表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

戻らない場所

作者: ヒカリ
掲載日:2025/08/14

この辺りで昔、船が沈んでな――。

釣りに行くたび、じいちゃんはそう言って笑った。


じいちゃんは海を知っていた。潮の流れも、魚の群れも、海が怒る前の匂いも。

でも俺が一番好きだったのは、魚じゃなく、じいちゃんと一緒に竿を垂らす時間だった。


ある夏の日、友達の健太と釣りに行こうとしたとき、玄関先でじいちゃんが言った。

「やめとけ。もうすぐ降る。……あそこは、濡れると戻れん」


意味がわからなかった。雨くらい、なんてことない。

それに、あの防波堤は子どもの頃から行き慣れた場所だ。


海は凪いでいた。空は少しだけ曇っている。

俺たちはいつものスポットで並んで釣り糸を垂らした。


三十分ほど経った頃、健太が「ちょっとトイレ」と言って防波堤の奥に歩いていった。

……そして、戻ってこなかった。


待っている間に、ポツリと雨が落ちた。

すぐに、波の匂いとは違う、生臭い風が頬を撫でた。


「おーい、健太!」


呼びかける声は、波音に吸い込まれていく。

振り返ると、海面に健太の影が立っていた。


波の上に、足跡はなかった。


次の瞬間、雨脚が強くなり、視界が白く滲んだ。

足元が急に重くなって、見下ろすと長靴の中に海水が満ちていた。

腰まで浸かるのは、一瞬だった。


気がつくと、俺は防波堤の上でひとり、全身びしょ濡れで立っていた。

健太の長靴が、俺の隣に揃えて置かれていた。


家に戻ると、じいちゃんが海を見ながらつぶやいた。

「……あそこはな、沈んだ船の連中が、帰り道を探しとるんだ」


俺は二度と、防波堤には行かなかった。

雨の日は、海の方から俺の名前がする。






五十年前、この沖で貨物船が沈んだ。

嵐に巻き込まれた船は、防波堤を目前にして座礁し、乗組員十数名を飲み込んだ。

救助隊が駆けつけたとき、海は静まり返っていた。

遺体は一人も見つからなかった。


それ以来、あの場所には雨の日に近づくな――というのが、港町の暗黙の掟になった。


海の底で、乗組員たちはまだ帰り道を探している。

雨が降ると、海面が鏡のようになり、上に映る世界が揺れる。

彼らはその揺れる光を、陸への道だと信じて近づく。


けれど、映るのは本当の陸ではない。

そこにあるのは、別の“水面”だ。

覗き込んだ者と、海底の影が、場所を入れ替えるための入り口。


だから、雨の日にあそこへ行った者は――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ