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裏切りの片割れ月  作者: 小鈴 莉子
六章 神降ろしの儀
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帰る場所

「包帯を巻き直すから、こっちに来て。あと、右手の手当ても……」


「いや、そんなことより、鈴の足の治療が先だろ」


 背負っていた荷物を下ろしながら、鈴へと近づく。幸い、狼たちにリュックサックは奪われなかったため、応急手当をする分には問題ないはずだ。


「鈴、ちょっとごめんな」


 鈴の怪我の度合いを確かめるため、傷口を視線でなぞる。


 皮膚諸共、肉を食い破られていたものの、不幸中の幸いというべきか、骨が覗くほどではなかった。

 それでも、普通の人間ならば、失禁していてもおかしくないほどの激痛に襲われていたに違いない。今だけは、鈴の痛覚が正常に機能していなくてよかったと、心の底から思う。


 でも、こんな大怪我をした際、どう対応すればいいのか、伊月には分からない。ちらりと見遣れば、鈴も難しい顔をしていた。


 とにかく、まずは止め処なく溢れ出す鮮血をどうにかしなければならない。

 リュックサックから取り出した清潔なタオルを傷口に当て、包帯をきつく巻いていく。


 これほどの傷に水をかけてもいいものなのか、判断がつかない以上、とりあえずきつく縛っておくしかない。あとは、専門家に対処を任せるべきだ。


 包帯が解けてしまわないよう、伊月の袴の裾を破り、その布を包帯の上に覆うようにして巻きつける。


「伊月、ありがとう。伊月の怪我の手当ては私がするから、水とタオルと包帯をこっちにちょうだい」


 残ったタオルは既に伊月の血で汚れてしまっているが、他に拭くものがない。だから、今はこれを使うしかないのだ。


 鈴に言われるがまま、頼まれたものを手渡せば、労わるように甲斐甲斐しい手当てを受けた。

 最後の仕上げに包帯を巻き終えたところで、鈴は吐息を一つ零す。


「……伊月、神器はちゃんと持ってきたよね」


「ん? あ、ああ」


「麓までの道も、覚えてるよね」


「……鈴?」


 鈴の口振りに違和感を覚えて名を呼べば、もう暗緑色に戻っていた双眸が伊月をまっすぐに見据えてきた。


「伊月一人なら、何の問題もなく麓まで行ける」


 鈴が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。いや、脳が理解することを拒絶しただけかもしれない。


「な、にを……」


「伊月も、分かるでしょう? 私の足は使い物にならなくて、立ち上がることもできない。伊月は肩を怪我してるから、私を背負ってくことも抱えてくことも、難しい。……なら、私を置いて、伊月だけでも神器を持って山を下りるしかないでしょ」


「な……っ! 自分が何を言ってるのか、分かってるのか! 母さんも他の奴らも、明け方までに下りてこなかったら、容赦なく置いてくつもりなんだぞ? 鈴一人を、ここに置き去りになんかできるか」


 伊月が口にした言葉は、紛れもない事実だ。母も他の八神一族も、指定した時間までに姿を現さなければ、容赦なく見捨てていくのだろう。

 だが、伊月の反論を意に介さず、鈴は尚も淡々と言い募る。


「大丈夫。さっきの大神の言うことが本当なら、この程度の怪我、きっと自力で治せる。そうしたら、自分の足で山を下りて、警察でも何でも助けを求めて、八神の屋敷まで送ってもらう。それで、門前払いされるようだったら……きっと、どこかの施設にでも連れてってくれるでしょ。私はまだ、小学生なんだから」


 鈴の言い分は理路整然としており、耳を傾けているうちに正しいことのように思えてくる。


 しかし、鈴の怪我が自然と回復する保証はどこにあるのか。仮に治せるとして、ろくに身動きが取れない無防備な状態で山奥に取り残されて無事で済むと、本気で思っているのか。


 そもそも、水も食料ももうほとんど残っていないのに、どうやって生き延びるというのか。防寒具だってないのだから、この季節の夜の山をやり過ごせるとは、到底思えない。


 様々な懸念事項が水面を目指す水泡のごとく浮上する中、鈴はやはり伊月を安心させるように微笑むのだ。


「心配しないで、伊月。きっと何とかなるから。私は、大丈夫だから。だから――先に行って」


 何とかなる根拠も、大丈夫だと思えるだけの安心材料もないくせに、鈴は一切の迷いのない目でそう言ってのけた。

 しばし逡巡し、やがて深く息を吐き出す。


「……分かった」


 伊月が物分かり良く返事した直後、鈴の表情が安堵にほっと和らいだ。


 リュックサックの中身を確かめ、なるべく荷物を軽くするため、いらないと判断したものは放り捨て、必要最低限の量まで減らしていく。そして立ち上がると、身体の前面からショルダーハーネスを両肩に引っ掛け、狩衣の袖を思い切り引きちぎる。


「伊月?」


 何をしているのかと言わんばかりの呼び声を無視し、壁に立てかけていた神器を手に取ると、鈴の背後に立つ。刃を鞘に収め直してから、引き裂いたばかりの布で鈴の胴体に剣をくくりつけ、問答無用で背負わせる。


 強度を確認し、これならばそう簡単には解けて剣が落ちたりしないだろうと確信したところで、鈴の前へと回り込むや否や、背を向けてしゃがみ込む。


「鈴、乗れ。麓まで、俺がおぶってく」


「……伊月、私の話聞いてた?」


「何とかなるんだろ、大丈夫なんだろ。それなら――俺が何とかしてやる」


 肩越しに振り返れば、案の定、信じられないと言わんばかりの表情で、鈴が伊月を見つめていた。

 いつまで経っても伊月の背に乗ろうとしない鈴の手首を掴み、強引に引き寄せる。そして、どうにか鈴を背負ったところで立ち上がった途端、また左肩に激痛が走った。


(そりゃ、そうだよな……)


 今の伊月は、必要最低限の量まで減らしたとはいえ、登山用リュックを持ち、刀剣を身体に縛り付けた鈴を背負っているのだ。たとえ肩を負傷していなかったとしても、このまま下山するのは至難の業だったに違いない。


 でも、必死に肩の痛みから気を逸らし、鈴が落ちないように注意を払いつつも歩き出す。


「伊月。お願い、下ろして。これじゃあ、また肩の傷が開いちゃうよ」


「……麓までの辛抱だ。そこまで行けば、病院でもどこでも連れてってもらえるだろ」


「私のことはいいから。お願い、伊月だけ先に――」


「――耳元で、ごちゃごちゃうるさい。ちょっと黙ってろよ」


 こちらとしては、背にのしかかる重みと痛みで、ただでさえ気が散りまくっているのだ。無事下山するまで、静かにしていて欲しい。


 伊月が投げやりな口調で鈴の言葉を遮れば、何を思ったのか、肩を掴む手にわざと力を込められた。そのせいで、もう幾度目になるか数えきれなくなった激痛に襲われる。


「おい……っ!」


「……こんな怪我をしておいて、私をおぶって麓を目指すとか、馬鹿じゃないの」


 咄嗟に肩越しに背後を振り返れば、目に涙を溜めた鈴に睨まれた。感情が大きく揺れているのか、その声は震えている。


「伊月。貴方が私を置き去りにしても、誰も貴方を責めない。だから、何の心配もしないで、今からでも私を下ろして先に行って」


「責められたくないから、こうしてるわけじゃない。というか、さっきからそっちの言い分を俺に押しつけるの、やめろよ」


「伊月の聞き分けが悪いからでしょう」


「悪かったな、鈴みたいに聞き分けが良くなくて」


 すぐに視線を正面に戻し、一度も立ち止まらないまま山道を下っていく。下り道だからか、背負っている重みの負担が余計に肩へとのしかかっていく気がする。


「……伊月、どうして?」


 疑問を呈する鈴の声は、先程よりももっと震えていた。


「どうして、ここまでしてくれるの? 本当は痛くて痛くて、しょうがないくせに。なのに……どうして? 私がいなくなれば、何の問題もなく伊月が八神の跡取りになれるんだよ? 当主の座、伊月は欲しくないの?」


「……鈴を犠牲にしてまで、いらないよ。そんなもの」


 祖母や母、それから親戚たちがうるさいだけで、伊月が八神本家の当主という立場に魅力を感じたことは一度もない。できることならば、他の人間に譲りたいくらいだ。


「伊月だって、伊月だって……本当は、私さえいなければって思ってるくせに……!」


 顔を見なくても、泣いているのだとはっきりと分かる声が、伊月を詰る。


「私、私が……! 私が戻っても、誰も喜ばないでしょ? 私、いらない子だもの。八神の人が好きで私のことを引き取ったわけじゃないって、知ってるもの。い、伊月だけだったんだよ。私と一緒にいて、心から喜んでくれたの。なのに、伊月にもいらないって言われたら、私、どこに帰ればいいの……?」


 鈴の声からは、確かな怒りと共に、帰る場所が分からなくなってしまった子供みたいな寄る辺のなさも感じられた。


(……そっか、鈴は――)


 ――今までずっと、こんなにも理不尽さと不安と孤独を抱えて生きてきたのか。それでも、そんなことはおくびにも出さず、咲き誇る花みたいに笑っていたのか。


 それなのに、伊月の一時の感情に身を任せた言葉が、これまで鈴が積み重ねてきた努力を踏み躙り、その心を抉ったというのか。


「私……帰れない。帰る場所がない。だから、もういいの。これで、いいの。だから……」


「……謝る、から」


 先刻まで、生きるか死ぬかの戦いをしていた影響だろうか。それとも、山道を登ってきた疲労が出てきたのだろうか。


 だんだんと息苦しくなってきた。痛みと熱がぶり返したせいで、視界も歪んできた。ただでさえ、辺りは鬱蒼とした木々が生い茂り、深い夜の闇に沈んでいてよく見えないというのに、ますます視覚が頼りないものになっていく。鈴も神器も、普段よりも遥かに重く感じられる。


「だから……! 鈴も、傷ついたなら傷ついたって、はっきり言えよ! もっと怒れよ! 物分かりが良いふりをして、何も言わせてくれなかったら、謝るに謝れないだろうが!」


 だが、鈴も神器も下ろす気なんて砂粒ほどにもなかった。もつれそうになる足を意志の力で動かし、前に進み続ける。


「あんなの……馬鹿みたいな八つ当たりに決まってるだろ。本気で言ったんじゃない。……俺は鈴みたいに大人になれないから、これからも鈴を傷つけるようなこと言うかもしれないけど……そういう時は、鈴も遠慮しないでぶつかってこいよ。これからはちゃんと、喧嘩しよう」


 今までの伊月たちは、喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかった。意見が衝突しそうになると、いつだって鈴が一歩引いてくれていたから、争わずに済んだのだ。


 しかし、それではきっと駄目だったのだろう。たとえ、互いを傷つけ合う結果になったとしても、本音でぶつかり合う必要がある場合も、おそらくあるのだ。


「だから……もういいの、じゃねぇよ。さっきみたいにちゃんと言ってくれなきゃ、俺、鈴みたいに頭良くないから、察してなんかあげられない」


 鈴の両足を抱えている手から力が抜けそうになり、慌てて背負い直す。崩れかけた姿勢も持ち直し、周囲に広がる闇に目を凝らす。


「帰る場所がないっていうなら……俺が、鈴の帰る場所になるから。だから、一緒に帰ろう。鈴」


 先程よりも、呼吸が荒くなっていく。これ以上、体力を削るわけにはいかないから、ここから先はもう口を開くべきではない。


 伊月が口を噤んだら、耳元からすすり泣く弱々しい音が聞こえてきた。でも、応えられるだけの余裕が今の伊月にはないから、沈黙を貫く。


 全身が鉛のように重い。一歩踏み出すことが、次第に困難になっていく。嫌な汗が毛穴という毛穴から噴き出し、身体から熱を奪っていく。


 夜行性の野鳥が活動しているのだろうか。周囲の木々から、羽音や鳴き声が聞こえてくる。幸い、人を害する生き物が近づいてくる気配はないものの、いざという時は伊月が戦わなければならない。


 だが、先刻宣言した通り、鈴と一緒にここから帰るためには、意地でも踏ん張らなければならない。戦闘が回避できない時には、この状態でも神器の剣を手に敵に立ち向かわなければならない。


(鈴……大丈夫だ)


 口には出せないから、心の中で呟く。


(絶対に……俺が、母さんたちのところに一緒に連れて帰るから。だから、何も心配するな)


 一体、どれほど歩き続けたのだろう。最早、足の感覚を失い、鈴や神器の重みもよく分からなくなってきた。


 しかし、徐々に朝日が昇ってきた。辺りが明るい光に照らされていき、視界が開けていく。

 朝焼けの眩しさに瞬きを繰り返せば、明瞭になった視界の先に山の麓が見えてきた。

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