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第2話 えっちゃん

教室のドアを開けた瞬間、笑い声が止んだ。

「お、カズヤ」

たけしの声だった。身長も体格も一回り大きい彼は、4年2組の中心的存在だった。その一言で、ボクに向けられた視線が一気に冷たくなった。

「おはよう…」

ボクは小さな声で挨拶をして、自分の席に向かった。誰も返事をしない。そっと椅子を引いたとき、どこかから忍び笑いが聞こえた。

「まあまあ、座ってごらん」

たけしが甘ったるい声で言った。何かある。そう悟った時には遅かった。椅子に座った瞬間、ボンッと小さな音と共に、冷たい感触が広がった。

水風船――。

ズボンは見事にお尻から太ももにかけて濡れていた。教室中が爆笑に包まれる。

「ほら、カズくんったらまたおもらししちゃったよ」

たけしが悪意のある笑みを浮かべた。ボクは顔を真っ赤にして立ち上がった。言い返す言葉が見つからない。


「先生来た!」

誰かが叫び、教室はすぐに日常の姿に戻った。まるで何事もなかったかのように。

授業中、ボクはずっと濡れたズボンを気にしていた。幸い、座っていれば他の人からは見えない。でも、これから6時間、ずっとこのままでいるつもりかと思うと、涙が出そうになった。

昼休み、ボクは誰にも気づかれないようにそっと教室を出た。トイレで少しでも乾かそうとしていると、外から声が聞こえた。

「カズくん?いるの?」

えっちゃんだった。

「う、うん…」

トイレのドアを開けると、えっちゃんが心配そうな顔で立っていた。

「噂を聞いたよ。たけしたちが、また…」

ボクは黙って頷いた。えっちゃんは何も言わず、手提げ袋をボクに差し出した。

「これ、着替え。ヤンマに借りた体操着。少し大きいかもしれないけど、とりあえず」

ボクは驚いて目を見開いた。

「でも、どうして…」

「教室の前を通ったら、たけしたちが笑ってたから。何かやったんだろうなって思って」

えっちゃんは当たり前のように言った。まるで、ボクが困っていることを察することが、彼女にとっては自然なことであるかのように。

「ありがとう…」


体操着に着替えると、確かに少し大きかったが、濡れたズボンよりずっと快適だった。

「えっちゃん、いつもごめんね。こんなことで」

「何言ってるの」えっちゃんは笑った。「私たち、友達でしょ?」

その言葉は、暗い気持ちを一気に吹き飛ばしてくれた。


ボクはふと、数年前のことを思い出していた。

あれは確か、ボクが小学2年生で、えっちゃんが小学4年生の時だった。

団地の中庭にある小さな公園で、ボクは一人で砂場遊びをしていた。夕暮れ時、公園には子供たちの姿はもうなく、ただ風に揺れるブランコだけが寂しげに音を立てていた。

「ねえ、お前、ウチの砂場から砂取ったろ?」

突然、6年生くらいの三人組が現れた。リーダー格の少年は、ボクより頭二つは大きかった。

「え?」

ボクは何を言われているのか理解できなかった。

「とぼけんなよ。お前がウチの庭の砂取ったって親父が怒ってんだよ」

理不尽な言いがかりだった。だが、小さなボクには反論する勇気もなかった。

「違うよ…ボク、そんなことしてない」

「あ?しらばっくれんなよ!」

少年がボクの襟を掴んで引き上げた。足が宙に浮き、呼吸が苦しくなる。

「やめて!」

必死で叫んだが、相手は笑うだけ。そのとき。

「そこまで!」

凛とした声が公園に響いた。振り返ると、石ころを手に持ったえっちゃんが立っていた。小学2年生ながら、その目は恐れを知らない炎のように燃えていた。

「お前、誰だよ」

「そのコを放せ、今すぐ!」

えっちゃんの声は冷たく、断固としていた。少年は一瞬ひるんだように見えたが、すぐに笑った。

「へぇ、ちっちゃいくせに生意気だな」

「5秒あげる。放さないと、これを投げる。当たったら痛いよ」

えっちゃんは手の石をちらつかせた。少年は再び笑った。

「おもしれぇ」

「5、4、3…」

えっちゃんは本当に数え始めた。その真剣な表情に、少年はようやく気づいたようだった。

「…ちっ、めんどくせぇな」

ボクを放してくれた少年は、仲間と共に踵を返した。

「つまんねぇガキだ」

三人が去った後、えっちゃんはすぐにボクの元へ駆け寄った。

「大丈夫?」

ボクは震える手でシャツの襟を直しながら頷いた。

「うん…ありがとう」

「怖かったね」えっちゃんは優しく言った。「でも、もう大丈夫だよ」

「えっちゃん、すごいね…怖くなかったの?」

「怖かったよ」

彼女は正直に答えた。

「でも、もっと怖かったのは、カズくんがいじめられてるのを見てるってこと」

その時、ボクの中で何かが変わった。この少女は特別だ。自分のために立ち向かってくれる、勇気ある人だ。

「ブランコで遊ぼうか」

えっちゃんは震えているボクを見て、落ち着かそうと思ったのか、塗装し直したばかりのブランコに誘った。えっちゃんはブランコに座ると言った。

「これからも、何かあったら必ず呼んでね。私が守るから」

そして、えっちゃんは思いっきりブランコを漕いだ。勢いよく揺れるえっちゃんの笑顔を見ていると、ボクはなんだか楽しくなって笑った。いつの間にか、震えも止まっていた。


「カズくん?どうしたの?」

現実に引き戻され、ボクはえっちゃんを見つめていた。

「ううん、ちょっと昔のこと思い出してた」

「昔?」

「うん、公園で中学生に絡まれたとき、えっちゃんが助けてくれたこと」

えっちゃんは少し照れたように笑った。

「あれ、覚えてるんだ」

「もちろん!」ボクは真剣に言った。「あれ以来、ボクはえっちゃんが大好きになったんだよ」

言葉が出た瞬間、顔が熱くなった。えっちゃんも少し赤くなったが、すぐに普通の表情に戻った。

「私も、カズくんのこと大好きだよ」

そう言って彼女は笑った。でも、きっとその「好き」の意味は違う。ボクは少し切なくなったが、それでも彼女の傍にいられることが嬉しかった。

「もう授業始まるよ。大丈夫?」

「うん、大丈夫」

教室に戻る途中、えっちゃんが言った。

「ねえ、明日の転生の手順の話、覚えてる?」

「うん」

「私ね」えっちゃんは耳に手をやった。「もし本当に行けたら、何になりたいか決めたんだ」

「何に?」

「秘密」

彼女は人差し指を唇に当てて微笑んだ。

「でもね、人を助ける仕事がしたいな」

それはまさに、えっちゃんらしい選択だった。いつも誰かのために立ち上がる彼女。そんな彼女の傍にいられることが、ボクの小さな幸せだった。

「明日が楽しみだね」

ボクはそう言いながら、本当にただ「楽しみ」なのかどうか、よくわからなくなっていた。えっちゃんを異世界に行かせたくない気持ちと、彼女と冒険したい気持ちが入り交じっていた。

明日、本当に「転生」なんてできるのだろうか。そして、それはボクたちの絆をどう変えていくのだろうか。

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