第1話 ウワサ
「カズくん、また待たせちゃった?」
振り返ると、階段を駆け下りてくるえっちゃんがいた。長い黒髪が風になびき、小学6年生とは思えない大人びた雰囲気を漂わせている。それでも彼女が背負っているのは、キティちゃんのキーホルダーがついた古びた水色のランドセル。相変わらず可愛いものが好きなんだなと、ボクは思った。
「ううん、全然」
ボクは、緑塚団地C棟の1階エントランスで首を横に振った。実際には10分以上待っていたが、えっちゃんを待つのは苦ではなかった。同じ棟に住む2つ年上のえっちゃんは、幼い頃からボクの面倒を見てくれる、姉のような存在だった。
「行こっか」
えっちゃんはそう言って、ボクの横を歩き始めた。団地から小学校までは徒歩10分。この道のりが、毎日の楽しみだった。
「あのさ、カズくん」
突然、えっちゃんが立ち止まった。5月の朝の陽射しが、彼女の横顔を優しく照らしていた。
「なに?」
「最近、変なウワサ、聞いてない?」
えっちゃんは少し神妙な顔になって言った。
「ウワサ?」
「うん。『転生』について」
その言葉に、ボクは息を呑んだ。確かに昨日、4年2組の田中から聞いたばかりだった。
「もしかして、裏山の…あれ?」
えっちゃんの顔が明るくなった。
「やっぱり知ってるんだ!」
ボクは周囲を見回してから、小声で言った。
「うん。正しい手順を踏めば、異世界に転生できるって噂」
えっちゃんは頷き、再び歩き始めた。しばらく沈黙が続いた後、彼女は突然言った。
「私、転生したい」
その言葉に、ボクは足を止めた。えっちゃんの表情は真剣そのものだった。
「えっ、なんで?」
「理由はある」
えっちゃんはそれ以上は話さなかった。ただ、どこか遠くを見るような目をしていた。その目は、いつものきらきらした瞳ではなく、何かに怯えているように見えた。
「カズくんは? 転生したくない?」
その問いに、ボクは学校での出来事を思い出した。たけしたちからのいじめ。机の中に入れられた生ゴミ。体育の時間に隠されたシューズ。そして、誰も助けてくれない孤独。
「ボクも…行きたい。ここじゃないどこかに」
言葉にした瞬間、胸の奥がほんの少し軽くなった気がした。
「よかった」とえっちゃんは微笑んだ。
「じゃあ、やってみよう。転生の手順」
「本当に?でも、うまくいくのかな」
「わからない。でもね」
えっちゃんは空を見上げた。
「試してみる価値はあると思う」
そのとき、背後から声がかかった。
「おーい、星野!」
りっちゃんを呼ぶ声。振り返ると、小走りでこちらに向かってくる少年がいた。背が高く、スポーツ刈りの髪型に、眩しいほどの笑顔。ヤンマだった。えっちゃんのクラスメイトで、野球部のエースピッチャー。
「おはよ、ヤンマ」
えっちゃんの表情が、一瞬で明るくなった。ボクは胸に小さなトゲが刺さるような感覚を覚えた。
「カズも元気か?」
ヤンマはボクにも笑いかけてきた。嫌味のない、純粋な笑顔だった。だからこそ、ボクは素直に返事ができなかった。
「う、うん…おはよう」
「ねえ、ヤンマ」
えっちゃんが少年の袖を引いた。
「あの噂、知ってる? 裏山の西の祠で何かをすると、異世界に行けるっていう」
ヤンマは眉をひそめた。
「ああ、あれ。聞いたことはある。でも、ただの都市伝説だろ?」
「私、試してみようと思うんだ。カズくんと一緒に」
ヤンマの表情が一変した。
「マジで? 危なくないの?」
「大丈夫だよ。ただの儀式みたいなものだし」
えっちゃんは笑って言った。
「それに、ヤンマも来てくれると嬉しいな」
ヤンマは一瞬、困ったような顔をしたが、すぐに肩をすくめた。
「まあ、星野が行くなら、俺も付き合うよ。誰か見張り役が必要だろ」
「やった!」
えっちゃんは小さく跳ねた。
「じゃあ明日の放課後、裏山の入口で待ち合わせね」
ヤンマは頷き、えっちゃんに笑顔を向けた。その表情には、何か不安げなものが混じっていたように見えた。
「あのさ、本当に異世界に行きたいの?」
ヤンマの真剣な問いに、えっちゃんは少し黙った後、静かに頷いた。
「うん。どうしても」
「わかった」とヤンマは力強く言った。
「なら、手伝うよ」
そうして三人は、小学校の門に向かって歩き始めた。ボクの心の中には、期待と不安が入り混じっていた。本当に異世界へ行けるのだろうか。そして、もし行けたとして…それは本当に良いことなのだろうか。
「カズくん」
歩きながら、えっちゃんがボクの手を軽く握った。彼女の手は、暖かかった。
「明日から、冒険の始まりだね」
ボクは無言で頷いた。転生の手順。それは、ボクたちの運命を永遠に変えることになる、小さな一歩の始まりだった。