第001話 全ては灰になる 〜魔族になった防衛隊長〜
俺の名は、アヴ=グリーマ。
谷間の小村で、防衛隊長として二十年、剣を振ってきた。
誇りもあった。守るべき人々もいた。
俺には、それで十分だった。
——あの日までは。
森の見回りを終え、村へ戻る途中、ふと妙な胸騒ぎがした。
空気が重い。焚き火の匂いとは違う、もっと刺すような、焦げた臭い。
「……まさかな」
足が速くなる。まだ春の雪が残る土道を、靴を濡らしながら駆けた。
村の入り口。何人かの村人が、こちらに目をやってすぐ、視線を逸らした。
なぜだ? どうして、そんな顔をする。
「エリナ! レオ! 帰ったぞ!」
返事はない。焦げた風が、俺の頬を撫でた。
——家が、燃えていた。
いや、正確には、燃えた“あと”だった。黒焦げの柱。崩れた梁。
まだ燻る土壁の残骸。村人たちは近寄ろうとせず、誰も声をかけなかった。
「……なんだ、これは」
足が、震える。視界が歪む。
そのとき、瓦礫の中に見えた。赤い、布の切れ端。
妻がいつも髪に巻いていた、あの細工入りの飾り布——
「エリナ……? ……レオ……?」
理解が追いつかない。
近くにいた少年が、ふと漏らした。
「……罪人の家族って……本当に殺されるんだな……」
俺の中で、何かが崩れた。
——罪人? 誰が?
兵士の一人が言った。
「献上品の襲撃犯がこの村の者と判明した。
証拠も証言もある。……あんたの家族は、王命により処刑された」
意味がわからなかった。俺は護衛任務には就いていない。村にいた。なぜ俺が?
だが、俺は気づいていた。あの時の、セリオン家の目。
酔って村娘に手を出そうとしたあの若貴族を俺が止めた、その夜の、目。
——逆恨みか。
すべてが、繋がった。
「うおおおおあああああッッ!!」
咆哮が、焼け跡の空に響いた。
天を裂くような怒声が、ただひとりの男の心を引き裂いていた。
誰も助けてはくれない。村人たちは沈黙を選んだ。
俺は、村を出た。剣も、家も、名誉も、何もかも置いて。
あるのは、喪失と、怒りだけだった。
——雪の残る峠を越え、夜の森をさまよっていたときだった。
「その目……いいね」
焔のように赤い瞳を持つ男が、木陰から現れた。
「怒ってる。悔しがってる。……燃えそうだ」
漆黒の鎧。口元に笑み。名を、ガルブレイズというらしい。
「お前、魔族になってみないか?」
後ろにいた女が、黒いローブを翻した。
彼女は黙って俺に骨壺を差し出した。中には、炭化した小さな骨があった。
「……これは、お前の家族の骨だ。憎しみで契約しろ」
その夜、儀式は始まった。
廃神殿。闇と灰に包まれた空間。俺は中央に立ち、両手を血で濡らした。
ファルナが詠唱を始め、灰が空を舞う。
ガルブレイズが叫ぶ。
「契約せよ。怒りと共にあれ。血をもって記せ、絶望の名を!」
俺は叫んだ。
「我は名を捨てる。我は全てを失った者。我が名は……灰に刻まれる!」
黒い雷光が神殿を裂いた。俺の体に黒紋が浮かび、目が血に染まる。
背から瘴気が噴き出し、全身が灼熱に包まれる。
「うぉぉぉぉあああああッ!!」
灰が俺の体に集まり、黒き鎧となって纏いつく。
「……これが、魔族の力か」
笑いが漏れた。燃え尽きた心に、今はただひとつの言葉だけがあった。
「全ては、灰に——」
ガルブレイズが満足そうに頷いた。
「気に入ったよ、アヴ=グリーマ。お前の怒りは……最高だ」
その夜、魔族アヴが生まれた。
そして世界は、焔に包まれ始める——。