戻らない場所
この辺りで昔、船が沈んでな――。
釣りに行くたび、じいちゃんはそう言って笑った。
じいちゃんは海を知っていた。潮の流れも、魚の群れも、海が怒る前の匂いも。
でも俺が一番好きだったのは、魚じゃなく、じいちゃんと一緒に竿を垂らす時間だった。
ある夏の日、友達の健太と釣りに行こうとしたとき、玄関先でじいちゃんが言った。
「やめとけ。もうすぐ降る。……あそこは、濡れると戻れん」
意味がわからなかった。雨くらい、なんてことない。
それに、あの防波堤は子どもの頃から行き慣れた場所だ。
海は凪いでいた。空は少しだけ曇っている。
俺たちはいつものスポットで並んで釣り糸を垂らした。
三十分ほど経った頃、健太が「ちょっとトイレ」と言って防波堤の奥に歩いていった。
……そして、戻ってこなかった。
待っている間に、ポツリと雨が落ちた。
すぐに、波の匂いとは違う、生臭い風が頬を撫でた。
「おーい、健太!」
呼びかける声は、波音に吸い込まれていく。
振り返ると、海面に健太の影が立っていた。
波の上に、足跡はなかった。
次の瞬間、雨脚が強くなり、視界が白く滲んだ。
足元が急に重くなって、見下ろすと長靴の中に海水が満ちていた。
腰まで浸かるのは、一瞬だった。
気がつくと、俺は防波堤の上でひとり、全身びしょ濡れで立っていた。
健太の長靴が、俺の隣に揃えて置かれていた。
家に戻ると、じいちゃんが海を見ながらつぶやいた。
「……あそこはな、沈んだ船の連中が、帰り道を探しとるんだ」
俺は二度と、防波堤には行かなかった。
雨の日は、海の方から俺の名前がする。
五十年前、この沖で貨物船が沈んだ。
嵐に巻き込まれた船は、防波堤を目前にして座礁し、乗組員十数名を飲み込んだ。
救助隊が駆けつけたとき、海は静まり返っていた。
遺体は一人も見つからなかった。
それ以来、あの場所には雨の日に近づくな――というのが、港町の暗黙の掟になった。
海の底で、乗組員たちはまだ帰り道を探している。
雨が降ると、海面が鏡のようになり、上に映る世界が揺れる。
彼らはその揺れる光を、陸への道だと信じて近づく。
けれど、映るのは本当の陸ではない。
そこにあるのは、別の“水面”だ。
覗き込んだ者と、海底の影が、場所を入れ替えるための入り口。
だから、雨の日にあそこへ行った者は――