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裏切りの片割れ月  作者: 小鈴 莉子
五章 かぐや
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鬼女

 咄嗟に長女の名を呼ぼうとした矢先、空を切り裂く鋭い音が聞こえてきたかと思えば、あちこちから断末魔の悲鳴が上がった。


 はっと正気を取り戻し、惨たらしく切断された遺体が転がる中に立ち尽くす、唯一無事だった九番目の娘に素早く駆け寄り、片膝を地につけると、守るように抱え込む。


「ねえ……どんな気分?」


 初めて耳にする、嘲りを多分に含んだ母の声に、おそるおそる振り向くと、瞳孔が開ききった黄金の瞳がかぐやを睥睨(へいげい)していた。


「私はあの人も、故郷に戻る資格も失ったというのに……それに引き換え、あんたは国の頂点に立った男の寵愛を受けて、煌びやかな装束を着て、多くの人間に(かしず)かれて、子宝にも恵まれて……ねえ、今、どんな気分なの?」


「お……母、様……?」


 かぐやの唇から零れ落ちてきた声は、ひどく掠れていた。


「さぞかし、いい気分だったでしょうね? わざわざ、ここまで戻ってきたのは、私に見せびらかすためかしら?」


「何を、言って……」


 本当に、母は何を言っているのだろう。

 確かに、子宝には恵まれたし、母に孫娘の顔を見せたいという気持ちもあった。娘たちを自慢したい気持ちも、皆無ではなかった。


 だが、後宮での生活は決して幸せなわけではなかった。むしろ、かぐやにとっては苦痛に感じることの方が多かったくらいだ。


「こうならないためにも、ずうっとあんたを人目につかないようにしてたのに……山奥に隠しておいても男を引き寄せるなんて、ほんっとうに虫にたかられる花みたいな娘ね。しかも、そんなにたくさんの子供を産むなんて……汚らわしい売女め」


 母は、かぐやを守るためにあの庵の中に閉じ込めていたのではなかったのか。何故、子供を多く産んだだけで、そんな汚物でも見るような目をするのか。


 しかし今、かぐやの腕の中で、末娘が震えているのだ。湧き上がってきた疑問と向き合うのは、今ではない。


 せめて、この子だけでも守らなければと、さらに抱き寄せたら、母の右手が緩慢とした動作で持ち上がった。


「ねえ、かぐや――」


 かぐやが身構える猶予すら、母は与えてくれなかった。

 また旋風(つむじかぜ)が迫ってきたかと思えば、ごとりと重いものが落下する音が耳朶を打つ。


「――私……私よりもずうっと美しく成長したあんたが……憎くて憎くて、たまらなかったのよ」


「ぇ、あ――」


 自分を盾にしてでも守り抜こうとしていた娘の首が、地面の上に落ちていた。それどころか、娘の身体に回していたかぐやの腕も、大量の血液を撒き散らしながら地面の上に転がっていた。


「ぁ、ぐ……ああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 状況を認識して初めて、両腕を失った肩口にひどい激痛が走った。とてもではないが、体勢を保っていられなくなり、血の海が広がる地面に倒れ込む。その衝撃でまた、激しい痛みが全身を駆け巡り、絶えず叫び声を上げる。


 ――痛い、苦しい。誰か、助けて。


 自然と涙が込み上げてきて、視界が滲む。

 でも、ぼやけた視界でも、夜空に浮かぶ美しい月を捉えることはできた。


「なあに、その様……地面の上でそんなに苦しそうにのたうち回っちゃって……まるで、死に損ないの虫みたいね? 美しさなんて、欠片も見受けられないわ」


 母が近づいてきたかと思えば、切り落とされた腕の断面を容赦なく踏みつけられた。再び、喉の奥から絶叫が(ほとばし)る。


「見るに堪えない姿ね……。もう少しその姿を堪能しようかと思っていたけれど……この叫び声を聞き続けるのは、ちょっと、ねぇ……」


 母の足が退き、再度そのしなやかな腕が持ち上がる。


 ――殺される。


 だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、この苦痛から解放されるのかという安堵の方が勝っていた。

 しかし、母の手はかぐやではなく、自身の首に向けられていた。


「一思いに、楽になんてしてあげないわ。もがき、苦しみ、呪い――そして、死にゆけ」


 そう告げた直後、母の白く細い喉に裂傷が走る。そこがぱっくりと割れるように開き、鮮やかな赤が溢れ出す。


 母の艶やかな赤い唇は――ひどく醜い笑みの形に歪んでいた。そして、その豊満な肢体がゆっくりと倒れていく。


(どう、して……どうして、なの……?)


 ――一体、どこで何を間違えてしまったというのか。


 かぐやはずっと、母に守られていたのだと思っていた。愛されているのだと、信じて疑わなかった。

 だから、今度は自分が母を守るのだと、人間にこの身を差し出したのだ。

 それなのに、かぐやの献身は何の意味もなく、何もかも無駄だったというのか。


 愛する夫の死が、母を変えてしまったのだろうか。それとも、とっくの昔に――愛する人と添い遂げるためだけに故郷を捨てたその時から、もう母の心は壊れていたのだろうか。

 もう、何も分からない。真実を知りたくても、母の口は永遠に閉ざされてしまった。


 のろのろと視線を動かせば、こんな惨劇が繰り広げられた後でも、月は煌々と無慈悲に輝いていた。


 徐々に、視界が暗く狭まっていく。これだけ大量の血を流したのだから、命の灯火が消えようとしているに違いない。

 迫りくる闇に身を委ね、思考も意識も手放し、目を閉じた。



 ***



 ――遠くから、人の声が聞こえる。


 ぼんやりと浮上してきた意識がまず捉えたのは、耳が拾った音だった。

 次いで、自分が何か柔らかいものの上に寝かされていることに気づく。

 状況を確かめるため、ゆっくりと瞼を持ち上げれば、見慣れない天井が視界いっぱいに映った。


(ここ、は……?)


 自分は今、一体どこにいるというのか。

 身体に力が入らなかったため、視線だけを巡らせてみると、どこかの屋敷の塗籠で寝かされていたみたいだ。


(何があったというの……?)


 母に両腕を奪われたあの時に、かぐやは息絶えたのではなかったのか。それなのに、どうしてまだ生きているのか。

 母や娘たちの骸は、どうなったのだろう。


 次々と疑問が浮かび上がってくる中、それでも視線を彷徨わせ続けていたら、ふと信じがたいものが目に留まった。


「え……」


 まるで、久しく喉を使っていなかったかのように、唇から零れ落ちてきた声は掠れていた。それに、少し声を出しただけで、喉がひどく痛んだ。


 でも、今はそんなことはどうでもいい。それよりも、自分の視界に映ったものをまじまじと見つめる。


 ――母に切り落とされたはずの両腕が、何事もなかったと言わんばかりに、生えていたのだ。


 試しに、おそるおそる指先を動かしてみたが、何の支障もない。ぎこちなく腕を持ち上げてみても、痛みはおろか、違和感すら覚えなかった。


 その上、夜具の上に散っているかぐやの長い髪は、さながら老婆のごとく、ごっそりと色素が抜け落ちて真っ白になっていた。


 ――本当に、自分の身に一体何が起きているというのか。


 以前と何も変わらない両腕と純白の髪を呆然と眺めつつも、そっと上体を起こす。全身が倦怠感に包まれていたものの、腕や髪以外には何の異常もない。


 そのまま、夜具の上に座り込んでいたら、だんだんとこちらへと足音が近づいてきた。

 身構える気力もなく、呆けたままその音に耳を傾けていると、不意に足音が止んで塗籠の戸が開かれた。


 戸が開かれた先では、女房らしき女性が立っていた。

 向こうは、かぐやが起きているとは夢にも思わなかったに違いない。かぐやと視線が交錯するなり、その目が驚愕に見開かれていく。


 そして、その表情は――何故か、恐怖に引きつっていた。


「ば、化け物……!」


 そう小さく叫んだかと思えば、勢いよく戸が閉ざされた。それから、優雅さや品の良さを求められる女房には似つかわしくない、ひどく慌てた荒々しい足音が、あっという間に遠ざかっていく。


 失われた両腕が再生されたことは、確かに驚異的な出来事だ。だから、化け物と呼ばれたのだろうか。


 後宮でそう呼ばれることにすっかり慣れてしまっていたため、そういうことかと思っていたら、もう一度慌ただしい足音が鼓膜を揺さぶってきた。今度は女房の足音ではなく、男性のものみたいだ。


 そして、やはりまたかぐやに何の断りもなく引き戸が開かれたかと思えば、一人の年老いた男が奇妙なほど爛々と輝かせた双眸をこちらに向けてきた。


 その視線に既視感を覚えた直後、その男が何者なのか理解し、思わず息を呑む。


「な、んで……ど、して……」


 ――どうして、あの日かぐやを連れ去ろうとしていた貴族の男が、ここにいるのか。


 年齢を重ねた肌には皺が刻まれ、若い頃とは少し顔立ちが変わっていたため、すぐには相手の正体が分からなかった。

 だが、この目は見間違いようがない。


 座り込んだままではあったものの、じりじりと後退り始めたかぐやとは対照的に、男は距離を詰めてきた。それから、壁際へと追い詰められたところで、皺だらけの手に頤を掴まれた。


「――ああ、やはりそなたは美しいな」


 気のせいだろうか。昔とは違い、男が吐き出す息から腐臭めいたものが漂ってくる。そのせいで、つい表情を歪めてしまったかぐやを余所に、男は言葉を継ぐ。


「髪は白く、瞳が赤い色に変わってしまったのは惜しいが……それらを補っても余りある美しさは、さすがだ」


「――え」


 続けられた言葉に、思わず目を見張る。


「瞳が赤くって……どういうこと……?」


 そう問いかければ、男は怪訝そうな表情を浮かべ、何故か女房を呼び寄せた。そして、呼ばれた女房に鏡を持ってこさせると、かぐやへと鏡面を向けた。


 丁寧に磨き抜かれた鏡面には、かぐやにとって見慣れた暗緑色の瞳ではなく――柘榴の実のように、あるいは血のように鮮やかな赤い両の瞳が映っていた。


 これでは、まるで――鬼女そのものではないか。


「主上にそなたを独占され、我々がどれほど口惜しい思いをしていたか、そなたは知らないだろう」


 かぐやに向けていた鏡を傍らに下ろしながら、そう声をかけられても、答えられるだけの気持ちの余裕など微塵もない。


「だが、あの忌々しい主上はようやくお隠れになった。後宮から逃げ出したそなたの行き先など、一つしかない。だから、そなたを捜し出すことは造作もなかったのだが……あの状態では、死は免れないだろうと、半ば諦めていた。だが――」


 男は心底嬉しそうな笑みを浮かべ、かぐやの頬をするりと撫でた。


「――そなたは一年かけて、両腕を復活させた。誠に、不思議な娘よ」


「いち、ねん……?」


 再び突きつけられた衝撃的な事実に、自然と声が震える。


「私は……一年もの間、眠っていたというの……?」


「ああ、そうだ」


「……娘は」


 かぐやの頬に触れる手を振り払い、男の胸倉に掴みかかる。


「娘は、どうしたのです? 母は? あの山に――」


「――あんな大量の生ごみなど、捨て置くに決まってるだろう」


 返ってきた答えを耳にするなり、男の胸倉を掴んでいた手に力が抜けていく。そのまま、掴んでいた胸倉を放し、力が入らなくなった手をだらりと下げる。


(生ごみ……? 私の大切な娘たちが……? 大切だった母も……?)


 今すぐにでもここから飛び出し、あの山に帰りたい。

 しかし、今帰ったところで、置き去りにされた娘や母の遺体は、野の獣たちの餌食にされてしまったのだろう。もう、埋葬することも叶わない有様になっているに違いない。


「ああ……かぐや、今度こそ手放すものか。ずっと、ずっと、共に暮らそう」


 年老いた男に抱き寄せられても、今のかぐやにはもう抵抗する気力すら残されていなかった。

 でも、これは地獄の始まりに過ぎなかったのだ。

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