周囲が騒然となる中、彼女の意識は遠のいていった。


この出来事を境に、家族の態度は一変する。母の瑠璃子は、社交界での立場を案じるようになっていた。「このままでは、椿家の評判に関わる」と、実優を人前に出すことを避けるようになる。瑠璃子にとって、社交界での立場は命より大切だった。幾度となく受けた他家からの嘲笑や軽蔑。実優の存在が、その全ての原因となると考えた母は、娘への愛情を冷たさで覆い隠すようになっていく。


「あなたの存在が、家の評判に関わるのよ」


母の言葉は、まるで氷の刃のように実優の心を突き刺した。しかし、最も大きく変わったのは大志だった。名門帝国大学を首席で卒業し、その完璧な人格と手腕で椿家の期待を一身に背負う彼は、実優の存在を次第に疎ましく感じ始めていた。


家督を継ぐことは決まっていたものの、周囲からの絶え間ない期待に苦しみ、自分の価値を証明するために過剰なまでの完璧さを求めるようになる。かつて妹を可愛がっていた優しい眼差しは、冷たい軽蔑の色に変わっていた。


「お前の力は、家の恥だ」


ある日、大志はそう言い放った。妹への愛情は、いつしか冷たい拒絶へと変わっていた。彼にとって「自分より劣る者」の存在は、自身の完璧性を脅かすものとなっていた。


祖母の死後、実優は完全な孤立を強いられる。離れの部屋に移され、家族との接触も最小限に制限された。それでも彼女は、几帳面な性格のまま、与えられた仕事を一つ一つ丁寧にこなしていった。


誕生日を迎えた実優は、屋敷の離れで静かに暮らしていた。誕生日であることを、誰も知らない。誰も祝ってくれない。雨の音が、実優の空腹を紛らわせていた。


「大志様のお声がございます」


女中の声に、実優は静かに頷いた。膝の上で開いた手帳に、実優は几帳面な文字を記していく。


「本日の生け花、完璧な出来栄え」

「新しい取引先への手紙、家名を汚さぬよう丁寧に」

「母上様の茶会、裏方として滞りなく」

「兄上様の帳簿、間違いのないように」


これらの仕事が全て無意味な努力だと知っていても、手を止めるわけにはいかなかった。


廊下では、使用人たちの囁き声が聞こえる。


「あの離れには近づかない方がいいわ」

「鷹見家も大変ね。あそこの当主は親すら殺したという噂だけど」

「まあ、あの屋敷に入ったら最後、二度と出てこられないとか」

「この椿家だって、あの子のせいで...」


応接室に入ると、大志は窓際に立っていた。その端正な横顔は、まるで西洋の絵画から抜け出してきたかのよう。実優の存在など眼中にないといった様子で、彼は書類に目を通している。


「帳簿の件でございますが」


実優が小さな声で言葉を紡ぐと、大志は黙って机の上に書類を置いた。それが「確認した」というサインなのだと、実優は長年の経験で理解していた。


「実優、まだそんなところにいたの」


母の瑠璃子が声をかける。その声には、表向きの優しさだけが滲んでいた。


「はい、母上様」


「生け花の件だけど」


母は、実優の顔を値踏みするように見つめた。


「あなたの生け花は、とても...特別ね」


その言葉には皮肉が込められていた。実優が丹精込めて活けた花は、決して他人にお見せできるものではないという意味。実優の存在そのものを否定するような言葉だった。それは実優にとって、いつもの儀式のような心の痛みをもたらした。


「申し訳ございません」


謝罪の言葉は、もう反射的に出る。実優が丹精込めて活けた花は、毎日のように「台無し」にされていた。生けた覚えのない花に取り替えられ、実優の努力など、初めからなかったことにされる。


「実優、もう一つ話があるの」


母の声に、新たな冷たさが混じる。


「鷹見家からの縁談を、受けることになったわ」


その言葉に、廊下を行き交う使用人たちの足音が止まる。


「まさか、あの鷹見家...」

「当主は鬼だという噂...」

「触れた者は皆、病に...」

「親さえも...」


囁き声が、実優の耳に届く。袂の中の手鏡に、思わず指が触れる。祖母の言葉が蘇る。「噂話で人を判断してはいけないよ、実優」


大志は窓の外を見つめたまま、一切反応を示さない。しかし、その横顔には微かな緊張が走っていた。彼は自分自身の完璧性を証明するためだけに生きているかのようだった。両親からの期待、華族としての重圧、そして何より自分自身への苛烈な要求。その重圧は、妹への非情な態度となって表れていた。


「茶会の手紙も、書き直しなさい。それと...」


母は一瞬言葉を切り、実優の反応を窺うように目を細める。


「鷹見家に挨拶状を書くのよ」


「はい」


一字一句、丁寧に認めた手紙も、必ず「乱れている」と言われる。書き直しても書き直しても、決して認められることはない。実優の努力は全て、否定されるために存在しているかのようだった。


「それと、縁側の掃除が不完全だったわ。父上様に申し上げておくわね」


実優は黙って頷いた。今夜も、父の烈火の如き叱責が待っている。実優が必死で磨いた縁側は、既に誰かの足跡で汚されているだろう。


使用人たちの声が、また廊下に漏れ始める。


「あの館に入ったら、もう二度と...」

「前の令嬢も、一月も経たずに...」

「触れられただけで、命を...」


実優の指が、再び手鏡に触れる。鏡面に映る自分の顔が、かすかに震えている。しかし、祖母の優しい眼差しを思い出し、実優は小さく首を振った。


庭の隅には、密かに育てていたフリージアが一輪、控えめに咲いていた。祖母が最後に教えてくれた花で、「希望」という花言葉を持つ。しかし実優が触れれば、それは「絶望」へと変わってしまう。だからこそ、彼女はその花に一度も触れようとしなかった。最後の希望を、自分の手で打ち砕きたくはなかったから。


書斎では、大志が新しい帳簿に向かっている。その姿は、まるで実優など初めから存在しなかったかのよう。実優は静かに立ち尽くしたまま、兄の背中を見つめていた。かつて、優しく頭を撫でてくれた温かな手の記憶が、遠い夢のように消えていく。その記憶は、大正という新しい時代の影に、静かに沈んでいくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ