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どうと抜けた居場所

 4年を過ごした自分の家に、屋根がないことに気づいたのは3年目の秋だった。

 青空に覗きこまれていたのだ。私は何もかもを、空に見られていた。


 それはそれとして、冷たい制服に腕を通した。シュルシュルとカッターシャツが擦れ、凍り付くような床にべったりとついた足が霜焼けになって燃え始めた。

 私は慌ててコップに水を注ぎ、そのままぶちまけた。幸いなことに火はすぐに収まり、機嫌の悪いエアブレーキに乗り込んで、車窓から溶け出す朝日にまどろむことになった。


おはよう。おはよう。ねえ聴いて、昨日さ。え、なになに。


 私は懸命に震えに耐えた。体ががたがたと動き出し、いずれ地震の中心になってしまうことを恐れた。台風だったのだろうか?

 いや、大自然にはなれなかったのだ。そうだ、そうだ。不思議と悲しい気持ちがわいてきて、シャープペンシルが転がってきたのに、叫びをあげた。

 勢いよく跳ね上がり、それを拾うと、ふと誰が落としたのか見ていなかったことに気づいて、一人ずつそれを見せて確認した。


「これはあなたが落としましたか?」

「これはあなたが落としましたか?」

「これはあなたが落としましたか?」

「これはあなたが落としましたか?」


 誰も言葉を返さなかった。半分身を引いて、首や手を小さく振るだけで、私は独りぼっちだった。依然として独りぼっちだった。

 ものを落としたのは私だった。それを座席に置いて去る他に方法が無かった。寂しく、悲しい気持ちになった。



 橋田駅で降りた私は、他の学生に紛れてしまったまま、熱い缶コーヒーを買った。砂糖がたくさん入った、甘いやつだ。

 あったかくて、甘くて、しあわせな気持ちになる。


 私はようやく冬の朝の一部になれた気がして、震えが収まっていくのを感じた。はわと吐いた息が湯気になって、ゆっくりと昇る。

 駅のホームには、急行を待つ人が少し残るばかりだった。


「おはよう、外間君」


 私は人参を掘り起こすために葉を掴み、声に応えた。


「おはよう。これ、おいしいんだ。あったかいんだ」

「そう?じゃあ、僕も買おうかな」


 人が自動販売機にお金を入れたところを見て、私はおかしくなってきて、笑った。


「あっはっはっはっは!!!おかしい!!あっはっは!!」

「え、なになに? 僕、何か変なことした?」


 急に声が聴こえてきて、私は驚いた。目が丸くなっていたかもしれない。なにか、私と同じコーヒーを持っている人が喋り始めた。


「行こう。ん、これ甘いんだね」


 私はその意味が全く分からず、腕を組んで唸ってしまった。


「それ、どういうことですか? すごい速度で回転しているようですが」

「回転? コーヒーが? 外間君は変なことを言うね」

「ああ、ぐるぐると回っているよ」

「そっかー。(この男は、たびたびコーヒーを口にした。)外間君、これ好きなんでしょ? 甘党なんだ」

「苦いコーヒーを飲むこともある。人の好みは不可解だ。今はこれが好きだ」

「あるよね、気分」


 この男は教室につくと、低木の茂みの方に歩いて行った。私は自分の席について、数学の教科書を開いた。

 等比数列の和をまだ覚えていないのだ。1とrが頭を滑り、首をかしげるたびに転げ落ちてしまう。数列は公差のn-1乗で増加し、和は分子に1-rのn乗が来る。似て非なる形が私を苦しめる。

 しかし、ここで覚えなくてはきっと後の授業もわからないから、頑張りどころだ。何度もつぶやきながら書き、諳んじるまで繰り返す。


 誰もかも、形だけではわからない。顔を見ても、その人の家があるかはわからない。一見、快活で人気者であっても、家がない人もいるだろう。私を見て、家があると思わない人もいるはずだ。実際、屋根はない。


「おはよう、外間君」

「あ、おはよう」


 東屋雪子が話しかけてきた。東屋は、よく私に話しかけてくる。長い黒髪はつやがあり、よく手入れされていることがわかる。美しい顔立ちで、学校では人気者だ。立派な家を持っているのだろう。建付けの良い、桧でできた家があるだろう。滑らかな床がうらやましい。


「東屋さん、それ」

「ああ、これ? ちょっと、ケガしちゃって」


 東屋の腕には包帯が巻かれていた。東屋はよくけがをする。この前も絆創膏をしていた。運動もニガテではないはずだが、おっちょこちょいなのかもしれない。


「ね、外間君って、兄弟いるの?」

「ああ、弟がいるよ。でも、一人暮らしだから、いないのかも」

「ふふ、会ってなくても、いないわけじゃないでしょ」

「そうかも。東屋さんは、いる?」


 東屋は「お姉ちゃんが」と言った。

 東屋は鞄から教科書を出して、水筒をあおった。


「おはよう、雪子。どうしたのそれ」

「ん、……おはよう秋戸君。ちょっと転んだだけ。1時間目って数学だよね」


 コーヒーの男だ。彼と東屋は仲睦まじく話している。時折二人ははにかみ、甘酸っぱい雰囲気になる。

 私はカボチャが振ってきたことを僥倖に思い、大きな声で叫んだ。


「正史!」


 しんと水面が凪ぎ、秋戸がびくりと、腕で顔を覆った。

 カボチャが真っ二つに割れて、オレンジ色の実がこぼれる。私はとても嬉しくなって、ワックスで整えられた彼の黒髪にりんごを置けば、それが転がり落ちるさまをまるでニュートンを追憶するように見ただろう。


「あはははははは!あははははは!!」

 私は秋戸の手を強く握って肩を軽く叩いた。


「おはようございます、秋戸君」


 秋戸は青ざめた顔で苦笑した。

「びっくりした。あ、挨拶はさっきしたじゃん」


 私はうなずいて、席について教科書を睨みなおした。海が再び波を取り戻し、二人が話し始めたのを聴いて、私は頬が緩むのを止められなかった。


 私の家には屋根はなかったが、柱や壁や窓があったのだ。二人の会話に、涼しい気持ちがした。

一 東屋さんと秋戸くんの言動

二 屋根がないと語る理由

三 人々が帰る「家」

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