第6話 トンネル
旧トンネルは、裏山の麓近くにあった。かつて山を貫くために作られたが、工事中に事故があったとかで、途中で放棄されたという。今では朽ちたコンクリートで覆われ、錆びた鉄柵で封鎖されている。黒い穴のように口を開けたトンネルの入り口が、ボクらを飲み込もうとしているかのようだった。
「ここだ」
三人はトンネルの前に立った。日はすっかり沈み、辺りは闇に包まれていた。持参した懐中電灯の光が、不気味な影を作る。
鉄柵の一部は歪んでおり、小柄な子供なら簡単に中に入れそうだった。トンネルの内部は真っ暗で、懐中電灯の光も数メートル先で闇に飲み込まれてしまう。
「最後のステップ」えっちゃんは紙を見た。「夢のキーワードを唱えるんだって」
「どこで?」ヤンマが訊ねた。
「トンネルの中…」
「待って」ヤンマが彼女の腕を掴んだ。「中に入るの?それは危ないよ」
「大丈夫」えっちゃんは彼の手を優しく解き、微笑んだ。「少しだけだから」
ボクはトンネルを見つめた。入口近くには落書きや空き缶が散乱していたが、少し奥に行くと完全な闇だった。どこまで続いているのか、見当もつかない。
「えっちゃん」ボクが声をかけた。「本当に入るの?」
「うん」彼女はボクを見た。「だって、ここまでやったもの。最後までやらなきゃ」
「でも…」
「大丈夫だって」えっちゃんは優しく笑った。「ほら、カズくんも一緒に来てよ」
彼女は手を差し出した。ボクは迷った。えっちゃんの手を取りたい。いつも通り、彼女についていきたい。でも、心の奥で何かが警告していた。
ヤンマが前に出た。
「俺が先に行ってみる」
「え?」
「危なくないか確認するよ」彼は懐中電灯を手に取った。「星野とカズは、ここで待ってて」
彼は鉄柵の隙間をすり抜け、トンネルの中へ消えていった。懐中電灯の光だけが、闇の中で揺れている。
「ヤンマ、気をつけて…」
えっちゃんが小さく呟いた。二人は無言で、揺れる光を見つめた。
突然、光が止まった。そして、うめくような声が聞こえた。
「ヤンマ?」
えっちゃんが叫んだ。返事はない。
「ヤンマ!大丈夫?」
再び叫ぶと、やっと懐中電灯が動き始め、彼の姿が見えた。
「大丈夫…」
ヤンマの声は震えていた。彼は急いで戻ってきた。顔が青ざめている。
「中は…何もない。ただの古いトンネルだよ」
嘘をついているのは明らかだった。
「何かあったの?」
「ううん、何も…」ヤンマは首を振った。「でも、これ以上は行かない方がいい。床が抜けそうなところがあって」
ボクはヤンマの手を見た。震えていた。彼は何かを見たのだ。何かを感じたのだ。
「もう帰ろう」
ヤンマが提案した。しかし、えっちゃんは首を横に振った。
「私は行く」
「だめだ」ヤンマの声が強くなった。「危険すぎる」
「でも、これが最後のステップなの」
えっちゃんの目は、懐中電灯の光に照らされて異様に輝いていた。
「私、行くよ。カズくんも来る?」
再び彼女は手を差し出した。ボクは胸の奥で何かが引き裂かれるような感覚を味わった。
「ボク…」
言葉が出ないほどの恐怖と、一生の別れになるかもしれないという予感が、胸を締め付けた。
「カズくん」えっちゃんは優しく言った。「怖くないよ。私と一緒だよ」
彼女の手が、闇の中で白く光っているように見えた。
トンネルから冷たい風が吹き出してきた。その風に乗って、かすかな囁き声が聞こえる。「おいで」と。
「カズ、行くな」
ヤンマが低い声で言った。彼はボクの肩をぎゅっと掴んだ。
「ボクも行くよ…」
ボクは言った。本当はトンネルの暗さが怖かったけれど、えっちゃんと離れるほうがもっと怖かった。
えっちゃんは初めて聞くような優しい声で言った。
「カズくん、ありがとう。でも、無理しなくていいんだよ」
「無理なんかしてない!」ボクは急に大きな声を出した。「えっちゃんといつも一緒にいたいから…」
えっちゃんは小さく笑った。それから、トンネルの入口に近づいた。
「じゃあ、行こうか」
彼女が一歩踏み出したとき、ボクの体が固まった。トンネルの闇が、まるで生き物のように見えた。ボクはえっちゃんの後ろに続こうとしたが、足が動かなかった。
「えっちゃん…」
彼女は振り返った。
「何?」
「ボク…ボクは……」
言葉が詰まった。えっちゃんが近づいてきて、ボクの顔をのぞき込んだ。
「怖い?」
ボクは小さくうなずいた。自分が情けなく思えた。
「大丈夫だよ」えっちゃんは言った。「私が先に行くから」
「でも、えっちゃんだけじゃ…」
「大丈夫」彼女は微笑んだ。「カズくんは、ここにいていいんだよ」
その言葉に、ボクの中で何かが崩れた。
「でも…えっちゃんといつも一緒にいたいんだ」
「カズくん」えっちゃんは真剣な顔になった。「あのね、私が行きたいのは、私じゃない私になれる世界なの。でも、カズくんはカズくんのままでいいんだよ」
ボクは、えっちゃんの目をまっすぐ見つめた。そこには悲しみと、何か強い決意のようなものが見えた。
「でも、えっちゃんは帰ってくるの?」
彼女は少し考えるように目を閉じた。
「わからない。でも、私は私のままじゃいられないの」
ボクは突然、涙があふれてきた。
「行かないで…」
「カズくん」えっちゃんはボクの肩に手を置いた。「私ね、カズくんのこと、すごく信頼してるんだ。だから、ここで待っていてほしい」
「待っててほしい?」
「そう」彼女はうなずいた。「私が行くべき場所に行って、もし帰れることがあったら、その時はカズくんに会いに来るから。だから、ここで私を待っていてほしい」
えっちゃんの言葉に、ボクの心に何か光のようなものが灯った。
「待ってるよ、絶対」ボクは言った。涙を拭いながら、小さな勇気が湧いてきた。「えっちゃんが帰ってくるまで、ぼくはここで強くなる。たけしたちにも負けないようになる」
えっちゃんは初めて見るような、晴れやかな笑顔を見せた。
「そうだね。きっとカズくんなら大丈夫」
彼女はボクの頬に軽くキスをした。
「ヤンマ」彼女は振り返った。「ありがとう、いつも私のこと守ってくれて」
「やめろよ…」ヤンマの声が震えた。「まるで、さよならみたいじゃねえか」
「カズくん」えっちゃんはボクを見た。「別々の世界へ行っても、心は一緒だよ」
そして、トンネルの方へ向き直った。
「じゃあ、行ってくるね」
彼女は笑顔でくるりと踵を返し、トンネルへ向かった。
鉄柵の隙間をすり抜けた懐中電灯の光が、トンネルの奥へ消えていく。えっちゃんの姿が、次第に闇に溶けていった。
そして、最後に聞こえたのは彼女の声だった。
「水と緑…光と鳥…」
言葉が反響し、消えていく。そして、完全な静寂――。
「えっちゃん…」
ボクは固く握りしめた拳を胸に当てた。
「待ってるからね」
ボクの声は、夕暮れの風に乗って消えていった。
トンネルの中にはもう誰もいなかった。
―プロローグへ続く―